シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

承認欲求モンスター、それは短所か長所か

 

 
昨日の『ぼっち・ざ・ろっく』の感想の続き。というか正月に書き損ねた話でもあったので書いてしまおう。
 
「承認欲求モンスター」についての話だ。
 
昨日の感想文のなかで

『ぼっちざろっく』は、確かに脱臭されまくったロックバンド女子アニメではある。ぼっちちゃんが本当は美少女であるのもずるいことだ。

と書いたところ、はてなブックマーク上で

脱臭された聖域でも、ぼっちちゃんの輝く世界は美しかった──『ぼっち・ざ・ろっく』感想 - シロクマの屑籠

最も現実的(not都合の良い世界)なのがぼっちちゃんが中学時代に異常な練習量を積み上げていること(容姿なんかよりそれが才能)で、むしろそれが活躍の大前提なのは残酷だなとは思う(リョウ、虹夏も中学からの経験者)。

2023/01/07 08:38
b.hatena.ne.jp*1
というコメントがついていた。
 
これは本当にそうだと思う。ぼっちちゃんは中学時代に異常な練習量を積み上げていた。結果、高度な演奏技量を身に付けていく。音楽や数学は先天的素養が大きくモノをいう分野なので、そうした素養にもぼっちちゃんは恵まれていた、とみることもできる。でも、どんな才能の原石も磨かなければ光らない。ぼっちちゃんが異常な練習量を積み上げられたことが大きな力になっているのはそうだと思う。
 
じゃあ、ぼっちちゃんは何故、異常な練習量を積み上げられたのだろう?
 
それは、人に褒められたかったから、認められたかったからだったよう記憶している。第一話のはじめ、ぼっちちゃんがテレビ番組を見て「陰キャでも人気者になれる」と思い、ギターを手にした。そして「私みたいなのでも輝ける」「みんなからチヤホヤされるんだ」とつぶやいていた。ぼっちちゃんがギターを弾き始めた動機が音楽への興味ではなく、他者からの承認だったのは、興味深い設定だと思う。
 
インターネット世間では、こういう「他人からの承認が目当ての活動」は長続きしなさそうで、大成しなさそうで、ときには悪く言われやすいものだ。ところがぼっちちゃんはそうではなかった。承認目当てでギターを買い、結局続かなかった人間なんて世の中にはいくらでもいるだろう。ぼっちちゃんは違った。それは凄いことだ。だとしたらポジティブな意味でもぼっちちゃんは承認欲求モンスターではないだろうか。
 
作中、承認欲求モンスターという言葉が出てきた4話では、それはコントロール困難な、厄介な内面として描かれていた。ぼっちちゃんは言う──バンドをやって人気者になろうとしているこじらせ人間がSNSを始めたら「いいね」を欲しがるモンスターになってしまう、と。現実にも、「いいね」を欲しがるモンスターになってしまう人は後を絶たない。ストレートに「いいね」が欲しいと自覚できるタイプはまだかわいいほうで、ほとんど無意識のうちに、いわばディープラーニングしてしまった結果として投稿が「いいね」が増える方向に引っ張られる、そういうタイプのほうが厄介だ。「いいね」に金銭や影響力が絡むと「いいね」の重力に魂を奪われる度合いはひとしおになる。
 
しかしぼっちちゃんの場合、それは短所といっても自覚的だからまだマシだ。自分の短所を弁えてSNSと距離を取ったぼっちちゃんのあのシーンは、賢いとも言える。
 
SNS以外でも、ぼっちちゃんは他人からの承認、チヤホヤにめちゃくちゃ弱く、溶けてしまいがちだし顔に出てしまいがちだ。それらもまあ、短所とは言えるだろう。人から褒められたり認められたりするのに飢えていて、慣れていなくて、だから自分がコントロールできなくなるから、ぼっちちゃんは承認欲求モンスターと言える。
 
ところがぼっちちゃんは、正反対の意味でも承認欲求モンスターだった。「私みたいなのでも輝きたい」「みんなからチヤホヤされたい」そうした気持ちに導かれて、異常な練習量を積み上げることができる人はあまりいない。もちろん中途からは、父の勧めで動画配信を進めたおかげでもあるだろう。動画配信で「いいね」を獲得し、それをモチベーション源にしながら一心不乱に技量をあげていけるのも、簡単なようで簡単ではない。ここでは彼女の承認欲求モンスターな側面が、圧倒的モチベーションのエネルギー源となっている。
 
承認欲求モンスターゆえのモチベーションとインターネットと音楽についての先天的素養、そうしたものがうまくかみ合わさってぼっちちゃんという奇跡が起こった。そういった全部をひっくるめて考えると、彼女はポジティブな意味でも承認欲求モンスターだと言える。
 
 

承認欲求モンスターで沈むか、浮かぶか

 
褒められたい。
輝きたい。
チヤホヤされたい。
 
それらの欲求に呑まれてしまうとモンスターじみた振舞いになってしまうかもしれないから、人はしばしば、承認欲求やナルシシズムといった社会的欲求に対して控えめであれ、と語る。ランガム『善と悪のパラドックス』によれば、それは狩猟採集社会の時代から必要な態度で、社会的欲求が悪いかたちで目立った者はパニッシュメントの対象になりやすかったのだという。今日でも、そうした社会的欲求をあからさまにする態度にはリスクがあるといえる。
 
じゃあ、そういった欲求が悪いことにしか働かないかといったら、そんなことはない。チヤホヤされたいから頑張り抜ける人もいるし、誰かのつけてくれた「いいね」が背中を押してくれる瞬間だってあるだろう。オンラインでの欲求充足にリスクがあるのは確かだし、私もそういうことを書いてきたが、全部が全部、残念な結果にたどり着くわけではない。なかにはぼっちちゃんのように、オンラインのどこかで貰った「いいね」を頼りにしながら、内実のある活動をやってのける。
 
というより、ぼっちちゃんのような承認欲求モンスターこそ、いまどきの社会では才能を開花させやすく、輝きやすいのではないだろうか。社会的欲求を充たしたいという願いと、もって生まれた才能と、自分にとって居心地の良いオンラインの場を見出してスキルアップしていける、そのような人物像。それは過去に語られたとおりの危険なメンタリティとしてだけでなく、今の時代に適合したタレントとして語られ得るものでもないだろうか。
 
ぼっちちゃんの場合、社会的欲求を充たしたい気持ちに対し、実際に充たせた経験が絶対的に不足していることが、マイナスになっていると同時に怪物じみた努力を可能にしているふしがあり、いびつだけど強いだなと思う。こういう人は、才能に恵まれ、自分にとって居心地の良い場所を獲得しなければ色々と難しいだろうけれども、ぼっちちゃんはそれらが揃って幸いした。
 
そうしたわけで、承認欲求モンスターとは、ぼっちちゃんの短所であると同時に長所だ。呪いとも祝福とも言いたくなるし、それがぼっちちゃんの個性だよね、とも言いたくなる。
 
世が世なら、そのような個性は開花のチャンスを与えられないのかもしれないし、今の世の中にも、ぼっちちゃんによく似た性質を持ちながら、条件に恵まれず、くすぶっている人もいるのだろう。そもそもぼっちちゃんはエンタメの登場人物として整形された、そういうキャラクターだ。
 
でも、タイムラインに目を凝らしてみていると、その承認欲求モンスターという言葉が短所となって転げ落ちていく人もいる反面、ぼっちちゃんのように、圧倒的継続力と才能と承認が掛け合わさって飛躍する人も見かける。承認欲求モンスター。その言葉をマイナスととらえるのもプラスととらえるのも間違いではない。私なら、ぼっちちゃんの活躍にあやかりたいと思う。
 

*1:コメント転記:最も現実的[not都合の良い世界]なのがぼっちちゃんが中学時代に異常な練習量を積み上げていること[容姿なんかよりそれが才能]で、むしろそれが活躍の大前提なのは残酷だなとは思う[リョウ、虹夏も中学からの経験者]。