前々から読みたかった『ヴィクトリア朝時代のインターネット』を購入して、最優先で読んだ。電信というひとつのテクノロジーの栄枯盛衰を描いたノンフィクションとして、とても面白く勉強になった。
この本の概要については、基本読書さんがわかりやすいレビューを書いてらっしゃるので、そちらをどうぞ。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
『ヴィクトリア朝時代のインターネット』では、電信技術が誕生する前に「腕木通信」という手旗信号的なテクノロジーを用いた情報網が築かれた話、モールスらが電信技術をつくりあげていく話、その電信が普及段階を迎えて商業に利用され、政治や軍事にも利用される話、それが大英帝国の世界支配を支えていく話などが記されている。
が、やがて電話(など)が登場して、電信という技術は時代遅れになっていく。しかしエピローグでも記されるように、電信は今日のインターネットに連なる重要な技術だし、全世界を繋ぎ合わせ、政治・経済・コミュニケーションのグローバル化に与えた影響は不滅だ。
で、インターネット、である。
電信の歴史などという、正直、大半の人があまり興味を持たなそうな(私もその一人だった)題材にもかかわらず本書が読みやすいのは、この本のタイトルが『ヴィクトリア朝時代のインターネット』で、実際問題、読者がインターネットのことを連想せずにいられないつくりになっているからだと思う。
読者にメッセージを届けるうえで、タイトルと内容の結びつきは重要だ。たとえばこの本が『ヴィクトリア朝時代の電信の歴史』というタイトルだったら、書店で手に取る人が少なかったと思う。しかし本書のタイトルにはインターネットという言葉が入っていて、内容的にも、今日のインターネットを髣髴とさせるエピソードがちりばめられている。
ある日、アメリカン・テレグラフ社の職員が、営業時間外にボストン、カレー、メインを結んで電信で会議を行った。この会議には、700マイルにわたる回線につながる33の局の何百人ものオペレーターが参加した。発言者がその内容をモールス符号で打つと「その回線につながったすべての局が、まるで時空が消えたように同時にその発言を受け、お互いが実際は何百マイルも離れているのに、まるで皆が同じ部屋にいるかのようだった」とある記事は伝えている。約1時間にわたっていろいろな決議をした後に、従業員たちは散会したが「非常に協調できて心温かい気分になった」。
『ヴィクトリア朝時代のインターネット』より
このエピソードを読んで、あなたはどんなアプリを連想するだろうか。ICQやMSNメッセンジャーを連想する人、LINEやTelegram*1を連想する人、さまざまだろう。ともあれ、距離を隔てた多人数とコミュニケーションが可能になり、そこに心の喜びを見出した人々の様子は20~21世紀のインターネットとそんなに違わない。
このほか、電信をとおしてのロマンス・暗号化の問題・悪用した種々の犯罪、等々も記され、それらも時代の違いをあまり感じさせない内容だ。
当時の人々と私たちに共通点があり、インターネットについて私たちが知っているおかげで、この本はすこぶる読みやすい。というか、読者がインターネットについて知っていることを大前提として、著者が親しみやすい技術史の本としてまとめあげた、と言い直すべきだろうか。
電信の歴史を「ヴィクトリア朝時代のインターネット」として読者に提示するのは、ひとつのアイデアで、気の利いた心配りだと私は感じた。
令和のインターネットはヴィクトリア朝時代のインターネットの顔をしているか
とはいえ、「歴史は繰り返すのでなく韻を踏む」。
電信とインターネットもそうで、少なくとも令和の読者はいまどきのインターネットの状況と電信の歴史との違いにも気づくだろう。
本書には、電信が情報技術の雛型だった頃の人々が「電信が未来と世界を明るく変えていく」と楽観的に考えた様子も描かれている。これは、2010年ぐらいまでのインターネット、いわばweb2.0という言葉が流行った頃までのインターネットによく似ていると思う。ひと昔前のインターネット未来予想図は、とかく楽観的だった。
しかし今日、インターネットの未来は楽観を許さない。というより、現在のインターネットが思いっきり殺伐としている。
インターネットは世界じゅうを繋げたが、何かが繋がりすぎて、何かが決定的に繋がらなかった。識者たちは「SNSをとおして『分断』が深刻になった」と語り、インターネットは直接的にも間接的にも軍事利用されていて、そうでなくてもさまざまな勢力の情報戦・宣伝戦の最前線になっている。インターネットを用いた犯罪はひきもきらない。
インターネットが世界平和をもたらすとか、世界じゅうを仲良くするとか、そういったインスピレーションを令和時代のインターネットは与えてくれない。
インターネットが私たちひとりひとりを賢くしているのか、愚かにしているのかもわからなくなってしまった。検索エンジンの検索結果が嘔吐物のようになり果て、フェイクニュースが飛び交い、徒党を組んだ者同士が決して譲歩せず、お互いの政治的ポジションを掘り崩すことしか考えていない現状は、電信技術によって報道・商業・政治の速度やクオリティが高まっていった頃とは大きく異なっている。
たとえば電信の時代、ロイター通信などが誕生し、世界各地の報道スピードが更新されたからといって、電信のせいで誰かが愚かになったことはあまりなかっただろう。戦場や植民地の様子が素早くロンドンに届くようになったからといって、軍人や商人が愚かになったことも多分なかっただろう。だが、令和時代のインターネットは、ひとりひとりのユーザーを賢くするのか愚かにするのか、判断力に資するのか判断力を削るのか、わからない顔つきをしている。
どうしてヴィクトリア朝時代のインターネット=電信と、令和時代のインターネットはこんな風に違うのだろう?
ひとつめの違いは、令和時代のインターネットには「パジャマ姿で誰でもアクセスできてしまう」点ではないだろうか。電信の時代、電信網にパジャマ姿でアクセスする人はほとんどいなかったはずで、商人も、軍人も、ラブレターを送りたい人も、まあその、シャキっとした頭脳と出で立ちで電信に向かい合うことがほとんどだったと推測される。しかし、今日のインターネットは24時間いつでもどこでも読んだり書いたりできてしまう。情報としてのフォーマルさの度合いが電信とは異なっていることに加え、認知機能の低下している状態──就寝前のベッドの中や、泥酔中など──でもアクセスできてしまう点が異なっている。
ふたつめの違いは、「なんやかんや言ってもヴィクトリア朝時代のインターネットは敷居が高かった」点ではないだろうか。
電信は確かに普及した。しかし、その電信を日常的に使いこなしていたのは、商人や軍人や政治家などの上澄みと、電信に携わる職業の人ぐらいだった。そうでない人にも電信を使う機会はあっただろうが、身内の危篤の知らせのような、重要な情報を迅速に伝えるためのもので、私たちのようにだらしなく・だべるようにインターネットに接続できたわけではない。
短文を送るにもそれなりの通信料がかかり、「テレホーダイ」のような無制限に通信できるサービスがあったわけでもない時代に、昨今のようなネットユースをやってのけるのは経済的にもインフラ的にも困難だったに違いない。
経済的・インフラ的問題に加えて、情報リテラシーに関する敷居もある。
電信の時代に電信を頻繁に利用したのは、当時における情報強者、情報リテラシーに勝る人々だった。頻繁に電信にアクセスし、それをインターネットのごとく体験可能なのは、電信に携わる職業人を除けば、商人、政治家、軍人、報道関係者といった人々で、彼らには情報リテラシーがあった(無ければ淘汰されるだけである)。それ以外の大勢も、情報技術としての電信の恩恵を享受はしていたが、それは電信に(今日のSNSのように)ひとりひとりがダイレクトにアクセスして情報を読み取っていたからではない。たとえば新聞のように、「情報リテラシーのある誰かが介在するかたちで」電信の恩恵はその他大勢に伝達されていたのではなかったか。
その時代にもフェイクニュースもあったろうし、新聞社が間違った情報に基づいて間違った報道をすることもあっただろう。とはいえSNSのフェイクに転がされやすい界隈に比べれば、まだしも判断力があったように思える。
著者あとがきによれば、『ヴィクトリア朝時代のインターネット』が執筆されたのは1997年頃だという。1997年頃のインターネットもある程度は敷居の高いメディアだった。そして当時のインターネットはもっと希望に溢れていて、令和のインターネットのような陰惨さ・狡猾さはまだなかった。
だから私は、web1.0の頃のインターネットや、せいぜいweb2.0の頃のインターネットは電信にかなり似ているけれど、令和時代の、この世間に擦れ切ったインターネットは電信にはそこまで似ていないんじゃないかと思ったりする。もちろんこれは後出しじゃんけん的な物言いで、この本と著者のトム・スタンデージ氏を批判する理由にはならない。ただ、インターネットがあまりにも普及し過ぎて、あまりにも繋ぎ過ぎて、あまりにも世間擦れしてしまったために、令和時代のインターネットには電信が廃れるまでには起こらなかった悲喜劇がいっぱいで、魑魅魍魎が跋扈する空間になってしまった*2。
かつて、インターネットは電信の時代によく似たユートピアの夢を託されていた。けれども、どんどん変質し、世間の手あかにまみれ、何か違ったものになろうとしている──そんな視点で『ヴィクトリア朝時代のインターネット』を読み、過去のインターネットを振り返ってみるのもアリかもしれない。
本書は読みやすいうえに面白く、ひとつの情報技術の栄枯盛衰がスッと入ってくるので技術史に興味のある人には特にオススメな感じだ。令和時代のインターネットの向こう側を想像する際にも、案外、このような本が参考になるのかもしれない。