今日の文章は、いつも以上にフワッとした話なので、そういうつもりで読んで欲しい。
先日、講談社ビジネスに以下の文章を寄稿した。
gendai.ismedia.jp
同じ構図が、たとえば映画『シン・ゴジラ』や大河ドラマ『真田丸』などにも当てはまります。いまや、SNSを使いこなしている世代には、話題や体験を共有して「群れる」ことが当たり前になっています。
誰もがスマホを持ち、誰もが「シェア」や「リツイート」といった機能を使いこなす時代が到来したため、大ヒット作品は、「群れる欲求」をみんなで充たすのに最適な、いわば“おみこし”コンテンツとなりました。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51763
時代は再び、“おみこし”を必要としているのです。
そう、“おみこし”のターンが来ていると思う。
時代それぞれの“おみこし”事情
人類は太古の昔から“おみこし”をみんなでワッショイすることで社会的欲求を充たしてきた。みんなで“おみこし”を共有し、持ち上げる行為は、メンバーシップの一員としての自覚や仲間意識をもたらした。つまり、みんなの所属欲求を充たしあうイベントだった。
たとえば、トーテムポールを囲んでお祭りをする人達。岸和田のだんじり祭り、諏訪大社の御柱祭などもそうだ。“おみこし”をみんなで担いで、一体感を感じる。そのとき活躍したメンバーには敬意が払われ、承認欲求が充たされる人もいるだろう。いずれにせよ、“おみこし”を皆で担ぐことで社会的欲求を充たしあうイベントは、あらゆる共同体に付き物だった。
で、戦中に国を挙げての“おみこし”騒動が起こり、戦後、伝統的な地域共同体が希薄になっていったことで、いったん“おみこし”の時代は終わったかにみえた。
個人は共同体のしがらみから解放され、それぞれ自由に社会的欲求を充たせるようになった。そのかわり、共同体を頼りにして社会的欲求を充たせなくなった、ということでもある。共同体経由で所属欲求を充たす流儀は、土着の不良少年やヤンキーを例外として希薄になり、そのヤンキーにしても、個人主義の波に揉まれるうちに、マイルドになっていった。
かわって、社会的欲求を充たす主な手段となったのは、「モノやコンテンツの消費」だった*1。
社会的欲求の観点からみると、ファッションには二つの機能がある。
ひとつは、アイテムセレクトによって、「自分らしい自分」を自己演出していくこと。ここでいうファッションとは、服飾や調度、音楽、デジタルガジェット、そういったファッション的機能を帯びたすべてのモノやコンテンツを指す。それらのトータルとして、他者から承認される自分自身をデザインしていく。そうすれば、承認欲求を充たすことができる。
もうひとつは、自分自身のセレクトによって、「オシャレな人達と同じ自分」「ファッションブランドと同一な自分」をデザインしていくこと。ここでも、服飾をはじめ、ありとあらゆるモノやコンテンツが「オシャレな達と同じ自分」を演出するための *2 アイテムとして用いられる。「自分はオシャレなあの人達と同じだ」「自分は憧れのファッションブランドの顧客だ」と共同幻想を抱くことで、所属欲求が充たされる。
だから、たとえばベンツのSクラスやオメガの時計をセレクトする行為に、 1.他者から承認される自分をデザインする という承認欲求のための機能と、 2.ファッションブランドを身に付けることで憧れのファッションスタイル、あるいは階層に所属していると思い込む という所属欲求のための機能が混在していても、まったくおかしくない。
とはいえ、個人主義へと傾く一方の時代だったから、こうした差異化ゲーム・優越感ゲームで主に充たされるのは、承認欲求のほうだった。そうやって承認欲求を充たすために、ファッションに「課金」するのが、ほんの一握りの若者の特権から全員の義務になっていった*3のが、20世紀後半の社会状況だったように思う。
それから、バブル景気が崩壊して二十余年。
現在でも、モノやコンテンツに「課金」してライバル達に差をつける、それで承認欲求を充たす、という方法が絶滅したわけではない。ただ、昨今の国内情勢を眺めていると、そういう方法は、一時期ほど盛んではないようにみえる。*4
冒頭リンク先でも書いたように、スマートフォンとSNSの普及は、現代人の社会的欲求の充たし方にブレークスルーをもたらした。その一端は「いいね!」に代表される承認欲求の充足だが、もう一端は、「シェア」や「リツイート」による所属欲求の充足だ。
インターネット上での所属欲求のドライブとしてわかりやすい例は、『君の名は。』『シンゴジラ』『真田丸』あたりだが、“おみこし”として選ばれるコンテンツのなかには、政治的なものもあれば、排他的・攻撃的なものもある。炎上コンテンツも“おみこし”の定番だ。みんなで誰かに石を投げれば、みんなの所属欲求が充たされる。
が、なんであれ、シェアやリツイートをとおして体験やオピニオンを共有すれば、承認欲求を充たすよりもイージーに所属欲求が充たせるということを、たくさんのネットユーザーが、その身体で覚えてしまった。しかも、金銭的コストがほとんどかからないときている。
テクノロジーが普及し、イージーかつローコストに社会的欲求を充たせる新経路ができあがったことによって、インターネット上で再び“おみこし”が蘇ったのである。
インターネット“おみこし”の源流
もちろん、こうしたインターネット上の“おみこし”ワッショイは唐突に始まったわけではない。
少し前の連続テレビ小説やアニメ映画やもまた、SNSに慣れたネットユーザー達によって、“おみこし”コンテンツ的に消費されていた。消費されていた、と書くとアレルギー反応を起こす人もいるかもしれないが、要は、作品そのものを楽しむと同時に、みんなが作品を楽しんでいる共犯意識やドライブ感みたいなものも楽しまれていた、と言いたいわけだ。『魔法少女まどか☆マギカ』『けものフレンズ』などの消費状況は、まさにこの典型だった。
もうちょっと遡ると、ニコニコ動画のコメント弾幕文化も思い出される。ニコニコ動画は、単なる動画サイトではなく、動画を“おみこし”として、みんなで盛上がるのに適したインターフェースだった。だからこそ、今でもアニメ実況などの時にはみんなでワッショイしている。
こうしたおみこし的なコンテンツ消費は、もちろん、2ちゃんねるでも行われていた。
2ちゃんねるでは、祭りが起こるたびに“おみこし”ワッショイが盛り上がっていた。おみこしとなったスレッドが、しばしば炎上やスキャンダルのたぐいだったことが示しているように、肝心なのは、おみこしの内容ではない。みんなでワッショイできるものなら、何でも良かったのである。
また、コンテンツを“おみこし”として共有するという意味では、各種実況板や各種専門板も、固有の作法を暖め続けていた。実況板ではあらゆるテレビ番組で“おみこし”ワッショイしていたし、各種専門板も、高度に空気を尊重しながら「おれら」「おまいら」の“おみこし”を奉じてきた。
そう、少なくとも2ちゃんねるが隆盛をきわめていた頃、日本のインターネットの小さくない部分は、承認欲求ではなく、所属欲求にドライブされて盛り上がっていたのだ。
匿名を前提としたこれらのインターネット“おみこし”は、個人主義の色彩を強めていく90年代末~00年代前半の社会状況のなかでは一種のカウンターカルチャーでもあり、文化の伏流水的存在でもあった。そうした経緯の延長線上にニコニコ動画の台頭があり、今日のSNS経由の大規模な“おみこし”現象があると、みるべきだろう。
2ちゃんねるやニコニコ動画に比べると、SNSの普及率は桁違いで、それゆえ“おみこし”の影響力も甚大だ。カウンターカルチャー的な色彩も薄い。ここまで到達してようやく、“おみこし”は本当に社会に影響力を及ぼし得る規模になったと言えるだろう。
“おみこし”をみんなで担ぐ社会が再びやって来た。
それが、良いことなのか悪いことなのかはさておいて。
少しばかりの「いいね」と“おみこし”ワッショイでだいたい間に合う
このほかにも、国民的アイドルグループの“推し”の影響や、東日本大震災の影響など、インターネット“おみこし”に繋がりそうな要因はまだまだ思いつく。が、それらを網羅しようとするときりがないので、ここらへんでやめておく。
ともあれ、スマホやSNSの普及によって、承認欲求と所属欲求はイージーに充たせるようになった。今日のスマホユーザーやSNSユーザーのほとんどは、そのことを熟知したうえで、社会生活やネットライフに支障を来さない範囲で、おおむね上手に欲求を充たしているようにみえる。ほとんどの人は、身の丈に合った「いいね」による承認欲求の充足と、大小の“おみこし”ワッショイによる所属欲求の充足で、だいたい間に合っているのではないだろうか。
このように、インターネットにおける「認められたい」の充足布置は、承認欲求と所属欲求が並び立つような状況になっている。結局私達は、承認欲求だけで満足できるわけではなく、所属欲求を忘れられなかったのだ。
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