シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「生きづらさ」の根源をもっと深く突き詰めてみる

 
生きづらいのは「資本主義」や「自由主義」のせいなのか。 | Books&Apps
 
『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を読んでくださり、ありがとうございました。また、それに関連して生きづらさについてご意見をいただきました。
 
「役割が減った」という見方で語れる生きづらさも、あるでしょう。「アイデンティティの確立が難しくなった」で語れる生きづらさがあるのと同じように。
 
このreplyに相当する文章では、前半で『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』の趣旨に沿ったかたちで「いやいや、でも資本主義は2020年現在、人を救うより疎外してませんか」と語ったうえで、後半ではそこを超えた地平をこえて「生きづらさ」の根源について考えていきたいと思います。
 
 

いやいや、グローバル資本主義、新自由主義は生きづらいっしょ

 
現代社会は、資本主義や個人主義や社会契約が非常に浸透し、制度やテクノロジーによって裏付けられた時代です。少なくとも有史以来、それらの思想と裏付けがここまで社会に徹底した社会は存在しません。COVID-19の後に巨大な動乱が起こらずに済むなら、40年後の社会ではもっともっと資本主義や個人主義や社会契約が浸透し、結果、アフリカ諸国でも少子化が始まっているかもしれませんが、私が思うに、このような体制のままで日韓中やヨーロッパ諸国がやっていけるとは、あまり思えません。
 
ときに、資本主義が諸制度と結びついて豊かな一時代を国や地域にもたらすことはあります。
 
20世紀はじめ~中頃のアメリカなどはその好例でしょう。世界大恐慌という汚点はあったにせよ、資産家や起業家だけが豊かになれたのでなく、大勢の人が自分の家を持ち、自分の家族を養い、次の世代に希望をつなぐことができました。高度経済成長期~バブル崩壊までの日本も"一億総中流"という物言いがでてくるぐらいには豊かでした。
 
また、資本主義だけの恩恵というわけではありませんが、

私が、大して儲からない零細企業をやっている一つの理由は、世の中に「役割」を作りたいからだ。
また、個人的に、副業やフリーランスの方々を応援するのも、そのような理由からである。

安達さんがbooks&appsというメディアを運営し、社会の一隅(いちぐう)を照らしてらっしゃる*1背景には、現代の資本主義の仕組みに加え、高度に発展した社会契約とそれを支える制度とテクノロジーがあるでしょう。書き手としての私がbooks&appsに参加させていただき、理念にシンパシーを感じるのは、まさにここがインターネットの書き手がブログの時代に培った面白さのある部分を掬い取るメディアであろうとしていること、加えて「役割」を創出されているからですが、このような営みが成立している背景として資本主義を無視するのは不公平なことだと思います。
 
こうした恩義恩恵とはまた別のところでは、資本主義とその体制によって大勢の人が苦境に立たされていたり、豊かさにアクセスする可能性をも奪われている、といった話もよく耳にする時代です。
 
 

チャヴ 弱者を敵視する社会

チャヴ 弱者を敵視する社会

 
 
イギリスで新自由主義が広まるなかで、貧富の差は決定的になり、労働者階級は単に定収入というだけでなく、労働者階級としてのライフスタイルや矜持まで失ってしまった、と『チャヴ』の筆者は記します。労働者は労働者のままで生きて構わないのでなく、ニューレイバーという上昇志向的な新しい労働者であるよう期待されるようになりました。上昇志向を持たず、旧来の労働者階級としてのライフスタイルや矜持をもって生きる道はなくなり、上昇志向を持たない者は社会のお荷物とみなされるのだそうです。
 
私は、この『チャヴ』の運動家じみた筆致が好きではないのですが、それでも資本主義や個人主義が加速し、それを社会契約の論理が後押しする社会の陥穽を『チャヴ』は記しているとみます。『チャヴ』で描かれる資本主義・個人主義・社会契約のありかたは、ただ皆がお金や地位を求めているといったイージーなものではありません。皆がお金や地位を求めなければならず、そのような心性を強制インストールされるような逃げ場のないものです。
 
『「武器」としての資本論』の筆者は、こうした心性までもが資本主義化していくありかた、つまり新自由主義的なありかたについて以下のように評しています。
 
 
武器としての「資本論」

武器としての「資本論」

  • 作者:白井 聡
  • 発売日: 2020/04/10
  • メディア: Kindle版
 

 だが、新自由主義が変えたのは社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことのほうが社会的制度の変化よりも重要だったのではないか、と私は感じています。制度のネオリベ化が人間をネオリベ化し、ネオリベ化した人間が制度のネオリベ化をますます推進し、受け入れるようになる、という循環です。
 ですから、新自由主義とはいまや、特定の傾向を持った政治経済的政策であるというより、トータルな世界観を与えるもの、すなわちひとつの文明になりつつある。
『「武器」としての資本論』(強調は原文より)

 
この資本主義が極まりすぎた(にもかかわらず、個人主義と社会契約が極まった資本主義を修正するというよりむしろ正当化してやまない)社会の状態は、イギリスだけでなくアメリカや韓国でも顕在化していて、程度こそ違いますが、フランスや日本や台湾でも起こり始めているものです。また、『「武器」としての資本論』の筆者は、資本主義(あるいは資本制)についてこんなことを述べています。
 

 これから説明していくように、資本はとにかく増えること、ただひたすら量的に増大することを目的にしています。その他のことはどうでもいいのです。「増えることによって、人々が豊かになる」ことは資本の目的ではありません。人々が豊かになるかどうかはどうでもいいことであって、増えることそのものが資本の目的なのです。資本主義の発展によって人々が豊かになるとすれば、それは副次的な効果にすぎません。
『「武器」としての資本論』(強調は原文より)

 
以前から私も、資本主義とは資本が自己増殖すること自体が主で、人類を幸福にしたり不幸にしたりするのは従ではないか、と疑っていましたが、『「武器」としての資本論』の筆者さんもそのように捉えているようです。そして新自由主義化した社会とは、政府も制度も人の心も資本主義に乗っていく・乗っていかざるを得ない社会ですから、資本の自己増殖を止める術も、それを人類の幸福のための大枠に戻す動機も、あまりなさそうな気がします。
 
さきにも触れたように、私は資本主義が人類史のなかで必ず悪者だったとは思いませんし、たとえばbooks&apps、たとえば数年前までのブログの世界、たとえばリタリコのような新しい福祉企業などは、資本主義の仕組みに乗りながら新しいものを生み出し、人に役割やアイデンティティを与える新しい場となっている一例として挙げたくなります。
 
そういった個々のトライアルには感謝する一方、『チャヴ』で描かれるように国やグローバルの水準では資本主義は新自由主義的にアクセルを全開にしているわけで、到底気を許せるものではありません。
 
また、資本主義は、基調としては役割やアイデンティティを与えるより、剥奪することが多いのではないでしょうか。
 

 お互いが約束したとおりのことが行われたならば、あとは後腐れなし、関係はそこで切れるのです。そうした無関係の関係が、資本主義における人間関係の本質です。これは資本家と労働者が共同体を構成しているわけではないからです。両者は商品を交換(労働力商品と貨幣商品を交換)しただけのことであって、共同体の外の原理がここで働いているのです。
『「武器」としての資本論』

資本主義の良いところは、社会契約にもとづいたやりとりでお互い後腐れがないこと。かつての地域共同体や封建社会のようなしがらみなく、そういう意味では自由でもあります。そのかわり、契約関係や交換関係以外の関係性は無くても構わないし、たとえばアマゾンの倉庫やウーバーイーツの配達員をやっていても、そこに役割やアイデンティティを見出すことはできません。後腐れのないゲゼルシャフト的な関係は、しがらみを含むゲマインシャフト的な関係に比べて役割の分配に適していません。
 


 
拙著では、そうした自由だけど契約関係や交換関係以外の関係性の乏しいやりとりが、仕事だけでなく、もっとコミュニケーション全般にも及ぶようになったと記しました。
 
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 視点を変えて考えるなら、現代人は双方の合意に基づいて、お互いに都合の良いコミュニケーションをしていると同時に、用途や場面、媒介物にふさわしくない部分についてはコミュニケーションしないで済ませている、とも言える。私たちは双方に都合の良い、社会契約にも妥当するコミュニケーションに徹することによって、そうでないコミュニケーションを日常から排除し、キャラクターや役割やアバターには回収しきれない、お互いの多面性を知らないで済ませようとしている。
 これは、コミュニケーションであると同時に、一種のディスコミュニケーションでもあるのではないか? 
『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』

 
資本主義が後腐れのない関係性を築くのと符合するように、私たちのコミュニケーションもまた後腐れのないように、不快感の少ないように効率化し、今となっては余計なことをできるだけ知り合わないコミュニケーション、いやディスコミュニケーションに向かっています。
 
もちろんこれは資本主義単体で起こった変化というより、個人主義や社会契約の進展とともに起こった変化、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの変化の一部なのですが、たとえば昨今の少子化や未婚化、孤立死といった問題も、こうした背景を踏まえて論じるべき問題ではないか、と最近の私は考えています。
 
ここまで述べたものの総体は、安達さんとのご意見と表面的にはだいぶ違っているかもしれませんが、たぶん危機意識はそれほど変わらず、「所属」「役割」「居場所」「アジール」といったものをどうやって取り戻していくか*2という問題意識は近いのではないか、と勝手に思ったりしています。
 
 

そもそも人間は、いや生物は生きづらい……

 
資本主義については、たとえば先進国が後進国の労働力や出生力を買い叩くといった他の側面もありますが、長くなってしまうのでここではおきます。ここからは、資本主義以前の問題として私たちは生きづらい、といった話をさせてください。
 
そもそも有性生殖生物は──いや生物全般は、と言ってもだいたい合っているでしょう──お互いに生態学的ニッチのなかで競争しあい、自然淘汰と性淘汰に勝ち残った者の遺伝子だけが後世に伝えられていきます。私たちは幸福に過ごすべく神がつくりしものではなく、単に自然淘汰や性淘汰に勝ち残った者の遺伝子を引き継いだ者の集合体です。
 
 

 
 
何万、何億世代にわたる淘汰をたまたま生き残った個体の集合体としての私たちですから、結果として、生存に寄与することを欲しがり、生殖に寄与することを欲しがるような性質を私たちはおおむね宿しています。「生存や生殖に寄与する遺伝形質を持った個体によって人間界、ひいては生物界は構成されている」と言い直すべきでしょうか。
 
だから私たちは自分の命を惜しみ、痛みをおそれ、異性をめぐって競争したり悩んだりします。生存や生殖から遠ざかれば痛がるか恐れるか苦しむかし、生存や生殖に近づくことがあれば快楽やモチベーションを得ます。なにせ、そういう形質を持ち、生存や生殖を達成してきた先祖たちの子孫が私たちなのですから。人間の場合は、こうした原則は文化文明によって修飾されていますが、大筋としては現代人もこの原則から逃れてはいません*3
 
仏教では、生、老、病、死の四つを苦しみの根源(四苦)とみなし、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四つを加えて八苦とみなします。いわゆる四苦八苦、ですね。
 
私たちが生物である限り、こうした苦しみから逃れることは難しい、と思われます。釈尊は、こうした苦しみと生物の輪廻から逃れるために悟りの道を説きましたが、大乗仏教徒としての私は、むしろ悟りは困難で珍しい、例外的な出来事であると想定します。
 
生きるとは、それが世間で最良と言われるものでさえ苦を内包していて、満足は遠く、煩悩がついてまわります。たとえ資本主義が一定の安定をみたとしても、未来の人間もまた苦を抱え、満足は遠く、煩悩のなかで生き続けるのでしょう。
 
 
素粒子 (ちくま文庫)

素粒子 (ちくま文庫)

 
ちょうど最近、ウェルベックの小説『素粒子』を読みました。四苦八苦の苦しみに加え、個人主義や社会契約や資本主義といった近代西洋文明ならではの苦しみにもリーチしていて、感じ入るものがありました。
 
衝撃的なラストは賛否両論あるでしょうけど私個人は納得しています。人間は人間をやめない限り、この苦しみを滅却することはできません。それでも生を、自分自身や隣人を愛しているといえる人は強い人だと思います。でも、大半の人は人間や生物に備わっている根源的な生きづらさに苦労し怯えていて、それでも明日を求めて生きているばかりの弱い存在です。
 
生きづらさについて考える際には、やはり、苦労していて、怯えていて、それでも明日を求めずにいられない弱い人々を基準に考えたほうが良いのでしょうし、私自身、そのような弱い自分でもどうにか生きていけるよう、仏教という考え方に自分を寄せることにしました。もちろんそれすらささやかな方便にすぎませんが。
 
生きるとは難しいことですね。そして苦しいことでもあります。
それでも私たちは、明日の朝日を見たい、見なければならないと起き上がってくるのです。
生きづらくはあっても、そうやって起き上がってくる人や生物には、弱いという言葉より別の言葉がふさわしいかもしれません。
 
 

*1:注:これは仏教系の用語。最澄の言葉

*2:それも、進歩と調和させたかたちで

*3:人間が家族や同胞を助けようとする利他的な欲求が含まれる点については、細部はともかく、おおざっぱにはハミルトンの包括適応度の概念に該当するか、そこから社会的生物として幅を広げた形質を獲得したもの、と想定しています