シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

社会の進歩は人間の動物性とどう折り合いをつける?

 
ダメと言われても「夜の街」に繰り出す人は何を考えているのか 「コロナ疲れ」「コロナうつ」は当然だ | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
 
 
上掲の、プレジデントオンラインさんの寄稿テキストでは、新型コロナウイルスの蔓延を防ぐための、いわゆる「新しい生活様式」によって抑圧されることとなった、動物的な・プリミティブな人間のコミュニケーションについて記した。また、そうした変化が急に始まったものではなく、文明的で行儀の良い、快適で清潔な社会の成立と切っても切れない関係にあることもざっと解説した。
 
インターネットが好きでたまらない人のなかに、「身体的なコミュニケーションやFace to Faceなコミュニケーションなど要らない、ないほうが快適に決まっている」と述べる剛の者がいるのは私も知っている。が、そういう人はネットでは目立っても世間では目立たない少数派だ。21世紀になっても大半の人間は、動物的な・プリミティブなコミュニケーションを完全に捨てられずにいる。
 
大半の人間にとって、「新しい生活様式」によるコミュニケーションの制限は楽なものではなかった。そりゃそうだろう、人間は本来、ディスプレイや文章だけのコミュニケーションなどしておらず、もっと身体的に、もっと動物的にコミュニケーションをしてきたのだから。このことを証明するに、太古の昔まで遡る必要はない。携帯電話やインターネットが無かった頃に遡りさえすれば、子どもも大人ももっと身体的に、もっと密にコミュニケーションしていた時代にたどり着く。
 
だから私は、動物的なコミュニケーションを求めずにいられない人間の性質が、新型コロナウイルスの一連の騒動をとおしてますます制限されたり禁じられたりすることに懸念をおぼえる。ただでさえIT化によって進行してきたコミュニケーションの変形をさらに進め、動物としての人間をいよいよ疎外するもののように思えるからだ。
 
もちろん私は、動物的なコミュニケーションや身体的なコミュニケーションでさえあれば良い、と言いたいわけではない。もし、「人間のコミュニケーションは新石器時代まで巻き戻すべきだ」などと言い出したら、今の文化的な生活も現代社会の秩序も人々の諸権利も、みんなご破算になってしまうだろう。
 

  
人類のコミュニケーションの歴史は、動物的なコミュニケーションをそうでないコミュニケーションへと変形させていく歴史でもあった。動物的なコミュニケーションそのままでは避けられなかったいくつもの野蛮、いくつもの危険、いくつもの不平等が、文明化の過程をとおして改められてきた。この文明化の過程がなければ、たとえば現在の東京の生活など成り立ちようがなく、動物的なコミュニケーションを丸出しにした人間が首都圏の人口密度で集中したら、そこにはカオスしかないだろう。
 
だから、動物的なコミュニケーションをそうでないようにコンバートしていった先人を悪しざまに言うべきではなく、むしろ恩義を感じながら思い出しておきたいと私は思う。
 
 
 

どこまで人間の動物性を漂白できるのか

 
それでも「新しい生活様式」をとおして多くの人が実感したように、動物的なコミュニケーションができなくなってしまうと、私たちは辛いと感じる。快適で便利な暮らしのために、人間がみずからの動物性をお互いに律しあって暮らしていくことに異存はないが、動物を"完全に"やめる方向に進みすぎても、それはそれで生き辛いのではないだろうか。
 
人間の動物的なコミュニケーションを制限する方向に社会が進み過ぎた結果、その進歩についていけない"落第生"が新たに社会不適応者とか、障害とかみなされるような未来を、好ましい未来として思い描くのは私には難しい。
 
いや、現代の段階でも、動物としての私たちはかなり無理を重ねているのではないだろうか。
 
コミュニケーション以外の部分も含め、現代人は新石器時代の生活から大きく離れている。夜になっても煌々と明かりが灯って活動していること、不特定多数を相手に感情労働を行うこと、核家族という風変わりなユニットで子育てしていくこと、等々、もともとのホモ・サピエンスの生活から隔たった暮らしを実現した果てに、精神疾患と診断されなければならない人、治療やサポートを必要としている人が右肩上がりに増え続けている。
 
不特定多数を相手にした果てしないコミュニケーション、果てしない感情労働といったものは、本来、人間にさほど求められなかった課題だったはずだ。ところが社会の流動性が高まり、第三次産業が台頭した社会では、そうした課題をこなせることが社会適応の与件になってしまっている。
 
と同時に、職業の専門分化や個人主義の先鋭化の結果として、動物的なコミュニケーションが極端に不足する境地を生きなければならない人も一方で増えてきている。
 
社会契約のロジックのもと、私たちは仕事の専門分化した社会や個人の自由を貴ぶ社会を成立させたが、それは社会契約の領域での成功でしかない。動物としての人間が、動物としての自分たち自身を疎外しすぎずに生きていける方法を授けてくれるものではなかった。工場労働の疎外が著しかった一時代から情報産業とサービス業の時代になっても、結局、動物としての人間の疎外の問題は解決には至っていない。
 
むしろ文明化が行き過ぎると、動物としての人間は、個人主義や社会契約や資本主義のロジックのなかで置き去りにされ、顧みられなくなってしまい、あたかも動物をやめた「主体 individual」として徹頭徹尾生きていかなければならなくなったのではないか──そんな印象を私は受ける。 
 
動物をやめて「主体」として生きるのは、社会契約のロジックの内側では (または法治のロジックの内側では) 理想的かもしれない。というよりそれが義務でもあるかもしれない。
 
だけど人間は動物をやめられない。完全にやめてしまうべきでもないと私は思っている。これまでの歴史は、とにかく人間の動物的な性質の弊害をなくす方向で進んできたし、それは大筋では良かったのだろう。が、ここに来て、いよいよ動物的な性質を漂白しつくし、あたかも法人のごとき「主体」になれと人間に迫っているようにみえる。
 
 

動物をやめろという社会は誰のための社会?

 
そうやって動物を完全にやめて、動物らしさを捨てきれない人間がついていけない社会をこしらえたとして、それはいったい誰のための社会なのだろう。完全に「主体」になりきれるスーパーマンのような、ごく一部の人間だけが涼やかな顔をしていられて、そうでない多くの人々が動物としての自分たちを疎外され続け、生きづらいと感じ続ける社会は、ごく一部の人間だけのための社会でしかない。
 
だから私は、社会の進歩や文明化そのものは否定しないとしても、そうした進歩や文明化が、そろそろ人間の動物的な側面を顧みるフェーズにたどり着いて欲しいと願う。ちょうど、人間工学なるものが人間にやさしい設計やデザインを考案するように、人間の動物的な側面にやさしい社会の進歩や文明化が議論されて欲しいと希望する。「人間にやさしい社会を目指す」というスローガンのなかに、人間の動物的側面にもやさしい社会を目指すというニュアンスが含まれていて欲しい。
 
 
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

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  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)