シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

脱臭された聖域でも、ぼっちちゃんの輝く世界は美しかった──『ぼっち・ざ・ろっく』感想

 
 

 
 
 
1月1日はアニメ『ぼっち・ざ・ろっく』を観て過ごしていた。まとめてアニメを観ていられる時間がずっと見つからず、元旦しかチャンスがなかったからだ。
 
よくできた、脱臭の行き届いたアニメだった!
 
『ぼっち・ざ・ろっく』は、ぼっちちゃんこと主人公・後藤ひとりがバンドに誘われ、コミュニケーションやメンタルに難しいところがありながらも頑張っていき、活躍し、色々な経験をしていく筋書きだ。筋書きだけ書き出してみると、類似したアニメはいくらでもありそうだし、実際そうかもしれない。が、手を抜いて構わないところや手を抜いたほうが映えるところは手を抜き、頑張って描いたほうがよさそうなところは頑張って描き、キャラクターの魅力もたっぷりでわかりやすく、まったく退屈をおぼえなかった。ぼっちちゃんの、オーバーなリアクションも私は好きだ。
 
このアニメを見て、右のように思わない人はたぶんあまりいないだろう──ロックやライブハウスやバンドが理想郷のように描かれているが、現実はそんなに甘くないよ、と。その片鱗としてか、チケット販売問題が作中で描かれていたが、物語のなかではチケットはそれなり売れて、ぬかるんでいる感じがしなかった。現実にはそのぬかるみは広く深いとは、耳に聞こえてくるところである。女性ばかりのバンドには相応の苦労もあろうし、男性ばかりのバンドにだって相応の苦労があるのだろう。
 
とはいえ、そこはエンタメとして取捨しているのだろうし、その取捨は商業的にも表現方法のうえでも、きっとこれでちょうどいいのだろうと思う。
 
 

社会の平均からズレていても活躍できるアジール(聖域)としての『ぼっち・ざ・ろっく』

 
そうした、エンタメのための取捨を意識してもなお、ぼっちちゃんと仲間たちが一緒に楽器をやって歌を作っていくさまは、見ていて気持ちが良かった。すごく楽しいと感じた。きっと私は、そういう風景のアニメがみたかったのだろう。
 
『ぼっちざろっく』は、確かに脱臭されまくったロックバンド女子アニメではある。ぼっちちゃんが本当は美少女であるのもずるいことだ。それでもなお、ぼっちちゃんとその周辺人物が無菌室的かといったら、そんなことはまったくない。後藤ひとりことぼっちちゃんは、コミュニケーションが極端に苦手で、対人関係に問題があり、他者からの承認に飢えていてそれにめっぽう弱い。いまどきの女子学生としては問題だらけといわざるを得ない。そんなぼっちちゃんの振る舞いから、たとえば社会不安症(社交不安障害とも)を連想するのはいかにも簡単だ。
 
しかし、ぼっちちゃんを社会不安症だと「診断」して、なんになろう。そんなことより、作中でぼっちちゃんが曲がりなりにも仲間たちと頑張っていき、何事かを経験し、技芸の面でも社会経験の面でもなにごとかを為していく、そっちのほうが大事だ。ある文脈・ある状況ではぼっちちゃんはいわゆるコミュ障を通り越して、いわば精神医療の射程距離に入ってきてしまうのかもしれない。まあ入ることだってあるだろう。ところが『ぼっち・ざ・ろっく』で描かれているロックやライブハウスの世界は、また別の文脈・違った状況として描かれている。そこはぼっちちゃんでも経験を積み重ねていけるし活躍できる、そんな社会の片隅だ。
 
型にはまっていないのは、ぼっちちゃんだけではない。金遣いの荒いリョウや酔っ払いのきくりもいる。彼女たちも、ある文脈・ある状況では精神医療の射程距離に入ってきてしまうかもしれない。特によっぱらいのきくりは、色々な人がそのように判断するように思われる。もちろん。けれども『ぼっちざろっく』で描かれているロックやライブハウスの世界では、彼女たちも何事かを経験し、何事かを為している。それは、健康的で清潔で道徳的な秩序ある社会のなかにあって、例外的なこと・貴重なこととしてうつる。
 
ここで描かれているロックやライブハウスの世界を、アジール(聖域・避難所などの意味)と呼んでいいのだろうか?
いいのかもしれない。
でもアジールという言葉をあてがっただけでは、まだ言い尽くした気持ちになれないけれども。
 
管見によれば、ライブハウスの世界には実際問題いろいろな人がいて、いろいろな行動がみられるのだという。脱臭されていないライブハウスの世界、バンドの世界。それらは外側の文脈からみて不健康な場合も不衛生な場合も不道徳な場合もあるのかもしれない。けれどもその世界でなら何事かを経験し、技芸や社会経験を積み重ねていけるのだとしたら、それは悪いことじゃないし、この社会の片隅に、そんな世界があってもいいように思う。そういう世界を失った社会は、口ではどんなにきれいごとを言おうとも多様性ある社会とは言えないんじゃないだろうか。
 
でもって、いろいろな人がいて、いろいろな行動がみられるのは、ライブハウスだけではないはずだ。他のいろいろな趣味領域や仕事領域にも、実際問題いろいろな人がいて、本当はいろいろな行動がみられていた。あえて過去形で書いたのは、今日、そのようなアジール的な世界でさえ、社会と繋がりすぎてしまって、脱臭されなければならなくなって、社会の平均的な価値判断に曝されようとしているからだ。それでもまだ、総体的にアジール的だといえる世界は探せばある。
 
全世界を平均的な価値判断にさらして、均(なら)して、「客観的に」人それぞれの生を評価すべきという人にとって、アジール的な場所は暴かれるべきであり、均されるべきであり、クリーン化されるべきだろう。そこではぼっちちゃんも社交的でなければならないし、さもなくばなんらかの治療や支援が必要である。金遣いの荒い人間、酒を飲み続ける人間も何等かの矯正を受けなければなるまい。それがその人たちのためじゃないか、と主張されたとき、さて反論できるだろうか。
 
けれども別の考え方として、『ぼっち・ざ・ろっく』で描かれるような、「社会の平均的な価値判断からズレているかもしれないけれども、そこでなら何事かを経験できる世界」がどこかに残っていたほうが良い、という考え方もあっていいように思う。アジール的な場所は、アジール的であるがゆえに社会の平均的な価値判断からは胡散臭いもの・有害なものとうつることはあるだろう。でも本当に多様性のある社会とは、平均的な価値判断とはズレた世界が洞穴のようにあちこちに存在していて、そこでなら上手くやっていける人が活躍できるような、そんな世界のようにも思える。
 
 

いつまでもアジールのある社会を

 
そんなわけで、私は『ぼっち・ざ・ろっく』を眺めながら、ぼっちちゃんが活躍できていること、一癖も二癖もある者同士が集って活動しているさまを、楽しく眩しく視聴した。喜多さんの12話の台詞、「私は、人を惹きつけられるような演奏はできない。けど、みんなと合わせるのは得意みたいだから」も忘れられない。もちろん喜多さんは社会の平均的な価値判断のもとでも眩しく輝くのだろう。でも結束バンドのメンバーとしてはまた少し違ったかたちで輝く。ご都合主義っぽいようにみえて、なんだか考えさせられる登場人物だ。
 
最後にもう一度蒸し返しておくと、『ぼっちざろっく』で描かれる世界は、エンタメたりえるよう脱臭されている。ロックという、かつて反体制的・カウンターカルチャー的だったものがそうではなくなっていること、主要メンバーの実家が太く描かれていることは、脱臭の結果か、それとも脱臭しきれない現実か。本当は経済的に太いリョウ、ギターを継承しているぼっちちゃん、姉に見守られ、きっと多くのものを継承しているであろう虹夏からは、経済資本、文化資本、社会関係資本の蓄積が連想される。『ぼっちざろっく』の世界は、上の世代に対する下の世代のカウンターとしては描かれていない。反抗なきロック。世襲的で、体制的になった後のロックというべきか。
 
けれどもロックに限った話でもあるまい。20世紀に反体制的だったもの・前衛的だったもの・改革的だったものは既に親世代のもので、既存の体制に組み込まれたものだ。アニメやゲームといったオタクの世界にもそれは当てはまる。いまどきのカウンターカルチャーはたちまち資本主義によって捕捉され、ネクタイを締めた人々の手によって舗装されていく。
 
いやいや、そういうしんみりした話はよしておこう。『ぼっち・ざ・ろっく』という作品は、そういうしんみりした問いを投げかける風にはつくられていないと思う。それより、ぼっちちゃんが活躍できるアジールが描かれていること、ぼっちちゃん達がそこでなにごとかを経験し、活躍し、思春期を駆け抜けていくこと、そんな世界がまだどこかにあるかもしれないと思い出せたのは良かった。社会が、そのようなアジールをこれからも失いませんように。たとえ脱臭されたアジールでも、ぼっちちゃんの輝く世界は美しかった。