シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

過去「を」生きる。過去「で」生きる。それが今の私

木曜日の夜は昔のアニメを観る - シロクマの屑籠

シロクマ先生っていつも、とても、過去を引っ張って今を生きているなと勝手に思う。このエントリ以外からもそんな印象を受ける。

2024/04/19 14:00
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text:シロクマ先生っていつも、とても、過去を引っ張って今を生きているなと勝手に思う。このエントリ以外からもそんな印象を受ける。

 
先月、招き猫のアイコンの人にはてなブックマーク上でこうコメントをいただいた時、今の心境を言い当てられた気がした。確かに私は過去を引っ張って生きているよね、と。先月終わりに書いた文章も、ファミコン版『ファイナルファンタジー』についてだったし、今期の新作アニメは続編モノとリメイクしか見ていない。アマゾンプライムに『ゴジラー1.0』が来たので観ようと思っているけれども、それだって続編モノだ。わあ、本当に過去ばかり見ている。
 
でも真顔になって考えると、私は、良い意味でも悪い意味でも過去に依って生きていると思う。それは、「過去を生きる」とも「過去で生きる」とも言えそうだ。久しぶりにブログが書けそうなので、リハビリがてら、ちょっと書いてみる。
 
 

「過去を生きる」私

 
私はもうじき50歳になる。これはもう、生物学的には高齢ではないだろうか。たとえば戦国時代や平安時代だったら、私はもうキャリアの終わりのほう、一生の終わりのほうだろう。大河ドラマ『光る君』では、藤原道長の兄・藤原道隆は43歳で死去していた。あの藤原道長だって60代前半で死去する。人間は、そんなに長生きできるように創られてはいない。今日の医療技術に頼れば統計的な余命は長くなるが、アラフィフから先の身体はいい加減に扱うと脆く、平均寿命のずっと手前の訃報をしばしば耳にする。
 
私は20代の頃から、医学の知識に基づいて「能力的に最高潮なのは30代ぐらいで、そこからは能力が落ちる一方だ」と考え生きてきた。まただからこそ、人生はとても儚く、最も激しく燃え上がれる時間も短いと思い続けてきた。それは半分当たって、半分外れた。
 
外れていたのは、40代になっても伸びる能力があること、経験の蓄積はけっして弱っちょろい武器ではなかったことだ。
当たっていたのは、身体的能力の衰えのほうだ。私の身体機能は着実に衰えている。過去の自分の写真を見ると若々しさに驚くし、鏡を見て本当に老いたと感じる。ゲームを遊んでいても、身体能力でカバーしなければならない場面を極力避けるようになってしまっている*1。更年期障害にはなっていなくても、以前に比べて性的なもの、エロいものへの関心が少なくなった。楽しいアニメやゲームとの出会いは今でもあるけれども、それが、残りの人生に決定的な爪痕を残すとは、それほど思えない。
 
なぜなら私はもうこんなに生きてしまって、生きてきた歴史がこんなに堆積して、私のマインドは爪痕だらけになっているからだ。
 
小学校時代に楽しかったもの、中学校時代に生きるよすがとなったもの、高校時代に扉を開いてくれたものを、私は反芻して生きてきた。私にとってそれは、『機動戦士ガンダム』シリーズの大会戦で活躍する量産型モビルスーツたちのイメージ*2だったり、『ドラゴンクエスト』シリーズのアレフガルドのBGMだったり、『銀河英雄伝説』の登場人物たちのセリフだったりする。それらを何百回何千回と思い出し、それらに支えられながら生きてきたのが私だ。成人後は、そこに『新世紀エヴァンゲリオン』や『CLANNAD』や『シュタインズ・ゲート』が加わる。それらは私にとって娯楽であっただけでなく、シナプスの色々なところに刻まれ、何をする時にも自動的に思い出してしまう、そんな爪痕だった。
 
そんな爪痕が脳内にたくさん刻まれている私には、もう余白があまりないと思う。2020年代に入ってからも追加はあって、例えば『ぼっち・ざ・ろっく!』や『フリーレン』は爪痕の仲間入りをするだろう思いながら眺めている。でも、それらは私の脳内にあって新入りだし、たくさんの爪痕たちのなかの一部でしかない。小学生時代の頃の『機動戦士ガンダム』シリーズや、高校生時代の頃の『銀河英雄伝説』のように、多感で余白の多かった頃に悠々と私の脳内を占拠した作品たちのようにはならない。
 
爪痕がたくさん刻まれているということは、余白がなくなった、ということでもある。
 
まっさらな人生の余白。まっさらな感性の余白。そういったものが私にはだいぶなくなってしまった。今でも新しい作品を楽しむことはできるし、『ゆるキャン△』に感化されて山に登ってみた感じからいって、新しい趣味を始めることもできる。でも、まだ人生が始まってそれほど経っていなかった頃に戻って新しい作品を楽しむことは決してできない、なぜなら人生に爪痕を残した作品に出会い過ぎてきたから。それと同じく、思春期に出会った頃と同じ姿勢でゲームやアニメと向き合うこともできないだろう、なぜなら自分のアイデンティティをかたちづくるものが思春期以降にできあがってしまったから、新しい趣味を始めたいと思ったらどう始めればいいのかを、小器用にもわかってしまっている自分が出来上がってしまったから。
 
すでに感性や脳内のシナプスのいろいろなところに爪痕が刻まれまくっている。新しい爪痕が加わっても大きなインパクトとなりえず、思春期の頃のような、ほとんどムキになっているような姿勢でゲームやアニメと向き合えないということは、私が老人ってことではないだろうか? 少なくとも、これは若者や少年ではない。私には私の歴史ができてしまい、そのぶん私の余白は少なくなってしまった。その、記憶と追憶だらけの私がどれほど新しい作品に出会おうと、たとえば私にとっての『新世紀エヴァンゲリオン』のような、作品ひとつで生き方がひっくり返ってしまうようなインパクトは期待できない。
 
そして私は今も過去に出会った作品たちを反芻している。『機動戦士ガンダム』シリーズを。あるいは『銀河英雄伝説』を。そうした反芻の対象に最近加わったのが、『ぼっち・ざ・ろっく!』や『フリーレン』だった。
 
これからも私は、新しいアニメやゲームに出会い続ける。でも、そうした出会いは私にとって革命的ではなく、たくさん積み重ねてきた記憶と爪痕の堆積物を分厚くするだけなのだろう、そう思うこと、実際そうなっていることから考えて、なるほど私は過去を生きている。
 
 

「過去で生きる」私

 
そのうえ、私は余白によって生きるよりも、過去に依って生きている。
 
これが若者や少年なら、過去の積み重ねによって生きる以上に、これから経験すること・これから変わっていく可能性によって生きる側面のほうが強い。いわゆる「自分探し」や「何者かになりたい」も、それが若者や少年ならサマになるし、実際問題、彼らは経験や研鑽をとおしてどんどん変わっていく。未来というものが、変わっていきたい・経験したいというモチベーションにもなる。
 
対して私はどうか。余白が少なくなり、経験が増えたアラフィフには余白はあまりない。もし、未知のことに挑戦するとしても、変わっていく可能性に賭けて挑戦するより、「これをやったらたぶん自分はこうなるし、その際に必要なコストはこれぐらいになる」と経験に照らして挑戦するだろう。ロシアの諺にいう「知り過ぎは老けのもと」を地で行く発想だが、もう、そんな風になってしまっている(し、まあだから色々と億劫がってしまうのだろう)。そして、未来の伸びしろなんてだいたい見えている。私はここでこうしてこれからも生きていければ御の字で、もし思わぬ展開があるとしたら、それは薄氷を渡るような渡世から足を踏み外して破滅する時だろう。
 
そのかわり、私は経験に基づいて生きていくことを知っているし、過去に基づいて現在を、ひいては未来を想像することも知っている。真白な気持ちで新しいアニメやゲームに触れることができないかわりに、過去に経験した作品と比較してそれらを眺められるのは、それはそれで恩恵だ。仕事にしてもそうだ。医学の知識という点でも、過去に経験した症例という点でも、精神医療の領域は過去を知っていることがアドバンテージになりやすいと思う。
 
本を書く、ということも同様だ。未来と現在だけ見つめていては、書けないものがある。私は歳を取るにつれて過去を振り返るような本を読みたがるようになっていて、たとえば近著『人間はどこまで家畜か 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)』などは、過去を振り返ることで現在と未来を照らしてみる、そういう試みのひとつとして書いた。
 
過去は、現在の原因にも、未来の参照項にもなる。年を経るにつれてそのことを私は意識するようになって、最近は過去を知るための本ばかり読んでいる。
 

 
もうすぐ発売になる『ヴィクトリア朝時代のインターネット』は、今、とても楽しみにしている本だ。これは、過去にNTT出版から発売されたものの、絶版となってかなりのプレミアがついていた本だった。それが文庫本として発売されるのだから、買ってしまうしかない。自分の本になってしまえば、付箋をつけたりアンダーラインを引いたり落書きしたりできる! 早川書房には大感謝! というほかない。
 
この『ヴィクトリア朝時代のインターネット』に限らず、過去を振り返る本への興味は増すばかりで、積読が溜まっていく。どうせ私は未来の余白をアドバンテージにする年齢でなく、過去の堆積をアドバンテージにする年齢なのだから、これでやっていきたい。このことに限らず、人生の残り時間がそれほどないなかで若者や少年の真似事をやっていくより、老人の真似事をやっていったほうが残り時間をうまく活かせる気がするので、私は未来で生きるのでなく、過去で生きる心づもりでいたいわけです。
 
 

心境を言葉にまとめる機会をいただけました

 
こうして言語化してみると、はあ、やっぱり私は過去で生きているし、not若者 、not少年 なんだなぁと改めて思い知った。でも、それを生かしていくスタンスにちゃんと自分が変わっていると確認できたし、これから自分がどう生きていこうとしているのか、自分自身の無意識の見通しが読めた気がした。私の社会適応は、若かった頃のそれとはだいぶ違ったかたちになっているが、それは私のライフステージの変化にちゃんと対応しているとも思う。このように舵取りをしてくれた40代前半の私に感謝したいし、今の私としては、50代の私に感謝され得る選択と采配を続けていけるよう祈りたい。
 
最後に。冒頭で引用させていただいた招き猫の方(doycuesalgozaさん)にも、ありがとうございましたと申し上げます。ご覧のとおり、私は過去に引きずられて生きていて、過去を生きていて、過去でもって生きています。言語化してみて、これは変更不能だなとも思いました。私があと何年ぐらい生きられるかわかりませんが、残り時間を、過去をアドバンテージとして生かせるような時間にできたらいいなと願いながら生きていこうと思います。
 
(このブログ文章はここで終わりです、以下はサブスクしている常連さん向きの文章です)

*1:20代の頃は正反対で、身体能力でいろいろなことをカバーするのが私のプレイスタイルだった

*2:ガンダムシリーズの量産型モビルスーツは当時の私にはだいたいどれも響いたが、なかでも最も印象強いのは、なんといってもジェガンだ

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