この文章は、歯切れが悪い話として受け取っていただきたいし、少なくとも私はそう読んでもらえたらと願いながらこれを書いている。
歯切れの悪い話とは、アニメや漫画に登場する、なにやら依存症や精神疾患に当該しそうな登場人物の描写について色々と言う人についての話だ。たとえば最近では、『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』や『ぼっち・ざ・ろっく!』の登場人物が特定の依存症や嗜癖症に該当していることを指摘し、そのうえで「だから表現として良くない、ひっこめろ、書くな、見せるな」、といった意見を見かけることがある。
こうした意見に近いものとして、昔から「非行を描くな」「飲酒喫煙を描くな(またはゾーニングせよ)」といったものがあったが、この文章では、そこまで風呂敷を広げるつもりはない。確かに隣接する問題ではあるけれども、今回は、あくまで依存症や精神疾患に当該しそうな行動が描かれているキャラクターや作品に絞って私の意見を書いていきたい。
作品理解、キャラクター理解の観点から「〇〇は病気だから」について考える
はじめに、作品理解やキャラクター理解という観点から、「〇〇は病気」について述べてみる。
今も昔も、作品のキャラクターや登場人物を、特定の精神疾患や精神医学的概念にあてはめる見方はたえない。さきに挙げた『ぼっち・ざ・ろっく!』でいえば、きくり姐さんはアルコール依存症、アルコール乱用といった風に語られ、「だから描くな」「けしからん」といった声も聞こえてきた。そのほかにも、『新世紀エヴァンゲリオン』の惣流アスカラングレーは境界性パーソナリティ障害だとか、色々なことが語られてきた。
作中のキャラクターの言動を見て、そうした特定の精神疾患との類似性を見出すこと、それ自体は別段悪いことでもなかろうし、それがキャラクターの理解を、ひいては作品を理解する補助線になることもあるだろう。だからキャラクターと精神疾患の類似性を云々することには私も異論はないし、そういうことをしたっていいよね、と思っている。
問題は、そういう人ばかりではないことだ。
作中のキャラクターの誰それは、アルコール依存症っぽい、共依存っぽい、パーソナリティ障害っぽい、といった風に述べるのでなく、アルコール依存症だ、共依存だ、パーソナリティ障害だ、と言い切ってしまう人がいる。のみならず、そこでキャラクター理解をやめてしまう人がいる。つまり、もちづきさんは摂食障害でしかない、きくり姐さんはアルコール依存症でしかない、と、そこで作品とキャラクターの読み取りをやめてしまっている人たちがいるよう見受けられる。
作品理解や作品鑑賞の面からみて、これは、つまらないレッテル貼りだと私は主張したい。
なるほど、いろいろな作品のいろいろなキャラクターの言動が、精神疾患に該当することはあろう。けれども、キャラクターたちが精神疾患「でしかない」なんてことはないはずである。
たとえばもちづきさんを見て摂食障害を連想するのは簡単だ。人間は、アルコールやタバコといった依存性のある物質に限らず、特定の行動を不適切使用してしまうことのある生き物で、不適切な食行動としての摂食障害も問題視されている。でもって『ドカ食いダイスキ!もちづきさん』の主人公であるもちづきさんからそれを想像し、不健康だ、不適切だ、と思うのもいいだろう。
では、『もちづきさん』は摂食障害を描いている「だけ」だろうか? 私は違うと思う。確かにこの作品に占める摂食行動の割合は大きい。『孤独のグルメ』と比較しても大きいだろうし、食行動がもっとビビッドに描かれているようにもみえる。それでもなお、この作品は摂食障害を摂食障害の症例として描くだけの作品には私には見えない。
そもそも、この作品に精神科医が登場してもちづきさんを摂食障害であると診断しているわけではない。
「もちづきさんは摂食障害の症例である」と決めつけているのは、作者ではなく、私たちの側ではないだろうか。確かに彼女の摂食行動じたいは摂食障害のそれを連想させるものではあるし、「至ってしまう」のも生理学的に問題のある状態を連想させる。だからといって、この作品はもちづきさんを「病者として描いている」わけではなく、もちづきさんの体型が示しているように、ある部分においてファンタジーとして描いている。
そうしたことを踏まえるにつけても、この作品が不健康を連想させやすいとしても、「もちづきさんは摂食障害」で終わらせるのは違っているし、摂食障害を描く作風とも思えない。そうした諸々が、摂食障害というレッテルをとおして無視され、無化されて良いとは私は思わない。それはレッテルづけをとおして作品理解をやめてしまうこと、作品理解をすすめるアングルを摂食障害というキーワードに単純化してしまうこと、にほかならないのではないだろうか。
他の作品については尚更である。
『ぼっち・ざ・ろっく!』のきくり姐さんはアルコール依存症。あっハイそうも見えますね。だけど、きくり姐さんはアルコール依存症「でしかない」と言ったら、それはきくり姐さんを理解するうえで、ひいては『ぼっち・ざ・ろっく!』を理解するうえで、貧困な態度と言わざるを得ない。きくり姐さんというキャラクターはアルコール依存症っぽく描かれてはいるが、それ以外にもさまざまな性質を持ち、さまざまに作中で行動している。そうしたものが全部合わさって魅力的な一人のキャラクターをなしている。
きくり姐さんをアルコール依存症だと指摘するのは別にあってもいいと思うが、「アルコール依存症でしかない」で考えるのをやめてしまったら、それはキャラクター理解としておかしいだろう。
それで言えば、『ぼっち・ざ・ろっく!』の主人公である後藤ひとりもそうだ。彼女を社交不安症っぽいとみなすこともできようけれども、彼女を「社交不安症でしかない」とみる人がいたら、一体彼女の何をみているんだ、本当に作品を通覧したのか、と指摘したくなる。映画『窓際のトットちゃん』のトットちゃんも、令和時代にあの作品をみてADHDを連想するのは簡単だとしても、「ADHDでしかない」と見るのは、トットちゃんの理解、ひいては作品理解としてこれほど貧しい収穫物もあるまい。
作中のキャラクターが精神疾患に該当する(または似ている)と着眼することと、そこで考えるのをやめてしまうのは態度としては大きく異なる。同じく、精神疾患に該当するとみた時点でキャラクターをわかったつもりになるのか、ならないのかも態度としては大きく異なる。もし、作品とキャラクターをもっと高い解像度で見ようと思うなら、前者の態度は勧められたものじゃない。*1
なお、その際に「どうでもいい作品のどうでもいいキャラクターではレッテル貼りをするけど、どうでも良くない作品のどうでも良くないキャラクターではそうしない」みたいな言い訳は、私はあまり信用ならないと思っている。なぜなら、日ごろからキャラクターや作品にレッテルを貼ってそれで平気でいられる人は、いざ肝心な作品と向き合うつもりでいても、そう易々と態度を変えきれないように思えるからである。
不健康は楽しそうに描かれてはいけないのか
それからもうひとつ、不健康な行動は楽しそうに描かれてはいけないのか、という問題もある。
くだんのもちづきさんやきくり姐さんに批判が集まった時、「本当は苦しくて恐ろしいものが、楽しそうに描かれている」といった批判もあった。彼らの言い分をそのまま受け入れるなら、「健康に害を与えるかもしれない行動、功利主義に抵触する可能性のある行動は、楽しそうに描かれてはならぬ」ということになる。
これに関しては、私も一部の依存症や嗜癖についてはそうだろうなと思ったりする。たとえば違法薬物の使用について。作中のキャラクターの行動に違法性という問題が含まれる時、それがどこまで描かれて良いのか、どのように描かれて良いのかは、合法的な行動とは違った基準が適用される場合があると思う。または、そのような表現はゾーニングの対象になるようにも思う。飲酒や喫煙といった、年齢制限のある嗜好品についても、放送時間帯も含めたゾーニングがあってもおかしくはない。
では、違法性のない行動、たとえばもちづきさんのドカ食いはどうなのか。
これは、意見の割れるところだと思うし、許容できる度合いが人によって違うかもしれない。
たぶんだが、『もちづきさん』がまったく平気な人もいれば、『もちづきさん』はダメだけど『孤独のグルメ』*2や『吉田類の酒場放浪記』なら構わない人もいるだろう。『孤独のグルメ』や『吉田類の酒場放浪記』もだめって人だっているはずだ。
しかし、もしそれが不健康だから──たとえばメタボリックシンドロームや摂食障害などのリスクを孕むから──楽しそうに描いてはいけない、と原理主義的に考える人は少数派だろうとは想像される。私個人は、そんな健康原理主義的な尺度でアニメや漫画やドラマを見たいとは思わない。
ひとつには、そんな健康原理主義的な尺度であれもダメこれもダメとやってしまったら、表現されて構わないものが狭くなってしまうし、ひいては、人間としての行動や人間文化の幅も狭くなっていきそうだからだ。健康原理主義な人にとって健康は至上命題であろうから、表現の対象が狭くなろうが人間文化が狭くなろうがたいした問題ではないのだろうが、少なくとも私は、人間は健康だけで生きるにあらず、と考えるので、やり過ぎは勘弁してもらいたい。
もうひとつは、たとえば摂食障害的な人、たとえばADHD的な人が、楽しそうに描かれてはいけない、みたいな事態になって欲しくないという願いがある。
もし、不健康な行動、それこそ精神疾患の病名が脳裏をよぎるような行動の含まれるキャラクターたちが、必ず苦しんでいなければならない、必ずうつむいていなければならないとしたら、それって、そのようなキャラクターに共感をおぼえる視聴者にとって、良いことばかりではないんじゃないか、と私は思う。
たとえばドカ食いするキャラクター、たとえば飲酒喫煙するキャラクターが、必ず苦しんでいなければならない、必ずうつむいていなければならないとしたら──ひいては、社会のなかで苦しんでいるかうつむいていなければならないとしたら──それって「ドカ食いするやつは不幸であるべきだ(幸福たるためにはドカ食いをやめなければならない)」「飲酒喫煙するやつは不幸であるべきだ(幸福たるためには飲酒喫煙をやめなければならない)」ってことにならないだろうか。でもって、そこからさらに一歩進んでしまったら、精神疾患に該当する人は治るまで不幸であるべきだ(幸福たるためには治らなければならない)、となっちゃったりしないだろうか。
もちろん、ドカ食いが重なれば不健康だし、飲酒習慣や喫煙習慣も不健康だ。だから模倣者が出ないよう、表現を絞りなさいって声は理解できる。それはそうなのだが、他方で、それらが悪として必ず描かれなければならず、悪として社会のなかで位置付けられなければならないところに到達するのも、それはそれでまずい気がするのだ。
そうなってしまったら、いわゆる「健康ファシズム」ってやつじゃないでしょうか?
2024年の日本社会はそんな「健康ファシズム」には至っていないし、だから『もちづきさん』のような作品も流通し、それを私たちは楽しむこともできる。けれどももし、不健康な行動のひとつひとつが今以上に批判されるようになり、描写を禁じられるようになり、楽しむことがいけないことになってしまったら、社会はもっと「健康ファシズム」へと傾くだろう。そのとき、健康な人々は自分たちの正しさを誇ることができようし、健康に根差した社会規範の徹底を寿ぐこともできようけれども、不健康な行動がやめられない人、本当は不健康な行動をときどき楽しみたい人にとっては、なかなかつらい事態になるのではないかと思う。
最後にもう一度。これは、歯切れの悪い話として受け止めてください
ここまで私は、『もちづきさん』や『ぼっち・ざ・ろっく!』を例に挙げながら、不健康な行動はどこまで描かれていいものなのか、について、どちらかといえば「描かれなくなるような社会は、きっとまずい社会だ」みたいなことを書いてきた。私自身は、もちづきさんやきくり姐さんに肩入れしたいとも思っている。
他方で、世の中には影響されやすい人、とびぬけて影響されやすい人というのもいて、サスペンスドラマやアニメを模倣して事件を起こす人もいなくもない。不健康な行動にしてもそうだろう。また、たとえば摂食障害の人が別の摂食障害の人のSNS上の言動を見て「もっとやせよう」と思ったりすることもある。
だから、この話を「アニメや漫画、SNSに何を描いても構わないしどこまでも描いて構わない」という結論に持っていくことも、またできない。
では、この文章をとおして結局私は何が言いたいのか。
この、歯切れの悪い話をとおして私が言いたいのは、「こういう話って、クリアカットに結論が出せるようなものじゃなく、歯切れの悪い話だってみんなで承知しておくべきじゃない?」というものだ。
ちょうど、2024年度のACジャパンのCMに、「決めつけ刑事」というものがある。
www.youtube.com
この動画では、SNSの書き込みを鵜呑みにして犯人捜しをしてしまう人が挙げられているが、こういう決めつけの弊害は「歯切れの悪い話」全般にも言えると思う。
本来、政治にしろ道徳にしろ社会にしろ、白か黒かのクリアカットで決めつけられることなど、なかなかないはずである。例示した、もちづきさんやきくり姐さんの件にしてもそうだ。ところが今日のインターネット、特にSNSではそうした決めつけが横行し、むしろ決めつける態度こそがクレバーだと思っている人の姿さえ、しばしば見かける。
X(旧twitter)のような140字のアーキテクチャの内側では、なにごとも短く言い切ること、決めつけてしまうことが「映える」のかもしれない。が、歯切れの悪い話を140字以内で決めつけることなどできるわけがない。そんな、事情の大半を切り捨ててしまうような決めつけを大勢の人々が繰り返しているとしたら、それはなんらかの歪みを招くものではないか、と私は心配になる*3。
歯切れの悪い話は、歯切れの悪いままで抱えておきませんか。
簡単に決めつけず、結論を急がずに。
今日のSNSに足りていないのは、そういう歯切れの悪さを歯切れの悪いまま抱えておく態度だと思うし、それって今日的問題だと思うので、もちづきさんやきくり姐さんを例として、問題視していこうよと書いてみました。需要があったら続編を書きます(需要がなければ書きません)。