シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「推し」とナルシシズム

 

 
最近、いや数年前から「推し」という言葉をよく耳にする。10~25年以上前にオタク界隈で流行っていた「萌え」に比較すると、「推し」には公言しやすさがあり、あしざまに言われることは少なく、より広い範囲で用いられているようにみえる。そして不特定多数と一緒にキャラクターやタレントを応援すること、ひいては「推し」にお金や時間や情熱をつぎ込むことが良いことのように語られている。
 
いつの頃からか、時代の合言葉のようになった「推し」。
では人はなぜ「推す」のだろう?
 
もちろん「推し」などと言わなくても、昔から芸能界のファンには「推し」とよく似たことをやっている人々が存在していた。さまざまなジャンルの愛好家にもいただろう。ではなぜ、今、「推し」が時代の寵児のように語られているのだろう?
 
そのあたりも含め、この文章では「推し」についてナルシシズム(自己愛)をキーワードとして書いてみる。
 
 

「推し」は承認欲求よりも所属欲求に近い

 
その前に少し遠回りかもだが、「推し」をマズローの言葉で表現してみよう。「推し」を推したい欲求は、承認欲求よりも所属欲求に近い。一方、推されてキラキラするのは承認欲求に近く、実際、大勢から推されることで心理的に充たされたと感じる人は、そのとき承認欲求が充たされている。推されてもプレッシャーに負けず、キラキラして応援を自分の血肉にできる人は承認欲求の充足を自分の力に転換する力の強い人だと言えるし、カリスマたるもの、そうでなければならないだろう。
 
しかし「推す」側はそうではない。どれだけ熱心に「推し」を推しても、自分自身がキラキラすることはないし承認欲求が充たされることもない。にもかかわらず人々が「推し」を推すのは、承認欲求とは別の社会的欲求が介在しているからで、これは、マズローの欲求段階説でいえば所属欲求ということになる。
 
自分自身が褒められたり推されたりするばかりが心理的に充たされる経路ではない。「推し」はその最たるもので、推しを推している時、人は自分自身の承認欲求のことを忘れていられる。実際、ライブなり演劇なりに夢中になっている時や、誰かのファン活動をやっている時には、自分が承認されていないとか、自分が推されていないとか、そういう不満を持つ人はあまりいない。
 
 

「推し」とナルシシズム

 
「推し」は所属欲求、ここで考えるのをやめてしまうのも手ではある。
 
だが、もう少し理解を広げるために「推し」とナルシシズム(自己愛)について考えてみよう。ナルシシズムについては第一にフロイトが、第二に自己愛パーソナリティについて専心したH.コフートが議論を発展させてきた。フロイトが語ったナルシシズムは不健康・不健全とみなされがちだったのに対し、コフートが語ったナルシシズムはあらゆる人に適用できるものだったので、ここではコフートに沿ったかたちで説明をしていく。
 
マズローが社会的欲求を承認欲求と所属欲求(と自己実現欲求)に分類したように、コフートはナルシシズムを充たしてくれる対象を鏡映自己対象、理想化自己対象、双子自己対象に分類した。特に前二つについてはかなり色々と書き残している。
 
ナルシシズムというと大げさに聞こえるかもしれないが、要は、「人間って、だいたいこの三分類のどれかに相当する対象をとおして社会的欲求を充たしているよね」ってことだ。先回りして言ってしまえば、「推し」の対象とは、理想化自己対象である。ときには双子自己対象としての意味合いをも帯びているかもしれない。
 

 
鏡映自己対象とは、自分のことをほめてくれる・見ていてくれる・大事にしてくれる、そのように体験される対象だ。最も典型的には、乳幼児にとっての母親や母親的役割の養育者がそうだろう。成長してからは、自分を評価してくれる友達やライバル、自分に「いいね」を付けてくれる相互フォローの人、自分のことを推してくれる人、などがここに含まれるだろう。付き合ってくれる異性も、多かれ少なかれ鏡映自己対象として体験されがちで、それが目当てで異性を必要とし続ける人もいる(ただし、そのような男女は、モテるタイプでもモテないタイプでも見透かされるものだ)。鏡映自己対象を介してナルシシズムを充たす体験は、だから承認欲求を充たす体験によく似ている。
 
いっぽう理想化自己対象とは、自分が尊敬したり憧れたりする対象を指し、「推し」*1も理想化自己対象に相当する。「推し」を推す時、私たちはなんらか心理的に充たされた気持ちになるし、そのとき承認や鏡映自己対象を欲しがる欲求はなりをひそめるが、それは理想化自己対象である「推し」をとおしてナルシシズムが充たされているからだ。
 
ナルシストというと、世間的には自分のことを褒められたがる人や特別扱いしてもらいたがる人、マズローでいえば承認欲求を、コフートでいえば鏡映自己対象を他人に求めてやまない人というイメージが先行するかもしれない。しかしそれだけではない。何かを熱烈に持ち上げずにいられない人、「推し」を推さずにいられない人もナルシストだ。たとえばカルト集団の教祖と、それに熱をあげている信者は、教祖も信者も熱烈なナルシストである。
  
ここまで読んだ人は、「それならマズローだけでいいじゃないか」と思うかもしれない。確かにここまでの話では承認欲求/所属欲求と大きくは変わらない。けれどもマズローになくてコフートにあるものもある。それは、ナルシシズムの成熟の問題、社会的欲求を充たすにあたってより社会的に妥当な形式、大人然とした形式に成長していけるかどうかの問題だ。「推し」にしてもそうだと言える。「推し」をうまくやる人もいればうまくできない人もいるし、「推される」側にまわることについても同様だ。そこには巧拙があり、成熟、未熟の問題がある
 
 

はた迷惑な「推し」とナルシシズムの成熟問題

 
コフートは、それまで否定的・病的に語られがちだったナルシシズムについて「いやいや、誰にだってあるものだし、ナルシシズムを充たすのは必要だよ」と主張した人だ。彼の主張はナルシシズムの時代ともいわれた1970~80年代のアメリカ、さらに90年代以降の日本の社会心理学的トレンドに合っていたし、まただからこそ評価された。
 

 
ただし、どんなナルシシズムも同じ行動を生むとは限らないし、それが当人の社会適応の助けになるとも限らない。
 
コフートによれば、そうしたナルシシズムの成熟・成長は、子ども時代にどれだけナルシシズムを充たしてもらえる体験が積み重ねられたかに左右されるといったことを書いているが、このあたり、詳しく説明するときりがないので今回は深入りしない。*2 知りたいなら、少し古いテキストになるが、ナルシシズムについてまとめたアーカイブがあるので以下を参照いただきたい。
 
polar.shirokumaice.com
 
では、ナルシシズムの未熟なままの人・ナルシシズムを充たし慣れていない人の特徴はどういうものか。このうち、特に鏡映自己対象を介してナルシシズムを充たし慣れていない人のイメージは、世間で想像されがちなナルシストのイメージにかなり近い。つまり、自分の実力や立場や社会的文脈に釣り合わないかたちで、自分をもっと褒めてほしい・認めてほしい・推してほしいと端々に出てしまうタイプである。これ以外にも、自己主張こそしないけれども腹のなかではそう思い続けてくすぶっているタイプ、本当は自分は皆に喝采されるべきなのに周囲や世の中がそうしてくれないと不満をため込んでいるタイプもある。いずれの場合も、褒められたい・認められたいというナルシシズム的な欲求と等身大の自分自身と社会状況とのバランスが取れないまま成長してしまった人、とまとめてしまって構わないかもしれない。
 
理想化自己対象を介してナルシシズムを充たし慣れていない人の場合は、それはそれで周囲が困ったり自分自身が苦しんだりすることが珍しくない。
 
たとえば「推し」に入れ込み過ぎて自分の気持ちがコントロールできない人。そのアンコントローラブルな気持ちは金銭的なトラブルを生むかもしれないし、ファンコミュニティのメンバーにカルトな忠誠を強要するかもしれないし、「推し」の言動が自分自身の理想から僅かでもズレているだけで文句を言う厄介なファンとなるかもしれない。推しを推しているようには傍目にはみえず、「推し」をストーキングしているとか、「推し」に加害行為を企てているようにしかみえない場合もある。
 
こうしてナルシシズムが未熟なままの人は、鏡映自己対象を介した充足でも理想化自己対象を介した充足でも他人や社会との摩擦を起こしやすい。「推し」の現場でも、「推し」を巡ってトラブルメーカーになっている人は見かけるんじゃないだろうか。やたらと自分自身を褒められたがっているナルシストもきついが、「推し」を過剰なまでに理想視したり、「推し」に過剰なまでに入れ込んで思いどおりにあって欲しいと願い過ぎるナルシストもきつい。
 
 

「推す」にも「推される」にも習熟と社会性の付与が必要だ

 
ここまで読めばわかるだろうが、自分自身が称賛や承認を欲しがり過ぎてしまうナルシストも、「推し」や周囲の他のファンにあれこれうるさすぎるナルシストも、一点で共通している。つまり、ナルシシズムの未熟なままのナルシストは自己中心的で、対象に「自分の思いどおりであって欲しい・あるべきだ」と望む度合いがとても高いのである。その望みの高さゆえに、他人に対して空気を吸うように過剰な称賛を求めてしまったり、逆に極度に引っ込み思案になったり、「推し」を理想化しすぎた態度を取ってしまう。
 
鏡映自己対象を介してナルシシズムを充たすことにあまり慣れてこなかった人、理想化自己対象を介してナルシシズムを充たすことにあまり慣れてこなかった人には、こういうことはありがちだ。コフートは、こうしたナルシシズムの成長・成熟のいちばん重要な時期として幼児期を挙げたが*3、それだけでなく、ナルシシズムの成長は生涯にわたって続くものだ、とも述べている。私もそう思う。若い頃はスタンドプレーが鼻についた人が成長するにつれて分別を身に付けるとか、他のファンに敬遠されるようなファン活動から広く受け入れられるファン活動に変わっていくことは珍しくないからだ。
  
 

承認欲求一辺倒への反動としての「推し」

 
理想化自己対象を介したナルシシズムの充たし方は21世紀に特有のものではない。むしろ20世紀以前の村落共同体、昭和時代だったらプロ野球の応援、武士の時代なら忠誠をとおして充たされていたもので、本来、21世紀の私たちに比べて昔の人々は理想化自己対象をとおしてナルシシズムを充たす経験蓄積の機会が豊富だった。逆に、当時の人々が鏡映自己対象をとおしてナルシシズムを充たす経験蓄積の機会が乏しかったとも言える。個人主義とそれにふさわしい心性が広まる前の日本で、自分自身が褒められたい・推されたいと目立つのは難しかっただけでなく、危険だったに違いない。昔の人々は私たちよりずっと理想化自己対象をとおしてナルシシズムを充たすことに慣れると同時に、慣れなければならなかった。
 
それが、個人主義とそれにふさわしい心性が広がるにつれて、20世紀末から21世紀にかけて理想化自己対象をとおしてナルシシズムを充たさなければならないニーズは減っていった。理想化自己対象をとおしてでなくても、自分自身が直接褒められたり認められたりできる時代が到来したからだ。20世紀末から00年代あたりの日本は、自己実現と自己責任の時代であると同時にミーイズムの時代、誰もが褒められたい・認められたい・「推されたい」と願う時代だった。鏡映自己対象をとおしたナルシシズムの充当が持てはやされ、理想化自己対象をとおしたナルシシズムの充当が不当なほど軽視された時代。当時、マズローの欲求段階説を語る人のほとんども、自己実現欲求や承認欲求といった自分自身がキラキラできる欲求に目を奪われ、所属欲求を無視したり軽視したりしていたと思い出される。
 
だが、それはアンバランスな着眼だ。マズローもコフートも、自分自身が褒められたり推されたりする側にまわる欲求充足だけに注目したのではない。誰かを推す、誰かを理想視したりリスペクトしたりする欲求充足も重要で、大きなモチベーション源になる。その点、ここに来て「推し」というかたちで理想化自己対象をとおしたナルシシズムの充足が揺り戻してきたのは、自然だし、健全なことでもある。誰もが・常に推される側にまわれる社会ではないのだから、推されたいという欲求と推したいという欲求のバランスは再調整されたほうがみんなナルシシズムを充たせるだろう。
 
のみならず、「推し」はリツイートやフォロー被フォローといったSNS的繋がりが普及する時代にもフィットしている。「いいね」されたりやリツイートを集めたりする欲求だけでなく、「いいね」したりリツイートをしたりする欲求が台頭している今、後者の欲求を充たす機会を提供してくれる理想化自己対象が「推し」と呼ばれて一般化したのは理解できることだった。
 
インフルエンサーが世にはばかる時代とは、インフルエンサーを推す人々が存在し、インフルエンサーを推す欲求が台頭している時代でもある。それは、長嶋茂雄や王貞治や横綱大鵬が理想化自己対象として機能していた時代とは、似て非なるどこかだ。そういう視点で「推し」という現象を眺めた時、今日の日本社会はどのように読解可能だろうか。そして令和時代の日本人の心性は、平成時代のそれと異なるどこへ、向かっていくのだろうか。
 
いや、ゴチャゴチャした話はここまでにしよう。
どうあれ、推しを推したい欲求は、自分自身が褒められたり推されたりしたい欲求と同じぐらい普遍的なもので、そもそも世の中は、推したり推されたりして成り立っている。そういう意味において、「推し」は根源的な欲求充足の様式だといえるし、その全体を病的だ異常だと呼ぶのは、あまりうまい論立てではないだろう。
 
 
[関連]:みんなで“おみこし”を担ぐ社会、再び - シロクマの屑籠
 
[追記]:「萌え」ってなんだというコメントを id:korekurainoonigiri さんからいただきました。

前半でさらっと終わってしまったけど、じゃあ「萌え」ってなんだったの?という疑問がさいごまで残りました。じゃあ「萌え」ってなんだったの?

https://b.hatena.ne.jp/entry/4737926966752318533/comment/korekurainoonigiri:

 
ちょうど、コフートのナルシシズム論に基づいて「萌え」についてまとめたテキスト集があるので、こちらを勧めてみます。→オタクとサブカルチャー関連のテキスト――汎用適応技術研究




 

*1:ここでは、推す行為のことではなく、推される人物やキャラクターを指す

*2:補足:ただし、ナルシシズムの未熟/成熟とは別に、精神疾患の介在がこの問題を修飾することは珍しくない。たとえば統合失調症や双極性障害をはじめとする精神疾患は、ナルシシズムに関連した個人の行動を大きく変えてしまう。また、フロイトやコフートの時代には発達障害は意識されていない。ただ、少なくとも右のように言うことができるはずだ:発達障害によって親子関係がこじれた結果、ナルシシズムの成長機会が得られにくくなってしまった、そのような発達障害を持っている人は結構いるだろう、と。

*3:ちなみに幼児期以前ももちろん大切だとコフートは認識している。幼児期以前にもし問題が生じるなら、ナルシシズムの成長・成熟よりもっとベーシックで重要な心理発達上の問題が懸念されるとコフートは認識していた。こうしたことは、特にコフート『自己の分析』によく書かれていることだ