シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

明後日のガンダム──『ガンダム水星の魔女 第一期』感想

<この文章は『機動戦士ガンダム水星の魔女』一期のネタバレを含みます。ネタバレが嫌な人は読まないようにしてください。>
 

 
 
今週、やっと『機動戦士ガンダム 水星の魔女』を視聴できた。ねとらぼの記事が示しているように、『水星の魔女』の第一期最終話はツイッターのトレンドを埋め尽くすほど話題になって、ネタバレを避けるためにツイッターも避けなければならなかった。というよりトレンドを埋め尽くしていること、それ自体がネタバレで、波乱が予想された。
 
以下、ネタバレにまったく配慮せず、『水星の魔女』を視て思ったことを書き残していく。
 
感想を一言にまとめるなら、『水星の魔女』の第一期は「明後日のガンダム」だった。
 
これからのガンダムを模索しているという意味でも明後日のガンダムだったし、第二期が始まるまで首を長くして待たなければならないという意味でも明後日のガンダムだったし、最終話のガンダムエアリアルが明後日の方向にガンダムらしかったという意味でも明後日のガンダムだった。
 
『水星の魔女』は、主人公のスレッタが女性でミオリネのお婿さんという、そういう設定のガンダムだった。この設定じたい、新しいガンダムを創ろうという決意にみえ、実際、『水星の魔女』は旧来のガンダムはちょっと……という人にもリーチする作品になっているようにみえた。スレッタは面白い人で、姫様めいたデザインのミオリネと二人でいるとらしくみえる、そういう人だった。こういう主人公なのかーと思いながらも、すぐに慣れることができた。
 
思えば、前作『鉄血のオルフェンズ』も前々作『ガンダムAGE』も、新しいガンダムを模索し新しいファン層を獲得するため努力していた。本作からもそうした意欲が感じられ、その意気込みを嬉しく思う。
 
新しいガンダムという意味では、ツイッターで話題になるよう、ストーリーが練られていた。最終話に限らず、放送後のツイッターのトレンドに『水星の魔女』が何度も入ったのはそういうことだろう。視聴者がツイッターでおしゃべりしたくなるつくりは、第一期最終話で最高潮に達した。
 
視聴後に視聴者がしゃべりたくなるつくりは、もちろん『水星の魔女』が最初というわけではない。どのアニメもある程度はそうだし、『まどか☆マギカ』も、『ひぐらしのなく頃に』も、『新世紀エヴァンゲリオン』もそうだった。『ツイン・ピークス』もそうじゃないかという声も聞こえてきそうだ。さておき、ガンダムの系譜のなかでは『水星の魔女』が突出してそのあたりがしっかりしているように見えたし、SNS映えを意識しているようにみえた。
 
そうしたわけで、第一期最終話の視聴後には、スレッタ達がこれからどうなるのか見たい気持ちがたっぷりと残った。第二期を一日千秋の思いで待つしかない。このあたりは、制作陣の狙いどおりなのだろう。
 
第一期の物語は後半になって雲行きが怪しくなり、遂に戦争が始まった。スレッタにとってかけがえのない相棒であり、医療機器としての可能性を象徴していたガンダムエアリアルが人殺しの武器であるさまもくっきりとした。そのあたりも含めて、ガンダムエアリアルはちゃんと「ガンダム」を、それも「主人公が乗るガンダム」をやっていただろうか。
 
ガンダムと銘打たれた作品を視る時、私がいつも意識することが二つある。ひとつはガンプラを買いたくなるようなガンダムが描かれているかどうか。もうひとつはガンダムが(ちょっと反則にさえ思えるパワーをも発揮して)局面を変えていくかどうかだ。
 
ガンダムと銘打たれているからには、ガンプラが売れなければならない。販促キャンペーンとしての側面は歴代ガンダムについてまわる使命だった。別に、視聴者はそんなこと意識しなくてもいいのかもしれないが、思わずガンプラを買いたくなるような、魅入られるようなガンダムであることは、ガンダムという作品にとって大事なことだと私はいつも思っている。
 
後でも触れるけれども、『水星の魔女』のモビルスーツ戦はメチャクチャ凄いわけでなく、視聴者に読み取ってもらうべきメッセージを読み取ってもらえればそれで良し、といった様子だった。モビルスーツ戦に大きな労力を割いて視聴者を魅了しようとしているわけではない、のだろう。とはいえ、ガンダムエアリアルの戦闘シーンではこれが特別なガンダムであり、他のモビルスーツとは違うということを、工夫をとおしてみせてくれていたと思う。くるくる動くガンビットもそうだし、最終話の高エネルギー兵器もそうだ。このガンダムだけが(今のところ)ガンドフォーマットの呪いをみせないのもそうだと言える。
 
そうしたわけで、『水星の魔女』はモビルスーツ戦をローコストで描きつつ、それでもガンダムエアリアルを格好良く特別なモビルスーツとしてみせて、なんとかガンプラを買ってもらおうと頑張っているんだろうと私は感じた。
 
もうひとつのガンダムらしさ、ガンダムが局面を変えていくかという点では……ガンダムエアリアルは確かに局面を変えた。局面は変わってしまったのだ。ただし今回のそれは、明後日の方向からの変え方だった。
 
よくあるガンダムらしさは、最終話にはオーラを放ったりすごい力を発揮したり、ちょっとチート臭くてもいいからガンダムが戦局をねじ伏せたりするものだった。『鉄血のオルフェンズ』の第一期のラストなどは、そんなガンダムらしさがいかんなく現れていたと思う。
 
ところがスレッタの操るガンダムエアリアルがやったことといえば、ノーマルスーツを着た兵士を素手で潰しただけだった。決定的なそのシーンには、オーラもチート臭さもない。ガンダムが巨大な人型兵器であること、その一端がわずかに現れただけで局面が変わってしまった。少なくとも変わってしまったかもしれないように見えた。
 
これも後で触れるけれども、スレッタがガンダムエアリアルで人を殺めるまでの経緯のなかで、スレッタがどう心変わりをしたのか、ミオリネがどうしてあのように反応したのか、私はわかったような、よくわからないような気持ちになっている。それでもスレッタが人殺しへの大きな一線を越えてしまったこと自体は、視聴者にくっきりわかるよう描かれていたと思う。兵士の血の飛び散る床にスレッタが一歩踏み出す描写、グエルの父殺し、血糊に着地してしまうスレッタという流れを見れば、誰にだって彼女が血塗られた道を進んでいると連想するだろう。そのうえで思い出す「逃げれば1つ、進めば2つ」といういつものフレーズは味わい深い。
 
戦争の渦中にあるガンダムパイロットは、しばしば人を殺めてしまう。それ自体、珍しいことではないけれども、コックピットを撃ち抜くとか、モビルスーツ同士の戦いをとおしてそれが起こるとか、そういった事例が多かった。こうした、モビルスーツの巨大さで一方的に人間を潰し、そのことが局面を変えてしまうのは記憶にない。
 
どちらにしても急転直下の展開で、それを第一期の終わりに持ってくるのはなるほどだった。まさかこんな風にガンダムが局面を変えてしまうなんて。第二期を楽しみに待つしかない。
 
 

そのほか色々

 
そうしたわけで、全体としては『水星の魔女』はとても楽しめたし、私のなかでは「これもガンダムだよね」と腑に落ちるものがあった。以下は、もっとまとまらない感想の断片だ。
  
 
・モビルスーツとその戦闘は、『ガンダムAGE』に比べればちゃんと描かれているけれども、気合が感じられるものではなかった。どちらが勝つのかわからないような迫真の戦闘ではない。ただ、筋書きどおりの戦闘を目で追えるよう工夫されているのはみてとれたし、ガンダムエアリアルが登場する場面は他の戦闘よりもアテンションを集中させたくなるような、そういう工夫もあったと感じた。
 
・実弾兵器を巡っての「宇宙を汚す」「汚さない」という台詞、スペーシアンが地球を汚す云々という台詞が唐突と感じた。確かにスペースデブリを出すのも地球を汚すのも問題に違いない。でも、アーシアンとスペーシアンの対立以上の、環境の問題ってそんなに登場していただろうか。公式サイトの用語集を観に行っても、環境をめぐる問題は記されていない。気にしないほうがいいんだろうか? でも作中でそういう言葉が出てきたからには、それは有意味であるはずで、無意味とは思えない。
 
・わからないといえば、なぜスレッタがいきなり人を殺してしまうことになったのか、その筋がわからなかった。母に色々言われたのはわかるし、そのとき何か大事そうなことを言っているようなBGMが流れていたけれども、一般に、そんなに簡単に人が殺せるようになるだろうか? 実際、母に色々言われるまでのスレッタは眼前の殺人にすっかり動揺していたことを思えば、あまりに急な変化すぎる。戦う必要を感じていたからといって、モビルスーツで人を殺し、しかも殺した後に良心に呵責すらみせないスレッタのあの状況は不審だと感じた。母親が何かをやらかしたのではないだろうか。そうでないとしたら、スレッタのあの心境変化には納得がいかない。
 
・他方、ミオリネは状況に怯えていて、父の悪口をつべこべ言いながらも常識的だった。スレッタの、人を殺して血糊まみれになっても笑顔だったさまと好対照といえる。ほかの学生たちも戦争の始まりに大きく動揺していた。それらがまた、スレッタの異様な様子を際立たせている。
 
・地球の魔女、という言葉から何かが察せられるにせよ、結局、母親の考えや手札は伏せられたままだ。シャア・アズナブルやラウ・ル・クルーゼになぞらえるなら、仮面をつけているのは悪役ということになるが。
 
・この作品は学園が主な舞台で、そのためか空間的にちょっと狭い感じがした。コロニー内外の決闘も含めての感触だ。では、学園を出たら狭さが解消されるのかと思いきや、やっぱり狭いままだった。空間的広がり、特に宇宙についての広がりがこの作品からは不思議なほど感じられず、地球・月・コロニーの位置関係や距離感覚もピンと来ない。これは、火星圏~地球圏の広がりをさまざまに描いていた『鉄血のオルフェンズ』とはぜんぜん違っているところで、宇宙世紀系のガンダムシリーズとも違っているところだ。最終話の戦闘もなんだか狭苦しく感じられ、艦隊が5分で駆けつけるという描写があっても解消されなかった。だいたい、あの艦隊はどこから湧いてきて5分で駆けつけたのだろう?
 本作品の力点は、宇宙の広大さを描くところにあるわけではない。それはわかる。でも、いくらなんでも空間的広がりについては紙芝居じみていないか? 『水星の魔女』という以上、いずれ水星圏も出てくるのかもしれないけれども、この空間的描写で大丈夫なのか? 第二期で広大な宇宙空間を意識させるために、第一期ではあえて空間を狭く、広がりを意識させないよう描いたのかもしれない。制作陣がどのような意図でもって空間的広がりが把握しづらいよう作成したのか、意図的な結果なのか意図せざる結果なのか、今の段階では判断がつかない。
 
・登場人物の多いアニメだ。アーシアンの生徒たち、決闘委員会とその取り巻き、ベネリットグループの面々、宇宙議会連合のエージェント、等々。それでもなんとかついていけたが、なかなか大変だ。このすごい数の登場人物たちがこれから何をするのか、今の段階で想像できることは少ない。
 
・結局のところ、第一期を観て何がわかったのだろう? 気が付けば、なにもわからなかったのではないか? 放送後、さんざんツイッターは盛り上がった。人が死んだり、びっくりすることが起こったりしたから。だが、物語の核心に触れる情報についてはほとんど何も出てこなかったのではないか。まるで『ひぐらしのなく頃に』の前半みたいだ。情報面では、大山鳴動して鼠一匹、ツイッター上のから騒ぎでしかなかった。SNS映えする作風として評価できると同時に、もしもSNS映えしかない作品だったら嫌だなぁ、という危惧もある。本作品がツイッター上のから騒ぎでしかないのか、傑作の輪郭がこれから露わになってくるのかも、今の段階では情報不足のために想像できることがすごく少ない。
 
・たくさんの登場人物を御し、スレッタやミオリネをはじめ魅力あるキャラクターを動かし、新しいガンダムをやっている。そこまででも立派だけど、それが第二期をとおしてどう転がるのかは予断を許さない感じだ。『鉄血のオルフェンズ』も対モビルアーマー戦あたりまでは相当のものだったわけで、結局全話終わってみるまでわからない。ともあれ、21世紀ガンダム最高傑作の誉れある作品になっていただきたい。がんばれ『水星の魔女』!
 
 
登場人物評もしたかったけれども、すっかり長くなってしまったのでこのへんで。