[前回]:AI時代の精神医療を想像する──1.診断と治療について - シロクマの屑籠
前回から引き続いて、AI時代の精神医療にかんしてブロガーとして未来予測をしてみる。今回は主に、患者さんの社会復帰や社会参加、その宛先についてである。
今日、精神医療の最前線ではさまざまなかたちで患者さんの社会復帰が進められている。個人的には、社会復帰という語彙は働いていなければ社会参加していないかのような印象、精神科病院が not 社会のような印象を与えかねないので苦手だが、自立支援医療制度をはじめ、精神医療のさまざまな制度には経済的自立、それに関連した就労、それか経済的社会的判断能力の(再)獲得といったニュアンスがついてまわるので、そういったものを念頭に置きながら社会復帰や社会参加という語彙をここでは用いる。
たとえばうつ病や統合失調症などに罹患した患者さんは、回復や寛解の度合いに応じて職場復帰したり、ハローワークをとおして別の仕事に就いたりする。授産施設で働く患者さんもいようし、就労は困難とされ、まずは経済的社会的判断能力の(再)獲得や維持が優先される患者さんもいるだろう。どうあれ、患者さんの社会復帰や社会参加が重要な目標とされる。
そうした社会復帰や社会参加も、AIが判断するようになるかもしれない。
回復の度合いにふさわしい職業。寛解の度合いにふさわしいリハビリ。それぞれにふさわしいライフスタイルや人生。就労支援のAIは、それらを強制しないだろう。しかし就労支援のAIがそれらをサジェストすることは大いに考えられる。婚活においてAIがふさわしいパートナー候補をサジェストし、気に入らなければ次のサジェスチョンへ、さらにその次のサジェスチョンへと提言していくように。たとえばリクルートやベネッセの事業の延長線上として復職支援のAIができあがった未来を想像するのもたやすいし、案外、AIのほうが人間よりうまくマッチングをやってのけるかもしれない。
そしてAIなら、復職という社会的なイシューと治療という医学的なイシューを同時に考え、勘案し、どちらか一方に苦手意識を持つ精神科医や復職担当者にありそうな「むら」を均してくれるかもしれない。たとえその行き着く先がSFアニメ『PSYCHO-PASS』のシビュラシステムのようなものだったとしても──*1。
アニメ『PSYCHO-PASS』より
AIが浸透した社会では、精神医療以上に社会全体が大きく変化しているだろうから、職場復帰、再就労といった時の宛先も変わっているだろう。九州や北海道の炭鉱が閉山ラッシュになった時に精神医療のニーズが高まり、特にアルコール依存症の症例数が増えたという話を聞いたことがあるが、大量の失業者が出た場合、似たようなことが社会全体で起こってしまうかもしれない。特に今日のホワイトカラー層の仕事がどうなるのかは予断を許さず、かつて炭鉱夫が直面した悲哀が繰り返される可能性はある。医師とて例外ではない。
産業構造が激変してしまえば、職場復帰や再就労といっても職域全体が縮小したり消滅したりしているかもしれない。そうなった時、たとえば大量に余った元ホワイトカラー層の患者さん達は非ホワイトカラー層の職域への転換を期待されるだろうが、簡単ではなさそうに思える。AIに身体性が欠けているうちは(少なくともしばらくは身体性が欠けているだろう)フィジカルな仕事は人間に残されるから、フィジカルな仕事に慣れている人は今までどおりの社会復帰を期待できるやもしれない。が、デスクワークに慣れてきた人がフィジカルな仕事に職域転換すること、まして、病み上がりにそれをやってのけることは、炭鉱夫たちの職域転換以上に難しいように思える。あるいはホワイトカラー層の残り少ない就労先を巡って、熾烈な生き残り競争が行われるかもしれない。そのような熾烈な状況にうつ病などの病みあがりの人が直面するのはいかにも厳しそうではある。
だが悪いことばかりでもなく、AIだから可能な支援も生まれてこよう。後述する、AIによる患者さんのモニタリングとも関連する話だが、患者さんのモニタリングやサポートがスマートメディア越しに行われるようになり、たとえば病後の身体づくりもAIによって促されるようになったら、そのぶん患者さんの社会復帰は助けられるだろう。逆に、そうした病後を支援するAIが普及するより早くホワイトカラー層の職域がシュリンクしたり、社会全体が変わりすぎてしまったりすれば患者さんの社会復帰の難易度は高くなってしまう。
続いて、障害の程度が重く、授産施設への就労に留まるか、経済的社会的判断能力をかろうじて維持している患者さんについて。そうした患者さんについては、案外、AI時代になってもあまり変わらないのではないかと現段階では想像する。
さまざまな書籍を読み解く限り、「どういう人が就労可能なのか」「どういう人がどこまで社会参加可能なのか」は、精神医療なるものが出現してからこのかた、動き続けてきたゴールポストだったように思える。試みに、放浪者は就労可能か・社会参加可能かと問うてみて欲しい。『男はつらいよ』を例示するだけでは不十分だろうが、たとえば昭和のある時期まで、放浪者でも就労している・社会参加していると言える職域──というより社会的領域というべきか──は存在していた。江戸時代の日本、絶対王政以前のフランスなどはもっとそうだっただろう。そもそも社会は、私たちが今自明視しているような社会ではなかったのだから。
それが、就労も社会参加も法治の明かりに照らされ、制度化され構造化され、あわせて効率化されてコンプライアンスが守られるようになったのが現代だ。そうした流れのなかで、就労困難になったり社会への参加そのものが難しいとみなされていたりする人はそれなりにいる。そして授産施設の生産物はAIが普及してもおそらく重要であり続けるだろう。なぜなら授産施設は少なくないフィジカルな仕事を請け負っているからでもあり、日本の福祉レジームを成立させる重要な位置づけを担っている*2からでもあり、そうした施設の役割がAI時代に拡大することこそあれ、縮小するとは考えにくいからである。
AI時代を想像する際に、ベーシックインカム論があわせて語られることがある。もしAIが人間の仕事の多くを奪ってしまうとして、そのときベーシックインカムが導入されるのではないか、人間は働かないでもっと違ったことをするようになるのではないか、といった話もある。確かにそうかもしれない。が、人間は労働による疎外をしんどいと感じる動物であると同時に、社会的役割や居場所を与えられなければしんどいと感じる動物でもあるから、そのとき、授産施設やデイケアといった名称はとらないかもしれないが、それに類する施設やコミュニティは作られなければならなくなるだろう。それが精神機能の維持や向上と結びついている限り、精神医療の領分となり、一部はAIによって、一部は精神科医をはじめとする人間によって支援されるやもしれない。
だから、ホワイトカラー層の職域についてのネガティブな想像に比べれば、精神医療の領域の社会復帰や社会参加の問題はポジティブに振れる可能性を秘めていると私は想像する。これは、当該分野へのAIの普及が社会の他の領域より先行できるかどうかに左右されそうな話で、ホワイトカラー層の職域があまりにも早くシュリンクしてしまった場合、AI普及による恩恵よりも困難が勝る可能性ももちろんある。現時点で就労が困難な患者さんや、フィジカルな仕事に就いている患者さんは、それでもマイナスの影響を受ける度合いが小さいかもしれない。最も影響を受けやすいのは、AIによって仕事を奪われやすく自分の仕事に誇りやアイデンティティを感じている、そのようなホワイトカラー層の職域の患者さんではないかとも思う。
仕事に誇りやアイデンティティが伴うのもまた人間だ。病後の患者さんは、そうした誇りやアイデンティティにも傷を負っていることが多く、いわば心が手負いの状態のなかで社会復帰や社会参加を試みている。そのとき、誇りやアイデンティティは取り戻せるだろうか? もちろんAIは、そうした人間の人間らしい性質も考慮しながら支援やサジェスチョンを行ってくれるだろう。
それでうまくいくなら、まあいいのかもしれない。が、AIの支援やサジェスチョンのままにリハビリし、再就職し、誇りやアイデンティティさえチョイスしてもらう人間の自由とは、そして人間の意志決定とは、いったいどのようなものになるのだろうか?
(続きの「3.支援か?支配か?自由か?不自由か?」は4月16日にアップロード予定です)
*1:もちろん現実のAIは『PSYCHO-PASS』に出てくるシビュラシステムのような出来上がりにはならないはずである。シビュラシステムは、同作品に登場する「免罪体質」などと並び、刑事モノとしての『PSYCHO-PASS』の物語の建付けに都合の良い設定をなしている。もし、現実にシビュラシステム的なシステムが構築されるとしたら、もっと散文的で官僚的、判断の的中率がシビュラシステムに劣るところを法令・通達・指導をとおしてプラグマティックに運用するようなシステムになるだろうと想像する。判断の的中率でシビュラシステムに劣るからといって、そのシステムがシビュラシステムより劣っているとは限らない。この点については『PSYCHO-PASS』の作中、season1の第十三話で局長がそのものずばりを言っている──「いかに完全を期したシステムであろうと、それでも不測の事態に備えた安全策は必要とされる。万が一の事態への柔軟な対応、機能不全への応急処置、そうしたものまでを含めてシステムとは完璧なるものとして成立するのだ。システムとはね、完璧に機能することよりも完璧だと信頼され続けることのほうが重要だ。シビュラはその確証と安心感に支えられて、今も恩寵をもたらしている」──この言葉はシビュラシステムほど技術が進んでいないシステム、AIが積極的に導入される社会のシステムにも、今日の日本社会のシステムにも、おそらく戦前の日本社会のシステムにさえ当てはまることだ
*2:福祉レジームを成立させる重要な位置づけとは、さまざまな人々の社会参加を促したり福利厚生を維持したりする機能に加え、その救護的性格や社会的再分配などをとおして[現在の]社会体制の統治の正当性や道義性をも生産する役割、いわば、正義の工場としての役割も考慮されてしかるべきだろう。社会に矛盾や不平等があっても、そうした施設が稼働している限り、社会の功利主義性が一応守られている、少なくとも守る努力が行われているとはみなされよう。口さがない人は、ときに「福祉は治安対策」などというが、体制から見た福祉が果たしている役割はもっと多義的だ。そして福祉施設から生産される正義は、体制の成立に貢献する正義、集票に関連する正義でもあるから、そこには権力の伏流水があるとみるべきだし、生産された正義は体制によって用いられ、あるいはその不足が反体制側に批判され、権力闘争においては攻守双方に活用されるだろう。そのようなイデオロギッシュな生産物、正当性や政治性にまつわる生産物がある限り、福祉施設はそれ単体では赤字部門だとしても常に体制に貢献し、体制を支える。なお、生産される正義がどうである時に最も体制にとって貢献するかは、国や地域の歴史次第で変わる。日本における正義の生産が欧米の識者の論じるそれとズレていることは、正否はさておき、驚くにはあたらず、現象としてはそうなるのが自然とみるべきだろう。