今、研修医時代ぐらい忙しくて生きた心地がしない&働きすぎで急速に老け込みそうだと感じていますが、そうしたなか、書評のお仕事をいただきました&こなしました。
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書評させていただいた作品は村雲菜月さんの『コレクターズ・ハイ』。上掲リンク先にも書いたように、コレクション大好き系のオタクの物語だと決めてかかると足元をすくわれる思いがするかもしれません。
作品にどのようなメッセージが含まれているのか。これは読み手次第でしょうけど、私には、以下のポイントが刺さりました。
1.たとえばキャラクターグッズをコレクションしている時、私たちはどこまで癒されていて、どこまで行動嗜癖的に病んでいるのか
2.資本主義の商品を作ったり、資本主義の商品そのものになったりして疲れ、傷ついている私たちが、それを癒す際にも資本主義の商品に依存し、ときには人間を商品として買い求めずにいられないとしたら、資本主義の輪から抜け出す出口は無いのではないか
3.人間同士のコミュニケーションが余計なものを徹底的にそぎ落とし、商取引のプロトコル的なものになったら、効率的かもしれないけれども色々と詰んでない?
この三つの点を、私は『コレクターズ・ハイ』の書評を書いている最中に何度も思い出したものです。このブログでそれを繰り返しても意味はないので、2.3.について考えているうちに最近気になるようになった、資本主義社会と人間の生活についての話をしたいと思います。
「ディスコミュニケーションが正解」は本当は誰のためなのか
私は年来、「現代社会の人間同士はコミュニケーションを深入りせず、コミュニケーションしないで済ませられるなら、済ませようとしている」と考え続けてきました。それか、「コミュニケーションが取引みたいになっている」とでも言いますか。
たとえば昭和時代の友達同士のコミュニケーションの範疇には、泥んこまみれの喧嘩をして理解が深まる一面や、銭湯や町内会の行事で学校とは違った顔を垣間見る一面もあったでしょう。しかし、いまどきの小学生はそんな泥んこまみれの喧嘩をコミュニケーションとして体験することはないし、クラスメートと会う場所・文脈も限られているため、まったく違った一面を垣間見る機会はあまりありません。
そうして人と人が会う場所や文脈が限られるようになってくると、友達、クラスメート、先生と対面する際に認識したりされたりする自他の姿は一面的になりやすく、いわば、キャラ的です。少なくとも昔に比べれば、学校では学校に合ったキャラを、スイミングスクールではスイミングスクールに合ったキャラを、ポケモンカードステーションではポケモンカードステーションに会ったキャラを立て、それぞれを使い分けることもできます。それぞれのキャラは情報量が少なく、(平野啓一郎風に言えば)「分人的」でもあるでしょう。
でも、それゆえにそれぞれの場には最適化されているし、他人に提示するのも、他人のそれを理解するのも簡単です。
こうした、場面や状況ごとにキャラを使い分けるコミュニケーションをディスコミュニケーションと呼んでしまうかは意見の分かれるところでしょう。が、ともあれ、コミュニケーションの傾向がキャラの出し合い的なコミュニケーションに変わって傾いてきているとは感じます。
尤も、これは昭和時代の地域社会のコミュニケーションと比較してそうだという話で、生まれながらにキャラの出し合い的なコミュニケーションが起こりやすい都市空間に住んでいる人、たとえば近所づきあい皆無の郊外やタワマンで生まれ育った人には、私が何を言っているのか理解がむずかしいでしょうけど。
私は、そうやってコミュニケーションが一面化し、効率化し、お互いのことをむやみに知りあわないようになり、お互いにとって都合良い部分だけを読み取りあうコミュニケーションのことを個人的に「券売機のようなコミュニケーション」と呼んでいます。
最近はラーメン屋などに注文用の券売機が置かれていますが、あれってコミュニケーションの省力化を極限までやってますよね? お客は券売機で買ったチケットを店員に渡すだけ。店員はチケットを受け取るだけ。今までだったら店員とお客の間にあったはずの、オーダーを確認するためのコミュニケーションまで省かれています。コミュニケーションとしては最も効率的だし、ノイズレスでもあるでしょう。
この、券売機で最小化された商取引(売買)のコミュニケーションこそが、現代のコミュニケーションの理想ではないでしょうか。商取引なら商取引の、塾だったら塾の、婚活だったら婚活の、そこで話されるべきことが話され、そこで話す必要のないものは話さない、そんなコミュニケーションが理想視されているのではないでしょうか。
だって、皆さん、非効率なコミュニケーションも、ノイズフルなコミュニケーションも、お嫌いでしょう?
たとえそれが、目的以外のコミュニケーションの可能性を毀損し、別の面においてディスコミュニケーションを加速するとしても、です。
視点を変えて考えるなら、現代人は双方の合意に基づいて、お互いに都合の良いコミュニケーションをしていると同時に、用途や場面、媒介物にふさわしくない部分についてはコミュニケーションしないで済ませている、とも言える。
私たちは双方に都合の良い、社会契約にも妥当するコミュニケーションに徹することによって、そうでないコミュニケーションを日常から排除し、キャラクターや役割やアバターには回収しきれない、お互いの多面性を知らないで済ませようとしている。
これは、コミュニケーションであると同時に、一種のディスコミュニケーションでもあるのではないか?
熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』より
コミュニケーションの効率化とノイズレス化は、もちろん資本主義にも貢献します。なぜならそれによってタイパやコスパが向上し、より多くのコミュニケーションが商取引的な性質を増して、いわば(資本主義の立場から見て)純化されるからです。コミュニケーションが効率化・ノイズレス化することをとおして、資本主義はますます純化し、ますます発展し、人間のコミュニケーションは資本の自己増殖に貢献しやすい性質となり、それにそぐわないやりとりが減っていくでしょう。
確か、経済学の言葉に「内部化」というものがあります。
内部化とは、もともとは資本主義の内部には存在しない、商品になりにくいものが、なんらかのかたちで商取引の対象となり、新しいマーケットができあがり、商品として資本主義の内側へと取り込まれていくことだったと記憶しています。それで言えば、たとえばミネラルウォーターは日本では1990年代に内部化し、結婚式も就活も葬儀も21世紀までには内部化しました。最近は、男女の出会いも(マッチングアプリをとおして)内部化されようとしています。
しかし、資本主義の内側へと取り込まれていくという点でいえば、私たちのコミュニケーションの効率化とノイズレス化も、じつは資本主義の内部にコミュニケーションが取り込まれようとしている兆候だったりしないでしょうか。
もともと、人間のコミュニケーションは資本主義にも商取引にもなじまないものが大半でした。資本主義や商取引になじむようなコミュニケーションが商人以外にも広く定着したのは、ここ数世紀のことでしかありません。しかし、今日のコミュニケーションは急速に効率化とノイズレス化、いわば券売機みたいなコミュニケーションへの道を辿っています。この段階ではまだコミュニケーションが資本主義化に取り込まれてしまったとは言い切れないとしても、コミュニケーションが資本主義に親和的になっていくのは、きっと資本主義自身にとって都合の良い事態ではあるでしょう。
効率的なコミュニケーション、資本主義のためのコミュニケーション
そうして、私たちのコミュニケーションや人間関係全般が資本主義に親和的になり、資本主義から見て都合の良いものに変わっていくとして、いったい誰が得をするのでしょう?
人間ひとりひとりの目線に立つなら、コミュニケーションを効率化すればするほどその人が(資本主義的に)得をする、というのはあるでしょう。昭和以前の人間のようにモタモタとコミュニケーションし、摩擦をも含むようなコミュニケーションをやっていくのは効率が良くありません。令和風の、無駄のないシュッとしたコミュニケーションをやっていけばタイパもコスパも向上しますよ、というやつです。
しかし人間全体にとって、これは望ましい変化だと言えるのでしょうか。
券売機を用いているお店では、お客と店員の間のコミュニケーションのコストが最小化されるかわりに、お客と店員の間で意外性のある出会いが起こったり、意外性のある情報の授受が起こったりする可能性はオミットされます。まあ、「商売」という観点ではそれで構わないでしょう。しかし人間同士のコミュニケーション全体が省力化・効率化・ノイズレス化していったら、人間同士の間で意外性のある出会いが起こりにくくなり、意外性のある人間関係の構築や、意外性のある情報の授受が起こる可能性もオミットされるでしょう。
お互いのことを知りすぎないコミュニケーションは、効率的だし、リスクも少なくて済むかわりに、私たちがお互いのことを知りあう可能性をも奪ってしまっていませんか。
それから、お互いのことをキャラとしてしか認識しあわない弊害として、いざ、敵対するとなった時には相手のことを人間ではない、悪魔の化身のようなものとして徹底的に非難したりこき下ろしたりすることが簡単になっているとしたら、それも社会全体でみればあまり良いこととは思えません。ひょっとしたら、SNSで起こっている終わりなき戦いも、こうした券売機みたいなコミュニケーションの暗黒面なのかもしれません。
そのうえ、券売機コミュニケーション的なものに慣れれば慣れるほど、いざ、人と人が親密にならなければならない時──たとえば親が子を育てるような時──には不慣れで困ってしまうのではないか、とも思います。取引や目的に最適化しすぎたコミュニケーションに慣れ過ぎて、それこそがコミュニケーションのあるべき姿だと思ってしまうと、子育てをはじめとする、昔からあったはずのコミュニケーションの大半がナンセンスなものに感じられ、不慣れでやっていられないものになるでしょう。
少子化の背景はさまざまで、個々人の収入の問題もあれば、個々人の思考の資本主義化・経営者化もあるでしょう*1。東アジアの場合、経済発展や思考の資本主義化のスピードと、旧来の家族観が廃れていくスピードとのギャップが大きいと語られています。それらに加えて、案外、私たちが券売機コミュニケーション的なものに慣れ過ぎ、親密さや身体的なコミュニケーションから遠ざかっていることも、原因の一端ぐらいは占めているのではないか、と私は思ったりします。
案外、それを埋め合わせるのがマッチングアプリかもしれず、マッチングアプリが完全普及したら、私たちはペットや家畜のブリーディングのように、それか『PSYCHO-PASS』のシビュラシステムみたいに、「あなたにふさわしいパートナー、あなたにふさわしい人生」を自動的にあてがわれるようになるのかもしれませんが。
こんな具合に、コミュニケーションがどんどん資本主義に親和的になっていくプロセスは、人間自身にとって良いことばかりとは思えません。たぶん、人間は券売機みたいなコミュニケーションだけでは生きていけないし、もし、過剰にコミュニケーションが券売機化していくとしたら、これも資本主義による疎外の一形態、ということになるでしょう。
人間が苦しいかどうかを、資本主義と資本は顧慮しない
しかし、ここまでの話って人間から見た困りごとで、資本主義自身から見たら、別にたいした問題じゃないですよね……。
ここ数年、私は資本主義、あるいは資本主義をとおして増殖する資本が、「人間を媒介物に自己増殖するウイルスみたいなミーム」に思えてなりません。資本主義や資本は生物ではなく概念ですが、その概念が私たち人間を媒介物として伝染病のウイルスのように自己増殖に励んでいるのが現状ではないでしょうか。
進化生物学者のリチャード・ドーキンスは、『利己的な遺伝子』のなかで、「人間も含めた生物は、遺伝子からみれば(遺伝子を運ぶ)乗り物である」と比喩しましたが、今日の人間はまるで自己増殖する資本の乗り物のようです。社会の隅々にまで資本主義の思想が浸透し、それを内面化した私たちにとって、資本主義の思想は生物学的な遺伝子よりも強い行動原理になっていて、子孫を残すのにふさわしい暮らしは、資本主義にふさわしい暮らしに上書きされています。
熊代亨『人間はどこまで家畜か』より
かつて、人間は遺伝子の乗り物だとしても資本の乗り物ではありませんでした。しかし資本主義が社会思想の中心となった今日では、人間は、遺伝子の乗り物である以上に資本の乗り物ではないでしょうか?
ちょうど遺伝子やウイルスが人間それぞれの幸不幸や社会全体の幸不幸をおもんぱからないのと同じように、資本や資本主義も、人間個々人や社会全体の幸不幸をおもんぱかりません。人間が増えるか減るかも忖度しません。病原体ウイルスがはびこりすぎると宿主となる動物が激減してしまうように、資本や資本主義も、自己増殖の過程で人間や人間社会を食いつぶしてしまうこともあるかもしれません。
本当にそんな破滅的な未来が来るとは、私も本気では思っていません。が、ここで言いたいのは、資本主義や資本のことを、人間とは独立した増殖するプレイヤーとして意識しておいたほうがいいんじゃないか、ということです。
近世に欧米社会で爆誕した現代に連なる資本主義のミームが本格的に増殖しはじめてたかだか数百年であることを思うと、資本主義がどこまで人間にやさしくて、どこから厳しいのかは、まだよくわからないと言わざるを得ません。ある時期・ある時代に資本主義が人間に豊かさをもたらしたことは間違いないとしても、資本主義が人間に豊かさをもたらす公僕のようにふるまうとは到底思えないので、心配ぐらいしておきましょうよ。
『コレクターズ・ハイ』にみられる資本主義による傷つきと癒しの連環、その連環からの脱出経路がディスコミュニケーションによって塞がれている絶望は、私にこういうことを強く思い出させるので、書いてしまいました。『コレクターズ・ハイ』から出発して、ついついこういうことを考えてしまいました。
*1:これも資本主義に人間が取り込まれていく重大な過程のひとつですが、ここでは於きます