シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

AI時代の精神医療を想像する──3.支援か?支配か?自由か?不自由か?

[前々回]:AI時代の精神医療を想像する──1.診断と治療について - シロクマの屑籠
[前回]:AI時代の精神医療を想像する──2.社会復帰の宛先は? - シロクマの屑籠
 
 
前回の文末で、AIが患者さんの社会復帰や社会参加を差配するような未来を想像したうえで、「そのとき人間の自由とは、人間の選択とはどのようなものになるだろうか?」と記した。
 
私は自由を重んじるので、「そりゃあ自由じゃない、不自由じゃないか」と言いたくなる。が、AIが普及した未来において、自分自身で考えて進路や仕事を選ぶより、AIが進路や仕事を選んだほうがマッチングしやすく、成功しやすくなったとして、それでもあなたは自分の自由意志とやらにチップを賭けるだろうか。
 
令和時代の日本人なら、過半数の人が「自分で決めるより、AIに身を委ねる」と答えるのではないだろうか。AIのマッチングのほうが高確率に自分にあった仕事を選んでくれて、自分にあったパートナーを見つけてくれて、自分にあったライフスタイルをサジェストしてくれると誰もが知るようになった時、その統計的エビデンスもくっきり数値化された時、それでもなお、確率の目の悪い自己選択を選ぶ人は奇特な人とみられるだろう。いや、セルフネグレクトとみなされるかもしれない。
 
だってそうだろう? めちゃくちゃ強いポーカーのAIにチップを委ねるかわりに、素人の自分がポーカーをプレイするのは、確率を重んじ、悪いことが起こる確率をリスクと呼んで忌み嫌う現代人にとってナンセンスじやないか。
 
人生はポーカーと同じく、何度も何度も選択を積み重ねるものだ。一瞬一瞬でみれば、AIの判断より自由意志のほうが好ましい結果をもたらすことがあっても、中~長期的にはAIのほうがうまい判断を積み重ね、好ましい結果を蓄積させるとしたら、長い目で見ればAIに委ねたほうが何事もうまくいく。対して、自己選択を積み重ねる人が負う損失やリスクは、確率の蓄積となって数年~数十年のうちに膨れ上がってゆくだろう。
 
そうしたAIの選択の巧さと人間の選択の拙さの対照は、選択能力の乏しい人ほど甚だしくなる。
 
この話はもう、「AI時代の精神医療」というお題を逸脱しているな。でも構うものか。
 
精神医療周辺に限らず、人間の選択や決断の大半をAIに委ねたほうがうまくいく未来が到来したら、もう人間はAIの言いなりになったほうが幸せになれる、よりマシな人生を過ごせるようになる、そんな状況にたどり着いてしまうのではないだろうか。
 
そんな社会でも、AIにはやってのけられないミッションを与えられる人間がごく僅かに残されるだろう。だが、そうした選ばれし人間かどうかをそれぞれの人間が自己判断・自己選択させてもらえるとは思えない。ほとんどの人間は「とにかくAIに従っていなさい」といわれてしまいそうだ。
 
そうなると「AIが人間を支援する名目で実質支配する社会って倫理的・道徳的にどうなのよ?」という疑問が浮かぶだろうし、自由権の強い国々ではそれが議論されるだろう。でも、自由権の弱い東アジアの国々ではどうだろう? たとえば中国では? 日本も、さてどうだろうと思ったりする。
 
日本は自由主義陣営の国だが、案外、安全や将来のためとなると個人自身の意志尊重が有耶無耶になりやすいところがある。(国連などからたびたび批判されている)医療保護入院制度などは、その現れのひとつだ。少なくとも、アメリカで生まれた子どもと日本で生まれた子ども、どちらが親からのパターナリスティックな影響下に置かれやすいか、さらに国や行政からのパターナリスティックな影響下に置かれやすいかといったら、日本のほうだろう。
 
そしてAIのほうが自己選択や自己決定よりも確率的に、つまりエビデンス的にも良い結果をもたらすとはっきりわかってしまった時、それでもなお、AIによる人間の支援/支配を私たちははねのけられるだろうか。あるいはAIによる人間の支援/支配を政治的問題として議論できるだろうか。特に日本人! こういうことって、日本人に議論できるの?
 
統計的に高確率で健康でいられる物事、統計的に高確率で経済的に豊かになれる物事は、しばしば、脱ー政治化されてしまう。それが強いエビデンスを伴っているなら尚更だ。たとえば不健康な選択にペナルティを課すことは政治の問題以上に医療の問題とみられがちだ。安全性の問題やリスクマネジメントの問題は、より安全な選択肢が存在し、経済的にもそのほうがお得な場合には、選択するかどうかが政治的に議論されることは少ない。
 
それなら、AIのほうが万事うまく選んでくれる未来において、AIに背を向けた不健康な選択・不経済な選択も政治の問題ではなく医療の問題とみなされてしまうのではないか?
 
もちろん、忘年会の日にビールを少し飲むか飲まないかといった些細な水準では、人間にはいぜんとして自由が残され、小さな愚行権の行使に同時代の行政とAIは寛大な判断を示すに違いない。しかしAIの支援をかなぐり捨てて暮らすのか暮らさないのか・AIのサジェスチョンを無視して無茶な退職や起業をやって構わないか否かといった重要な水準では、"長期予後"がAIのほうが良いという強いエビデンスがある時、それに逆らう自由が残されるか怪しいところである。大きな愚行権の行使、特にその持続的な行使が、健康や経済性を大きく毀損することが判明し、そうしたエビデンスが蓄積した時、AIに従うか従わないかは脱ー政治化され、そんなものを政治的討論の対象にするのはバカげていると人々が言い始めるのはあり得そうなことのように思える。自由権を峻厳に問う国でないなら、これは考えられる未来ではないだろうか。
 
そうしてAIに頼って生きることが脱ー政治化され、いわば健康診断を受けたり高血圧の薬を飲んだりするのと同じぐらい常識的とみなされるようになった未来において、私たちは案外、幸福に暮らせてしまうのかもしれない。その未来では、やりがいのある仕事は今よりずっと少なくなり、たいていの人間が従事できる仕事も減るだろうが、AIのサジェスチョンどおりに生きている限り不幸は最小化し、健康は最大化されるかもしれない。ストレスの問題や対人関係の摩擦も、AIによるコミュニケーション支援によって最小化されるかもしれない。そしてAIによる人間のモニタリングとマネジメントが極まったあかつきには、精神疾患は治療するもの以上に予防するもの、悪くなってから病院を訪れるものではなくスマートメディア等を介して予防的介入をほどこされるものになるかもしれない。そうなれば、右肩上がりに増え続けてきた精神疾患に悩む人々の数も、ついには減少に転じるかもしれない。そこまでいかなくても、AIがもたらす社会の激震によってメンタルヘルスを損ねる人の割合を少なく済ませてくれるのかもしれない。
 
が、そのとき人間はもう自由ではない。もとより人間は常に社会に包囲されながら生きているから、新石器時代にも不自由はあったし20世紀末にも不自由はあった。だからAI時代にも不自由があっておかしくないのだが、AIによって人間が包括的に支援される社会・人間自身が働く割合が減り続けAIやマシンに働いてもらう割合が増え続ける社会における人間の自由は、従来の自由とはだいぶ違ったものになるだろう。そのとき、未来の人々が考える自由の範囲は私たちが考える自由の範囲よりきっと狭い。そして、狭くなったにもかかわらず人々は自分が不自由になったことに気付かないだろう。
 
ユヴァル・ノア・ハラリは、『ホモ・デウス』というスピード感ある書籍のなかで、人間が超エリートと働かない大多数に分かれた未来社会、人間がドーピングせずにいられない未来社会、そして人間が要らなくなった未来社会を描いてみせた。
 

 
実際、AIになんでも判断してもらうようになったとして、そのとき人間は本当に必要だろうか? 社会のために、という意味だけではない。人間自身にとって人間が生きることは必要だろうか? 人間はなぜAIに世話されながら生きているのか、なぜAIのサジェスチョンどおりに生きなければならないのか、そもそもAIのもとで私が生きているとはなんなのか、等々がただちに問われるだろう。
 
いや、本当はいつの時代にも、そうした人間がなぜ(その時代のレールにまたがりながら)生きているのか・生きなければならないのかは問われて構わないものだったが、色々と忙しい時代には、そのような問いは鳴りを潜めることができたし、問うこと自体が暇人の証のようにも思えた。
 
しかしAIに上から下まで世話され、判断や決断を代行され、ともすれば仕事もなくベーシックインカムで生かされる暇な人間には、その実存的な問いが帰ってくるだろう。人生の操縦桿を一生懸命に握っている最中には、人間はなぜ生きているのかなどという問いはくだらなく思えるものだが、自分の人生が自動操縦になったり操縦不能になったりした時には、ぞっとするような問いに変貌するものだ。ときには人間を打ち負かしてしまうその問いが怪物のように巨大化し、大多数の人に襲い掛かるのかもしれない。そのときAIは……人間の幸福と不幸回避のために……どのようなサジェスチョンをなすのだろうか。
 
AIが織りなす社会について考えているうちに、「AI時代の精神医療」というテーマから逸脱してしまったが、最後にいくらか帰ってこれたように思う。自由とは、精神的健康とは、生きがいとは何か? それらは精神医療のそばに在り続けた問題であり、人間のメンタルヘルスや心象風景に影響する問題でもある。それが脅かされるとしたら、AIが人間に反乱を起こすより前に、人間がAIに反乱を起こさなければならないのではないか、と着想したりもする。そんな人間の反乱は、AIが無人兵器を動かすなどしなくても自滅しそうではあるが。
 
 
いやはや、益体も無いことを想像してしまった。
 
私は人間が後代に残せる遺産のひとつとして、科学技術だけでなく自由もあってしかるべきと思っている。しかし今のところ、安全性や効率性のためなら人間の自由を削って構わないと思っている人、AIのほうが何事につけ上手く判断してくれるならそれに委ねて良いと思っている人は多そうである。そのような人が大多数を占める社会に、AIによるパターナリスティックな*1支援と支配を拒む道理はあるだろうか。たぶん、あるまい。そうやってAIに委ねても構わないと思っているところからじわじわと、自由は削がれていくだろう。
 
見ようによっては、それは近現代の人間社会の通常運転の延長線上のこととみえなくもない。だとしても、AIが普及することで、そうしたやさしい支配のきめが細かくなるとは想像しやすい。
 
 

*1:とはいえ、その支援は個々人の生物学的・社会的事情に即したオーダーメードなものとなるだろう