シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

たぶん、幸福を管理される未来をみんなは受け入れる

 


職場のメンバーのうち、誰が周りの幸せに貢献したのかがわかるアプリが開発されているという。幸福が測定され、比較検討されるということは、幸福は管理されるということであり、義務になるまであと一歩だ。
 
そうなると、幸福ではないメンバー、周りの幸せに貢献できないメンバーは職場にふさわしくないメンバーとみなされ、なんらかの措置が施されるか、手の施しようがなければ追放される……まで予想できる。
 
 
この、周りの幸せに貢献する研究についてもう少し知ってみたいと思ったら、まとまった文章が見つかった。
 
【シリーズ 幸せとは①】毎日を「幸せ」に働くためには?〜予防医学研究者・石川善樹 | GLOBIS 知見録
【シリーズ 幸せとは②】職場での「幸せ」は訓練や体験によって変えられる〜日立ハピネスプロジェクトリーダー・矢野和男 | GLOBIS 知見録
【シリーズ 幸せとは③】組織の中で「幸せ」を高めるためにすべきこととは?〜石川善樹×矢野和男 | GLOBIS 知見録
 
一人一人の幸福について測定するのはまだ難しいが、周りの幸せに貢献する挙動については結構いけそうだ、といったことが書かれていた。より幸福であること、椅子取りゲームのような幸福ではなくメンバー全体として幸福が高まっていくこと、文化の違いも踏まえた幸福を考えること、高度化した社会でも人間が幸福でいられるようにすること、などなど、高い目標を持って取り組んでらっしゃる様子で、読んでいるうちに感銘を受けた。
 
しかし感銘を受けたとはいえ、人間、測定できるものは管理したくなるものだし、管理から外れた人間には介入したがるものでもある。生産性が測定できるようになれば管理が行われ、健康の指標が測定できるようになればやはり管理が行われるようになったのが人類の歴史だ。幸福という、いままで測定することも管理することも難しかったものが測定され管理できるようになれば、会社は、いや社会は喜んで管理を始めるだろう。
 

「幸福は義務です。社員、あなたは幸福ですか?」

 
TRPG『パラノイア』では、市民ひとりひとりが幸福かどうかが問われ、管理されるその社会はまさにディストピアだった。
 
同じくアニメ『PSYCHO-PASS』では、犯罪係数というメンタルの濁り具合のようなものが絶えず測定され、犯罪係数が一定値を下回っていることが事実上の義務となっていた。犯罪係数が100を上回った人は、精神科病院のような施設で治療を受けなければならなくなる。犯罪係数の良しあしによって社会的評価が変わり、数値の優れない人は冷遇される『PSYCHO-PASS』の社会も、『パラノイア』ほどではないにせよディストピアっぽい雰囲気が漂っていた。
 
これらの作品から想定するに、幸福が測定可能になり、数値化され、管理されるようになった未来は、たとえ表向きはハピネスでも、幸福が義務となり、その義務を果たせないメンバーが冷遇され、疎外される社会にならざるを得ないように思えてならない。
 
その延長線上として、周りに幸福を与えにくい人、自分自身の幸福感や機嫌をうまくコントロールできない人は、そのこと自体を"疾患"や"障害"とみなされ、精神科病院やそれに類する施設で治療を受けなければならなくなるかもしれない。
 
 

本当はもう「管理され慣れている」

 
ところで、本当に幸福が測定され、管理される社会ができあがったとして、私たちはどれぐらい戸惑い、どれぐらいディストピアと感じるものだろうか。
 
『パラノイア』や『PSYCHO-PASS』などを知っている人なら、きっとすごいディストピアに違いない、という思いがしてどきどき……もとい、物憂げな気持ちになるかもしれない。
 
けれども案外私たちは平気なんじゃないだろうか。
 
実のところ、現代人は自分たちが管理されることに慣れていて、なかにはますます管理されたがっている人もいたりする。
 
その最たる分野は、健康だ。 
私たちは、健康にかんするさまざまなパラメータを測定され慣れている。管理されることにもだ。
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

 

 今日では一般的になっている健康概念ができあがるためには、ふたつの進歩が必要不可欠だった。それは統計学と生理学(生命のメカニズムを研究する、生物学の一種)である。統計学は18世紀~19世紀にかけてヨーロッパで生まれ、はじめは人口統計のような、国力を推しはかる指標として用いられたが、民間でも用いられるようになり人々にも知られるようになっていく。
 たとえば、体重が増えすぎると脳卒中や心臓病や糖尿病などによる死亡率が高まるという統計データに基づき、早くも1910年のアメリカでは、標準体重とのギャップに応じて保険料が設定されるようになった。*1健康リスクという統計的概念は、保険という資本主義の仕組みをとおして人々に知られていった。
 『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』より

 
私たちはごく当たり前のように身長や体重、血糖値や血圧などを測定し、テクノロジーや制度によって健康を管理することをすっかり当たり前のこととし、それが望ましいと思っている。健診は、SF世界に比べればローテクでも、人間の品質を管理する仕組みとして優れたものだ。健診が普及するにつれて、私たちの平均寿命も健康寿命も大幅に伸び、健康意識も高まっていったからだ。
 
近年はストレスチェックのような新しい測定対象が加わり、義務付けられるようになり、また、ウェアラブルなスマートウォッチのたぐいで24時間健康をモニタリングする人も増えてきている。
 
こうした健康の測定とモニタリングに対して、ディストピアだと思う人はあまりいないのではないだろうか。むしろ多くの人はすすんで健診に参加し、わざわざお金を払ってスマートウォッチを身に付ける。
 
健康は、多様性の重視される現代社会では珍しい、"普遍的価値"とみなされるものだから、その健康を医療の手に委ねることにも、スマートウォッチを用いて24時間モニタリングすらも、抵抗感のある人はあまりいない。
 
だとすれば。
幸福もまた、多様性の重視される現代社会では珍しい、"普遍的価値"といってだいたい合っているだろうから、幸福が測定可能になり、モニタリング可能になった未来においては、多くの人はすすんで幸福を測定するようになり、わざわざお金を払って24時間モニタリングする人も出てくるのではないだろうか。
 
冒頭で紹介した日立製作所のプロジェクトは、少なくとも今の段階では「周りの幸せに貢献する数値」を測定するものだから、自分自身の幸福の度合いを測定するのとは少し違う。
 
だがいつか、個人の幸福の状態そのものも測定され、管理できるようになったら、そのとき私たちは案外平気な顔をして──なかにはみずから喜んで──測定とマネジメントに身を委ねたりするのではないか、と思ったりする。
 
現代社会と『パラノイア』や『PSYCHO-PASS』の社会を比較するとき、私たちはそのギャップにドン引きして「それらはディストピアだ!」と思いたくなる。しかし社会変化はしばしば、私たちにギャップを感じさせないスピードで進行するものだ──たとえばこの半世紀の間に、健康・清潔・道徳にかんする日本人の常識はだいぶ変わったが、ほとんどの人はその変化に違和感をおぼえるのでなく、現在のありようを常識とみなし、肯定するだけだ。
 
だとしたら、たぶん幸福が測定され管理される未来が到来しても、ほとんどの人は違和感をおぼえるのでなく、管理されるありようを常識とみなし肯定するだと予測して、だいたい合っているのではないだろうか。
 
ときに、ホモ・サピエンスは自己家畜化する動物だと言われる。実際、そうやってますます測定され、ますます管理されていく私たちのありようを、私は品質管理されるブロイラーや競争用の鳩のようだと譬えたくなる。それでも構わないのだろう。自分のアタマで考えたあげく不健康になったり不幸になったりするよりは、大きなシステムに身を委ね、健康で幸福になったほうがいいと、ほとんどの人は実際には望むだろうからだ。
 
 

*1:注釈7:アラン・コルバンら『身体の歴史 III』岑村傑監訳、藤原書店、2010年、214頁~。