シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

賽の河原で石を積む人よ、それでもあなたは「大人」なのです

 
 
goldhead.hatenablog.com
 
 こんにちは、goldheadさん。ときどきブログを拝見しています。長く文章を書き、長く生きておられるgoldheadさんを、私は「大人」だと思わずにいられません。
 
 先だってあなたは、「人生で一番若いのは今だ。だから一番若い今始めよう」というnoteの文章に、「だが俺には適用されない」と書き綴りました。同感です。
 
 「人生で一番若いのは今だ」という論法には、トライアルのための時間があり、今までの蓄積をあまり考えなくても構わない人へのアドバイスという前提があるように思いました。もちろん、40代や50代だって「人生で一番若いのは今」ではあるのですが、それだけではなく、40代や50代には「もう人生の長い時間を生き、これまでの積み重ねによって自分の人生やアイデンティティはある程度できあがっている」という前提も伴っています。更に年上になれば、その度合いは一層高くなるでしょう。
 
 goldheadさんは、自分の人生が「賽の河原」である、とおっしゃいました。
 
 地獄の「賽の河原」では、子どもが石を積み上げるたびに鬼がやって来て、積んだ石をバラバラにしてしまうと言われています。現実でも、積み上げたものがその都度バラバラになってしまうような人生を歩む人は珍しくありません。
 
 ……話が逸れますが、双極性障害とは、一体なんなんでしょうね。私は診断基準を知り、実地でそう診断される人の治療にあたっていますが、「賽の河原」になってしまう患者さんもいれば、炭酸リチウムやラモトリギンの効果がてきめんな患者さんや、蛇行運転をしつつも結構ビッグなことをやってのける患者さんもいます。他の精神疾患もそうですが、診断名と重症度は必ずしも一致せず、人生の難易度も診断名と一致していません。
 
 そもそも、人生の主観的な喜びや苦しみは、精神科医の視野にどこまで入っているのでしょうか。エビデンスに基づいた診断と治療を徹底することは、患者さん個々の主観的や喜びや苦しみに踏み込まないことの言い訳たり得るのでしょうか。それとも、そういう次元に踏み込まないほうが現代社会のデリカシーに適った態度なのでしょうか。精神疾患も曖昧ですが、精神科医の見つめる目も曖昧ではないかと思うことがあります。
 
 話を戻します。
 
 病気の有無に関係なく、世の中には、まさに「賽の河原」と言うほかない人生を歩む人もいます。では、現実世界で「賽の河原」で石を積み続けた人はnot 「大人」でしょうか?
 
 私は違うと思います。なぜなら、地獄の子どもと違って現実世界の私達には時間の流れがあり、地獄の子どもと違って私達は歳を取っていくからです。
 
 何かを積み上げてアチーブメントを成し遂げた中年や、世代を再生産している中年を「大人」と呼ぶのは容易いことです。世間一般には、そういう中年に絞って「大人」を定義する人もいて、それで言えばgoldheadさんは確かに「大人」ではないのでしょう。
 
 しかし、世の中には、うだつのあがらない中年、世代再生産や後進の育成に直接は関わっていない中年もたくさんいます。じゃあ、そういった人達は本当に「大人」に該当しないのでしょうか。
 
 現在の私は違うと思っています。長く生きてきて、その積み重ねの上にできあがった自分の人生の現状を受け止めている人、良し悪しに関わらずその時間蓄積のうえに生きている人は、皆、「大人」と言えるのではないでしょうか、控え目に言っても、そういう時間の蓄積のうえに生きている人は、 not「若者」とは言えるでしょう。
 
 「若者」ってのは、時間蓄積のうえに自分が生きている以上に、これから何者かに変わっていく可能性や未来に生きている存在だと思います。そういう、何者かに変わっていく可能性や、未来に向かって生きている存在である以上に、これまでの時間蓄積のうえに自分が生きていると感じる人は、もう「若者」ではありません。まして、時間蓄積や行いの蓄積を所与の条件として受け入れたうえで、残りの人生を生きていくのだと悟っている(または覚悟している、または諦めている)なら、その人は「大人」の領域に足を突っ込んでいるのではないでしょうか。
 
 そういえば「賽の河原」という発想も、なんだか「若者」ではない気がします。「若者」は、「賽の河原」を積み上げるという感覚以上に、新しい自分を作り直すとか、違った自分を目指してみるとか、そういう発想に傾くのではないでしょうか。しかるにgoldheadさんは、「賽の河原」が繰り返される、と、これまでの時間蓄積の延長線上にご自身を置いていらっしゃいます。これは、「大人」の一兆候だと私は思います。「賽の河原」を何度か経験したことの前提にたってこれからを生きていく(あるいは生きていかざるを得ない)と認識する態度は、「若者」的ではありません。
 
 人生が一定以上積み重なってくると、これからの変化可能性や未来の未知性を信じるより、これまでの時間蓄積にもとづいて物事を考えざるを得なくなります。それは、堅い商売をやって堅い人生を積み重ねてきた人も、「賽の河原」に例えられる人も、根っこのところでは変わりません。これまでの時間蓄積を踏まえた人生観に切り替わっているという点では、どちらも「若者」ではないのです。
 
 

それでも「大人」であることにYESと言う

 
 もし、何かに変われること・未来に変化できることだけに価値があるとするなら、「大人」は「若者」よりも価値が無いということになります。「若者」は、えてしてこのように考えて「大人」になってしまうのを忌避しますし、「若者」のうちはそれで構わないのでしょう。
 
 なら、「大人」ってのは、どうしようもないものなんでしょうか?
 
 私はそうは思いません。確かに「若者」の尺度でみるなら「大人」は未来の変化可能性を失った存在でしょう。しかし、「大人」だからこそ出来ることもたくさんありますし、「若者」のように、流行や自意識にギョロギョロしていなくても構わない気楽さもあります。言い換えるなら、「大人」は「若者」のように背伸びしなくても構わない。
 
 具体的に言えば、お手拭タオルで顔を拭いても拭かなくても、おじさんおばさんには大した問題ではないのです。「若者」は、他人に対しても自意識に対しても、カッコつけなければならないけれども「大人」はこの限りではない。
 
 それともうひとつ。長く生きているということ自体が、まだ若くて可能性があるのとは違った意味で、凄くて尊い、あるいは敬意を払わずにいられない何かであるとも思うのです。
 
 ちょっと長いですが、拙著から抜粋してみます。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 

 第4章で触れたとおり、私が「長く生き続ける」ことにすごみを感じるようになったのは、不惑を迎えた頃でした。
 長く生きるというのもなかなか大変なことのように見えます。これから選ぶことや行うことによって人生が決まっていく「若者」とは異なり、中年期以降の「大人」の人生は、これまで選んだことや行ったことに基づいてできていて、その成果も責任も、何もかもを抱えて生きているように見えるからです。その積み重ねの重たさと変更不能性に思いを馳せると、私は「ああ、彼らは自分より長く生きているのか、私よりもたくさんの結果や歴史を背負って……それでも生き続けているのか!」と、ただそれだけで一定の敬意を払いたい気持ちになってきます。
 若い頃は、やれ、親のせいだ、社会のせいだと、自分の身の不幸や至らなさについて責任転嫁のしようがありました。そういった発想の裏返しとして、良い学校や良い職場に入れればきっと人生が変わるとか、良い出会いがあれば自分の人生は変わるとか、他力本願で根拠の乏しい希望にすがって当座をしのぐこともできました。
 しかし、自分の選択を長く積み重ねて、その結果を受け入れ続けて、途中からは完全に自分の足で生きてきた「大人」には、そのような責任転嫁や曖昧な希望の余地がありません。
(中略)
 後先の変更が難しく、メンテナンスが絶えず必要で、やり直しもきかなくなった身の上を生きているにも関わらず、今日の社会では、歳を取ったからといって年下から敬意を払ってもらえることも少ないときています。本当は、彼らが生きて立っているということ自体、若かった頃よりもずっと大変なはずなのに。
 中年以降の人生の見通しを思うと、そういったたくさんの重荷を背負って、それでも生き続けている人たちこそが、まさに人生の偉大な先輩であるという見方ができるのではないでしょうか。
 一方で、長く生き続けるということの大変さや意味合いについて「若者」のうちから直観するのは非常に難しいということも、数年前までは「若者」側だった人間として理解できます。
 なお、年上をすごいと思うようになったからといって、年下がすごくないと思うようになったわけではないことは第5章でも触れたとおりです。それぞれの年頃にはそれぞれの長所や持ち味があって、そのときだからできること、そのときだからやらなければならないことに向き合いながら人は生きています。だから何歳になっても生き甲斐はあるでしょうし、生きなければならない責務もあるのだろうと、いまの私は思っています。
 
 『「若者」をやめて、「大人」を始める。』より抜粋

 長く生きていることには歳月相応の重みがあり、それは成功に彩られた人生でも、そうでない人生でも同じです。むしろ、世間的にわかりやすいアチーブメントに支えられた人生よりも、そういったもの抜きで生きている人生のほうが、難易度の高い人生を積み重ねてきたという意味では年輪が深いのではないかと思うのです。
 
 goldeheadさんは、世間的なアチーブメントを松葉杖のように生きているわけではなく、「賽の河原」とおっしゃるところの人生を積み上げてきました。そのような人生は、世間的には評価されるものではないでしょう。しかし逆説的に考えるなら、そのような人生の積み重ねだからこそ、「若者」には無い、一目置かずにいられないものが宿っているのではないでしょうか。
 
 これも拙著で書きましたが、現代社会には、「大人」と「若者」の接点があまりありません。反面、インターネットをとおして私達は少し遠い世界を垣間見ることもできます。goldheadさんは、ブログなどでいろいろなことを書き綴っておられます。それは、たっぷりとしたお金にはならないかもしれないけれども、年下に何かを伝え、影響を与えていく一筋の糸になっていると私は思います。すべての「若者」が世間的なアチーブメントを必ず積み上げるなら、goldheadさんのアウトプットには意味がないでしょう。しかし、世の中には多かれ少なかれgoldheadさんと共通点のある人生、共感できる部分を持った人生もあるはずです。
 
 これから「大人」になっていく人が見つめ、ロールモデルとして学ぶべきは、典型的な成功者の「大人」だけでなく、うだつのあがらない「大人」や、困難を抱えながらも今を生きる「大人」も含めてのはずですが、現代人は、老いも若きもそのことを忘れ過ぎていると思います。本当は、いろいろな「大人」のかたちが、「若者」からの無数の世界線の枝分かれを照らす光明であるはずなのに。
 
 goldheadさんにおかれては、どうか、お酒に喰われてしまわないよう気を付けながらご活躍ください。あなたがアウトプットした諸々もまた、きっと年下の誰かの参照項になっていくのでしょう。それは、基本的に善いことだと私は思っています。