シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「後藤ひとりと喜多郁代はよくできたナルシスト」って説明した時の話

 
 
昔、ある編集者さんと「いいね」や「推し」について喋っていた時に、「『いいね』も『推し』も有害なんじゃないですか?」といった質問をいただいたことがありました。
 
「そんなことはありません。有害になってしまう人もいるけど、ほとんど無害な人もいるし、有益になっている人もいますよ」と私は答えました。なるほど、『いいね』や承認欲求のために迷惑なことをする人もいるし、金銭的・社会的に破綻するような推し活しかできない人もいます。でも、そんな人は少数派でしかなく、世の中にはそれらを飛躍の原動力にしている人だっています。
 
このことを編集者さんにわかりやすく説明をしなければなりません。そのとき、私の脳裏に『ぼっち・ざ・ろっく!』の結束バンドの四人組、なかでも後藤ひとり(通称・ぼっちちゃん)と喜多郁代(通称・喜多ちゃん)が脳裏に浮かびました。
 

 
この編集者さんも『ぼっち・ざ・ろっく!』が好きだったことを踏まえて、私は説明しはじめました。
以下の文章は、そのときの説明を文章化したものです。
 
 

1.『いいね』と承認欲求と後藤ひとり

 
『ぼっち・ざ・ろっく!』の主なメンバー、結束バンドの4人って全員が特徴的で魅力的ですが、"承認欲求モンスター"といえば、ぼっちちゃんこと、後藤ひとり。人目を気にして怖がりな一面と勝負どころで生き生きと演奏する一面を持ち合わせ、ときどき自分が壇上でスポットライトを浴びている空想や妄想に耽るぼっちちゃんって、案外ナルシストだと思いませんか。その本当はナルシストな彼女が承認欲求をみたしたがるのは、つじつまの合った話ですよね。
 
ただ、ナルシストとしてのぼっちちゃんって、実はすごくないですか。
 

 
ぼっちちゃんは、喜多ちゃんをはじめとする他の結束バンドメンバーからも、きくり姐さんからも、ライブに来ているお客さんや動画視聴者からも、承認欲求をみたしてもらっています。その結果、ナルシシズムだってみたされているでしょう。人間にびくびくしているところがある反面、肝心なところでは自分に集まる視線や期待や承認をプラクティスや演奏の力に転化する才能があるんですよね。その結果、↓
 

 
↑こんな風なわけですよ。こういう時のぼっちちゃん、ひたすら格好いいですよね。
これは、誰にでもできることではありません。ぼっちちゃんは、承認欲求を自分自身の力に変える才能や素養のある人として描かれているって思います。スターダムを駆け上っていけるタイプではないでしょうか。彼女は空想癖がひどくて「いいねくれー」な承認欲求モンスターですが、その承認欲求を自分の力に変えるという点でもモンスターだと言えそうです。
 
 

2.推しと星座になれたら──喜多郁代のナルシシズム

 
ぼっちちゃんに限らず、結束バンドのメンバーには多かれ少なかれナルシストな一面があって、例えば山田リョウの挙動にもナルシストみが感じられます。お茶の水のギター屋さんでの挙動とか、そんな感じですよね(でも、それがいい!)。
 
ところでナルシストが必ず承認欲求にがつがつしているとは限りません。 not 承認欲求なナルシストの成功例っぽい人が結束バンドにはいます。それは、喜多ちゃんこと喜多郁代さんです。
 
喜多ちゃんみたいな社交的で運動もできてポジティブな人は、比較的承認欲求がみたされやすいでしょう。でも、喜多ちゃん自身は承認欲求モンスターとしては描かれていません。明るく振る舞う努力はしていますが、「『いいね』くれー!」みたいな雰囲気からは遠い感じがします。
 
でも、喜多ちゃんにもナルシシズムに関係のあるモチベーション源があるんですよね。それは承認欲求よりも所属欲求、そして「推し」です。
 

 
喜多ちゃんは山田リョウに憧れて結束バンドに参加し、ぼっちちゃんをお師匠としてリスペクトしながらギターを練習しました。喜多ちゃんは自分が褒められたり評価されたりすることに慣れてはいるけれども、そちらが行動原理になっている一面は作中ではあまり目立たず、自分のことを凡人だと認識していました。そのかわり、山田リョウやぼっちちゃんへの憧れやリスペクト、それと"結束バンドという星座"への所属が喜多ちゃんをモチベートし、練習を促し、上達させていました。
 
ナルシストやナルシシズムというと、つい、自分が褒められること・承認欲求をみたすことを連想するかもしれません。ですが、フロイト以来発展してきたナルシシズム論にもとづいて考えるなら、それだけじゃないんです。誰かに憧れること・誰かをリスペクトすること・誰かを応援し続けることもナルシシズムの一部だったりします。所属欲求をみたす体験や「推し」を応援する体験もナルシシズムをみたしてくれるんです。なんなら、親が子を思う気持ちにすらナルシシズムが含まれていると言えます*1
 
そうした目線で喜多ちゃんを見ると、彼女は山田リョウやぼっちちゃんに憧れやリスペクトの目を向けたり、結束バンドの一員だったりすることでナルシシズムをみたしています。でも、それだけではありません。ぼっちちゃんが承認欲求をプラクティスや演奏力に変換できているのと同じように、喜多ちゃんは、山田推しやぼっちちゃん推しをプラクティスや演奏力に変換できています。ぼっちちゃんのスター的な才能とはちょっと違いますが、これはこれで凄いことだと思います。喜多ちゃんタイプの人は、「推し」を推すことをとおして努力したり技能習得できたりできるのです。これはこれで立派な才能や素養だと思います。
 
 

「推し」も「いいね」もナルシシズムも、それ自体が悪いわけじゃない

 
こんな風に、ぼっちちゃんと喜多ちゃんがそれぞれ、承認欲求/所属欲求を、ひいてはナルシシズムをみたしながら成長し活躍できている様子を編集者さんに説明しました。世の中には「いいね」や「推し」で人生や生活を破綻させてしまう人がいて、そのあたりがたびたび批判されています。それとは対照的に、ぼっちちゃんや喜多ちゃんは心理的充足が破綻をまねくのでなく、それらのおかげで活躍できています。彼女たちのような素養を持った人は現実にもたくさんいて、いろいろな方面で活躍しているものです。
 
ですから「推し」や「いいね」やナルシシズムそのものを悪とみるのはちょっと違う、と私は思うのです。それらを欲しがる・充たしたがることで自己満足以下の災厄をもたらしてしまう人もいれば、自己満足以上の豊かな実りをもたらす人もいるわけですから、心理的充足についてまわる巧拙こそが問題、と考えたほうが実地に合っているのです。
 
そうしたことを編集者さんにお話ししたのがきっかけで『「推し」で心はみたされる?』という本ができあがりました。
 

 
「推し」で心はみたされるか?──たとえば、出会ったこともない遠くのインフルエンサーを推したり、際限なくお金をせがむホストを推したりしても、刹那的な自己満足以上のものは得られにくいでしょう。なかには、「推し」を推しているうちに気持ちが制御不能になり、逆恨みしてしまう人さえいます。なるほど、「推し」が自己満足以下の災厄を招いてしまう危険は確かにあると言えます。
 
でもそれだけではありません。喜多ちゃんにとっての山田リョウやぼっちちゃんのような、身近な「推し」を推す活動が首尾よくいくと、自己満足以上の実りをもたらします。喜多ちゃんのようにうまく「推せる」人と、自己満足以下の災厄を招いてしまう人をわける分水嶺はどこにあるのでしょうか?
 
同じことが「いいね」や承認欲求についても言えます。確かにぼっちちゃんは「いいね」くれーな人ですが、彼女にはそれを飛躍の原動力にする才能や素養があります。ぼっちちゃんのように「いいね」や承認欲求を飛躍の原動力にできる人と、自己満足以下の災厄を招いてしまう人をわける分水嶺はどこにあるのでしょうか?
 
そして、ぼっちちゃんや喜多ちゃんのように心理的充足がスキルの習得や実力の発揮に直結するためには、いったい何が必要なのでしょう?
  
人間は、「いいね」や「推し」を求めるようにできていて、ナルシシズムとも無縁ではいられません。それらを否定したってしようがありません。私は、それらを無理に否定するよりうまく生かしたい・うまく生かせるようになっていきたいと考える人間の一人です。ぼっちちゃんと喜多ちゃんを見ていると、「いいね」や「推し」を味方につけられる人の可能性ってこういう感じだよね、と思わずにいられません。あの二人、ひいては結束バンドのメンバーにあやかりたいものですね。
 
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※大阪のトークライブハウスで『「推し」で心はみたされる?』関連のおしゃべりをします。ご興味のある方はどうぞ→ https://lateral-osaka.com/schedule/2024-02-04-10937/
※東京・阿佐ヶ谷のロフトでもおしゃべりします。ご興味のある方はどうぞ→ https://t.livepocket.jp/e/jvv67
 

*1:ここまでで察せられるかとは思いますが、私はナルシシズム=悪い とも、ナルシスト=悪い ともみなしていません