シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「TPOのできた発達障害な人でも働きにくい社会」とそのコンセンサス

 
 私の場合、診察室はもとより、私生活でも「大人の発達障害」と診断された人によく出会う。私が好きで好きでしようがないインターネットやサブカルチャーの領域にも「大人の発達障害」と診断される人がごまんといて、彼らなりに活躍していたり苦労していたりする。
 
 「大人の発達障害」と診断される人々に診察室で出会っても、プライベートで出会っても、彼らの大半は礼節や礼儀作法をしっかり身に付けている。少なくとも、そういったTPOがなっていない人にはあまり出くわさない。もちろん、空気を読んで当意即妙の発言ができる/できないであるとか、会話中の手足の挙動とか、そういった部分から発達障害の特性が垣間見えることは、ある。けれども古典的な自閉症のような重度の発達障害ならいざ知らず、「いまどきの大人の発達障害」と診断されている人のなかには一定のTPOを身に付けている人がたくさんいるし、そのおかげでプライベートな付き合いが成立するとも言える。
 
 ところが、TPOのしっかりした「大人の発達障害」の人でさえ、社会適応には四苦八苦していることが珍しくない。そのなかには「昭和時代だったら、ここまでTPOがしっかりしていたらセーフだったのでは……」と思えてしまう人々も混じっている。TPOさえしっかりしていれば、発達障害の人でも働ける場所があったのが昭和時代だったのではないか。
 
 たとえば三十年前の郷里の料理屋には、動作はていねいだけど動きの遅い従業員がいた。あの人が、令和時代のファミレスやコンビニで勤められるとはあまり思えない。そういった人々が駅や学校にもいたように思う。現在の私の診断基準で思い返すなら、彼らが「大人の発達障害」に該当していた可能性はそれなり高い。
 
 ホワイトカラーなサラリーマンで言えば、「窓際族」を思い出す。「窓際族」とは、閑職に回され暇そうに過ごしているサラリーマンを指す言葉として昭和時代に流行した言葉だ。体の良い厄介払いともいえるが、終身雇用制度がまだ残っていて、ともかくも定年まで勤めさせてくれたということでもある。「窓際族」という曖昧な雇用プールのなかにも、発達障害の人が紛れ込んでいたかもしれない。
 
 だが、「窓際族」のような曖昧な雇用プールは過去のものになり、「肩たたき」や「追い出し部屋」に取って代わられてしまった。
 
 2020年代の、とりわけサービス業の最前線にはそういう人はなかなか見かけない。たとえTPOがしっかりしていたとしても、ASDやADHDの人が働ける職域はそれほど広いとは言いづらい。傑出した才能を持ったASDやADHDの人が特別な待遇を受けることも無いわけではないが、それらはあくまで例外だ。人によっては、いわゆる障害者雇用という枠での採用や、あるいは授産施設で働いている場合もある。
 
 そういった振り分けが正規の診断手続きに基づいて為される限りにおいて、良いことだという社会的なコンセンサスもできあがっている。
 
 ということはだ、社会のなかで「大人の発達障害」な人が非-障害者雇用として働くためのハードルは昭和よりも高くなっていて、しかも、そのことについての社会的コンセンサスも(いつのまにか・たぶん)できあがっている、ってことではないだろうか。
 
 非-障害者雇用として働くための必要条件が厳しくなり、TPOがちゃんとしているだけでは足りないということになり、現在の「大人の発達障害」なる人々が職域を狭められているとしたら、それは、個々人の「障害」だけが問題とはちょっと考えられない。社会が人を受け入れる力を失っている、あるいは、働く人間にかんする社会的なコンセンサスがいつの間にか変化してしまっている、という点にも目をむけるべきだし、そこも議論されなければ片手落ちではないかと、私は思う。
 
 ところが、発達障害の診断と治療を良いこととするオピニオンこそ巷に溢れているけれども、「大人の発達障害」の職域が狭められていることや、そういう風になってしまった社会的コンセンサスの成り立ちやメカニズムに対して疑問のまなざしを向ける人はあまりいない。
 
 少なくとも、「みんなで発達障害を診断・治療しましょう」という声に比べて「大人の発達障害と診断・治療される人でも、診断される・されないにかかわらず、そのまま職場や家庭にいてもいい社会をつくりましょう」という声は私の耳にはそれほど聞こえてこない。
 
 ひとりひとりの社会適応を助ける、という点でみるなら、発達障害の診断と治療は理に適っている。精神科医や福祉関係者は積極的にそのような個人の手助けをすべきだろう。障害者雇用のようなシステムも、個人救済の仕組みとして必要なのは言うまでもない。
 
 だがそれは医療や福祉にたつ際に主張すべき話であって、社会的なコンセンサスの成り立ちやメカニズムに目を向けるなら、発達障害として診断・治療を受けなければ職場や家庭にいられないとか、少なくない発達障害の人が障害者雇用という枠のなかに位置付けられなければならないとかいった、そういった現状についても考えを巡らせなければならないのではないか。
 
 インターネットには、個人の適応よりも社会の改善を論じたくてしようがない人がたくさん存在している。経済問題、福祉問題、法的問題といった、ミクロな個人救済だけでは終わらない問題を大きな声で議論したがり、マクロな視線で考えようとしたがる人に事欠かないのがインターネットであったはずだ。
 
 ところがそういった社会に対して意識の高いインターネットの人々でさえ、発達障害の話題になると、やけに、ミクロな個人救済の話に終始してしまう。なぜだ。
 
 

意識高いインターネットの皆さん、そのへんどうなんですか?

 
 
 医療当事者や福祉当事者がミクロな個人救済に意識を向けるのは当然だろうし、私だって白衣を着ている時はそれ以上のことは何も考えない。考えるべきでもあるまい。
 
 とはいえ、社会に対していつも意識の高い人々まで、発達障害の問題をミクロな個人救済の視点でしか論じられないのだとしたら……。
 
 
 ちょっとややこしいことを言うと、私は、そういう問題意識がインターネットのマジョリティに行き渡って欲しいとまでは思わない。そしてミクロな個人への手当てとして、私は現在の医療福祉の取り組みに妥当性と説得力を感じてもいる。今日の発達障害の診断と治療と支援のありかたは破綻していないし、それは良いことである。
 
 とはいえインターネットには多種多様な意見があり、マイナーな意見もそれなり目に付くものだ。にも関わらず、発達障害の社会のなかでの位置づけの話になると、いつもは社会にセンシティブなインターネット人士にも勢いがない。診断と治療、適切な treatment を是とするのは良しとして、それらを必要としている社会と、その社会にかんするコンセンサスの成り立ちに目を向けようとしないのは、ちょっと面白く、ちょっと恐ろしいことのように思える瞬間があったりする。
 
 ということはだ。
 いつの間にかできあがった発達障害にまつわる診察室の外の社会的コンセンサスは、すでに強固な水準に達して、なかば常識として定着しているのだろう。
  
 外来でしばしば見かける、今日の診断トレンドからみて発達障害とみなされるけれどもTPOはしっかりしている学生さん、主婦、中年男性といった人々。彼らはきっと、数十年前には疾患とは診断されていなかっただろう。
 
 だが、そもそも、どうして彼らは精神科に来なければならなかったのか? なぜ、それそのままの姿で職場や家庭で生き続けることが難しくなってしまったのか? TPOの習得だけでは不十分だったのか?
 
 個人にではなく社会に焦点をあてて考えた時、昔は常識ではなかったことが現在ではスルリと常識になってしまっていることについて、私は不思議の念に駆られる。好奇心が爆発しそうになる。一昔前、ブログ世界には「社会派ブロガー」なる人種がもっとたくさんいたように記憶しているが、この好奇心をシェアできるブロガーは現在はあまりいない。twitterには、いくらかいるかもしれないが、彼らは極論を好むことが多い。
 
 いつの時代もそうかもしれないが、私達は、すごく興味深い社会変化のプロセスに立ち会っている、はずだ。そこで生きる最適解について考えるのもいいけど、生きなければならない社会を貫く道理やコンセンサスを追っていくのも楽しみがある。この社会は、いったいどこに向かっているのでしょうね。