「うまく言えないけれど、あの年上の語り口はキツくて受け入れられない」
話は西暦2000年頃にさかのぼる。
私がウェブサイトを作り始めていた頃、しばしば年上の文筆家、ライター、ウェブサイト管理人の文章に嫌悪感をおぼえることがしばしばあった。
彼らが書いている内容に問題があったわけではない。ほとんどの場合、彼らは私に新しい知識をたくさん授けてくれたし、ウィットや世間知にも優れていた。彼らのなかには書籍を出版している人、学者をやっている人もいて、そういった人々の書籍や論文を読み感銘を受けることもあった。知の蓄積という意味では、彼らは尊敬に値する年上だった。
ところがインターネットで見かける彼らの語り口、きっと書籍や論文に比べてカジュアルに語っているであろう彼らの言い回しには、一種独特のキツさが感じられて、どうしても好きになれなかった。嫌いなものをケチョンケチョンにけなす口ぶり、見下す表現、乱暴に感じられる形容詞や形容動詞の使い方、といったものにうんざりしていた。ときにはスケベ心をくすぐるかのようなジョーク、当時の言葉でいうなら"オヤジギャグ"のようなものをナチュラルに投げかけている人もいた。
そういった言い回しは、年上の書き手でよく目立ち、自分と同世代や年下世代の書き手にはあまり見かけないものだったから、「年上の書き手には、なんだか特有の苦手な言い回しがあって感じが悪い」という印象が私のなかでできあがっていった。
そうした印象は2020年になっても結局変わらなかった。インターネットで見かける年上の書き手は、今でもきつい口ぶり、見下す表現、乱暴に感じられる形容詞や形容動詞の使い方を続けている。学問や文芸で有名になった人でもあまり変わらない。インターネットで見かける彼らの語り口、レトリックには刺々しさがある。なにもそんなに刺々しく言わなくてもいいのに……と思いながらそっと画面を閉じる。
ということは、私も年下からそうみられていると想像しておこう
私から見て年上の人々の語り口が今も昔もキツい、ということはだ。
私も年下の人々から見てキツい語り口に見えているのではないか。
私よりも十歳、十五歳年下のインターネットの書き手たちを見ていると、考えていることも感じていることも違っているのがよくわかる。世代が異なり、育った時代が異なるのだからそれは当然だろう。
だが、それだけでもあるまい。
世代を経るにつれて、日本人が、いや、文章を書き慣れている人が身に付けて当然の礼儀作法は繊細になっていて、昭和や平成のはじめのアベレージと令和のアベレージとは違ってきている。ノルベルト・エリアス『文明化の過程』で語られていたことを真に受けるなら、これは、違っているほうが自然なはずだ。年を経れば経るほど、そして人と人との繋がりと相互依存が増えれば増えるほど、コミュニケーションの作法は繊細になっていくものだから。
文明化の過程・上 〈改装版〉: ヨーロッパ上流階層の風俗の変遷 (叢書・ウニベルシタス)
- 作者:ノルベルト エリアス
- 発売日: 2010/10/08
- メディア: 単行本
文明化の過程・下 〈改装版〉: 社会の変遷/文明化の理論のための見取図 (叢書・ウニベルシタス)
- 作者:ノルベルト エリアス
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私と年上世代の間には、許容される語り口にキツさの度合いに違いがあるようにみえる。年上世代にとって当たり前の語り口は、私と私の世代にとって当たり前ではない。ハラスメントのたぐいにしてもそうだ。私の十歳年上、十五歳年上の世代がハラスメントとみなしていなかったものが、私の世代にはハラスメントとうつる。
だとしたら、私より十歳年下、十五歳年下の世代にはキツいと感じられる語り口、ハラスメントとみなされる行動を私が気づかないうちにやってしまっている可能性は高い、と想定したほうが無難だろう。その結果として、気付かぬうちに年下世代から「あいつはキツい語り口の年上」という認識を持たれていることも覚悟しておいたほうが良いだろう。
私には、年下世代の語り口やレトリックの機敏がよくわからない。もちろん彼らのなかにも、たとえば政治や正義を語る際にきつい語り口やレトリックを持ち出す人がいないわけではない。しかし論敵に言及する際の言葉遣いをみても、親しみを込めてアニメや演劇やスポーツについて語る際の言い回しをみても、自分たちの世代とは語り口が違う、とはやはり感じる。だとしたら、彼らもまた、私の世代との違いを感じ取っているはずだし、何かを考えている(が、作法として黙している)に違いない。
こんなのは、気にしても仕方のない問題なのかもしれない。
けれども二十数年にわたってインターネットをやっていて思うのは、こういう自覚しにくい違いが何か月も何年も積み重なった果てに、ボタンの掛け違いとか、避けられたかもしれない憎しみとかが起こることは割とよくある、ということだった。そして過去~現在にかけての私がそうだったように、読み手の側は、そういう作法の繊細化や世代による作法の違いみたいなことをわざわざ考えてはくれない。
なるべく気を付けていきたいと思う。
無駄かもしれないし、不可能かもしれないとしても。