シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

中年男性を不審に見る目線と、外国人を不審に見る死線

 
 


 
「不審者注意!」という看板を見るたび、「やめてくれ、その術はオレに効く」みたいに思う。
 
ある時期まで、私はそうしたことを意識することなく日本社会で暮らし続けていた。けれども40代後半に入って、いい加減な恰好で住宅街を歩いていると不審の目で見られること、警戒されていることに気付くようになり、中年男性は身なりや恰好、振る舞いに気を付けなければ不審者とみられることを知った。そこから更に、もっと若い男女でも不審者とみられ得ること、社会には不審者を警戒するまなざしが溢れていることを私は知るに至った。
 
この国では安全・安心という表現が多用され、政治家も、ことあるたび安全・安心に言及する。安全だけでなく、「安心」を含んでいるのが注目すべき点だ。この国で求められているのは統計的な安全性だけではない。安心性という、安全と似て非なるものが期待され、それは不審者への注意を呼び掛ける看板にも、政治家の言動にも、町内会の活動などにも反映されている。
 
暴力を働かないとか、法律を守らないだけでは何かが不十分らしい。暴力を働かなそうなこと、法律を守ってくれそうなこと、おそらく、予測可能であることが不断に求められている。そこから外れている人間に対する冷たい目線。しかも、ある場面で不審者とみなされ、遠巻きにされている当人が、別の場面では別の誰かを不審者とみなし、遠巻きにしている構図は珍しくない。それぐらい、不審者を不審とみなす意識、安全なだけでなく安心であることを求める意識は広く内面化され、逃れがたい。
 
「不審者注意!」という、明白なようで曖昧な看板がこうも受け入れられていること。不審者とは誰で、その際、注意するとはどういうことか。身なりの整わない中年男性や中年女性がいたら監視しろということか。警察に通報しろとでもいうのか。それとも「身なりの優れない人間ならば差別して良い」と遠まわしに仄めかしているのか。まさかね。看板はそうした私の疑問に応じるでもなく、曖昧に呼びかけるだけである。
 
 

そのまなざし、そのまま外国人に向かいませんか

 
しかし、この不審者を見咎める意識は外国人にも適用されてしまわないだろうか。
 
さきほど書いたように、安全だけでなく安心まで期待するとなると、暴力を働かない・法律を破らないだけでは足りない。暴力を働かなそうなこと、法律を守ってくれそうなこと、予測可能であることがあわせて求められる。そうした求めの矛先が身なりの整わない中年男性に向かうならば、予測不可能な外国人にも向けられるのは当然だ。外国人を見慣れていなければ見慣れていないほど、外国人と接点がなければないほど、外国人が暴力を働かなそうか、法律を守ってくれそうか、予測可能と言えるのか、不安が沸くだろうし安心もできないだろう。そうしたなかで、外国人が銅を盗んだとか、作物を盗んだといったニュースが流れてくる。そうしたニュースに尾ひれはひれをつけて伝えるオンラインメディアが跋扈してもいる。政治家の外国人に対する態度も、以前より硬化しているようにみえる。それらは、外国人に対して安心するにあたって大きな障害になる。
 
昨今、日本では外国人を割と本気で排斥したがる声も高まっている。だが、そうした本気の排斥とはまた別に、社会から中年男性に対して向けられる不審の目が、外国人にもうっすら向けられている一面もあるんじゃないだろうか。不審に思われる人物なら見咎めて良い、むしろ見咎めるべきだとする社会通念のなかで、外国人という、肌の色も文化も言葉も異なる来訪者に対してだけ、その社会通念を麻痺させよと言ったところで、それは無理筋に思える。もし、その社会通念を麻痺させたいなら、外国人に対してだけでなく、身なりの整わない中年男性に対しても同様でなければならないはず。ひいては、安心という幻想を求めるのはやめて、統計的安全だけで手打ちとしなければならない。
 

 
コロナ禍が来るより前に、私は『安心社会から信頼社会へ』という本を読んだ。1999年に出版されたこの本には、欧米社会は日本社会に比べて信頼社会だ、多文化共生をはかるうえで安心社会から信頼社会に変わることは大切だ、といったことが書いてあったと記憶している。これからの日本社会も多文化共生ができる信頼社会であるべき、開かれた社会であるべき、みたいな論調でもあったと思う。
 
ところが日本社会は安心社会のままで、政治家は懲りずに「安全・安心」というフレーズをさえずり続けている。大まかにいって、「安全・安心」は民意と推定して構わないだろう。そうである限り、「外国人は犯罪者集団だ」「外国人は出ていけ」といった露骨な外国人排斥運動に肩入れしなくても、今までどおりに「安全・安心」を求め、街じゅうに立てかけられている「不審者注意!」の看板の命ずるままに不審とみなしていれば、ほとんど自動的かつ消極的に、外国人に対してうっすら排斥的な所作ができあがってしまうように思う──ちょうど、身なりの整わない中年男性に対してそれが起こって当たり前とみなされているように。もし、それが大まかな民意なら、信頼社会はなおも遠いと言わざるを得ない。
 
 

で、安心を捨てる意志と能力は私(たち)にあるの?

 
外国人に対して排斥的になる人の急増の背景には色々な現象が絡んでいるはずで、安全・安心を求める社会通念のせいにし過ぎるのも良くないと思う。実際に行われ、報道されている外国人による犯罪や法律違反にもよろうし、それを喧伝するインフルエンサーや政治家たちの活動にもよろうし、オーバーツーリズムにもよろうし、1999年に信頼社会や開かれた社会の模範とみなされていた国々において、それらに対する強い逆風が吹いているせいもあろう。
 
だが、それらはさて置いて、安全だけでなく安心を求める私たちの社会通念はいったいどこへ行くのだろう? 私にはよくわからない。私たちは、そして私は、どこまで安心を捨てることができるのか? 
 
私も、ある程度までは呑気に構えられることはある。たとえば新宿駅や池袋駅を利用している時に外国人を見かけてもなんとも思わないし、清水寺や日光東照宮を外国人と並んで参観している時もなんとも思わない。コンビニや飲食店や病院で外国人が働いている際にもなんとも思わない。特に働く外国人は社会契約のルールにがっちりと組み込まれた挙動をしているから、不審の目を向けるべき理由はなく、この点では信頼社会っぽく振舞うことに抵抗はない。
 
しかし、もっと私的領域に近いところとなると自信がない。たとえば見知らぬ外国人の偉丈夫が近所をうろついていたら、私は不審の目を投げかけてしまう気がする。私の住む地域にも前々から外国人が住んでいて、顔なじみの人については夜遅くに出会ってもなんとも思わない。でも、それが私が信頼社会をしていて安心社会をしていない証拠になるわけじゃないですよね? もし、なじみのない、文化も風習も全く違っている外国人が自分の地域でいきなり増え始めた時、不安に陥ることなく信頼社会の構えを貫徹できるのか、呑気になれるのか──というより、不安を押し殺して呑気なふりができるのか──まったく自信がない。そういったフォーリナーと信頼を交換するための社会儀礼も、私はちゃんと身に付けていないような気がする。だいたい、そういうのって日本にあるのか?
 
あるとはっきりわかっているのは、従来ずっと内面化してきた「不審者注意!」の社会通念だ。自分自身に警戒や不信の目線が向けられている時でさえ、そこに囚われ、自由になれていない私が、外国人に対して「不審者注意!」に陥らずに済むのか、甚だ疑わしく思えてしまう。遭遇が、社会契約上の文脈の定まらないものだったら、とりわけそうではないだろうか。
 
皆さんはどうですか?
信頼社会、してますか。
身なりの整わない日本人中年男性に不審の目を向ける人が、外国人に対してはそうではない、と言い切ったとしたら、それって本当なの? って私はまず思ってしまうだろう。日本人中年男性をたやすく不審だとし、警戒すべきとみるその目・その心が、どうしてフォーリナーには適用されないと言い切れるのか、私にはよくわからないからだ。
 
 
[追記]:


ふうん……。
 
「治安が良ければいいってものじゃない」んだあ。もし、欧米の信頼社会にこういう一面があって、アメリカ政府が「ちゃんとわかっている」んだとしたら、私の信頼社会に対する理解は見当違いなものだったのかもしれない。私には、これはちゃぶ台をひっくり返すようなよくわからないポストにみえるので、注視はしますが、他の人の見解とよく見比べて考えていきたいなと思いました。