シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

自分自身を振り返るにはいい機会でした>45歳うんたら説

 
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今年はSNSの騒がしい界隈で45歳で狂うだのなんだのといった言説が流行り、しまいにブロガーの黄金頭さんがご自身の45歳を振り返ってあれこれとおっしゃっていた。私はそれを読み、どうあれご安全に中年期を航行してください、と思った。中年期に限らず、人生とは一歩先は闇であり、世の中は無常だ。
 
私たちの生は儚い。もし今、平穏や平安を手にしていると感じている人がいたら、それらの与件を精査し、平穏や平安がしばらく続けられるならそのままでいいけれども、じきに崩れてなくなるとしたら、崩壊に備えるであれ、時間を使い切ってしまうであれ、決心し、行動したほうがいいと思う。
 
で、例の"45歳うんたら"説、正直あまり良いフレーズとも思えないけれども、いろんな人が自分自身の人生を振り返るきっかけになったのは、良かったのではないかと思う。45歳で狂うのか狂わないのか・独身だととりわけ狂うのか……といった抽象的な言説をとおして確たることなんて何も言えない。しかし自分自身の依って立つものが砂上の楼閣でしかないことに気付いたり、中年期に急激にだめになっていく人々を反面教師にしたりする機縁として、自分自身のために活用する道はある。これから中年期に突入していく人にも警句として響くだろう。
 
私は2007年に「オタク中年化問題」を書き、2014年に『「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)』という、もともとは『年の取り方がわからなくなった社会』という出版企画だったはずの本を上梓するぐらいには自分自身の加齢と変質に警戒的だったけれども、実際に四十代を終えようとしている今、思うのは、「警戒し、年上の人たちの中年期をどんなに参照しても、やっぱり自分自身でなってみないとわからないことだらけだった」だった。
 
とりわけ健康維持にかかるコストの上昇については40代の後半にならなければ自覚できなかった。さながら民間生命保険の保険料の上昇のようである(ということは、70代や80代の健康維持コストは一層重たいのだろう)。今、20代や30代の頃と同じような食生活やライフスタイルを続けていたら、血糖値や血圧やコレステロールがたちまち高まってしまうと思われる。それは老人の兆候だ。昔の人々が初老として40歳を定義したのは正確なことだったと思う。
 
2010年にNHKが行ったアンケートでは、多くの人が初老期を五十代後半と答えているが、これはアンケートに答えた多くの人たちが間違った認識をしているのだと思う。身体の次元では40代は老人への入口であって若者の維持ではない。そうしたことが、今は知識としてではなく実感としてますます強まっている。
 
冒頭の黄金頭さんへの私信っぽく付け加えると、何歳で中年期の変化を感じるのかは、生物学的な個体差や社会的境遇などに基づく個人差があるよう思う。私の場合、45歳の頃は社会秩序について書きたい本が書けたばかりだったので危機感は皆無だった。そのかわり47歳の頃は公私ともに落ち着かず、自分が何をしているのか、自分に何ができるのかまるでわからなくなっていた。身体的にも急に老けたと感じた。この身体では無理はきかないと思い、2024年だけは身を削る思いで活動したけれども2025年からは同じことはしないと決めている。なぜなら、この身体でもできることは、かつての身体にできたことに比べて減ってしまっているからだ。
 
黄金頭さんが何歳でそうした変化を痛切に感じるのかはわからないけれども、そのとき、狂うかどうかはともかく慄然とするんじゃないかと思う。私の場合は、慄然とした。落胆もした。それからやっと諦めて、諦めたなりに残りの身体をどう使うか考えている。この、慄然→落胆→諦め→再出発 のプロセスに支障が生じたら、それは傍目には「あの人、どうしちゃったんだろう」感のある行動に繋がると思う。たとえば自分がもう変わってしまったのに変わる前に必死にしがみつこうとする人は、傍目に見ればかなり無理のある行動を連発する思われるし、実際そういう人は散見される。ギャップが大きいのにしがみつこうとする度合いが高ければ、それが精神疾患を招き寄せる場合すらあるだろう。
 
しかし黄金頭さんが停滞や変化に慣れている場合は、慄然としないのかもしれない。それがどうした、としか思わない可能性すらある。少なくとも40代まで順風満帆だった人や健康を害したことのない人と同じになるとは考えられない。あまりに健康で、あまりに美しく、あまりに巧みだったからこそ、不健康や老化やままならなさに対して脆い場合はままある。そのような脆さが命取りになってしまうこともあるのが人の世と人の心の難しいところだと私は思う。もちろん皆が皆そうなるわけでもない。だからかえってわからない。
 
どうあれ人は変わっていくものだ。
前にも書いたが、「不惑」とは、惑わなくなるではなく惑えなくなることでしかない。自分自身が変わっていき、周囲も変わっていき、時代までもが変わっていく。過去と現在と未来のギャップは拡大する。書いていて、憂鬱な気持ちになってきた。なぜなら、結局私は変化に対してうろたえていて、外面はともかく内面としてはいつも自分自身と娑婆世界の変化に対して後手でしかないからだ。
 
悲観的になってしまっていけないですね。寒くて暗くてしようがないからかもしれない。黄金頭さんにおかれましては、冬至のメランコリーにやられることなく、お元気でご安全にあってください。では。