シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

バトンの隙間を埋めてくれていた人々

 
 冠婚葬祭。子育て。生業。
 
 そういった処世の術は、祖父母から親へ、親から子へ、子から孫へと単線的に引き継がれていったわけではなかった。きょうだい、おじおば、近所の葬式ばあさん、そういう複線的なラインで下の世代に伝授されていった。
 
 ところが核家族化が進んだ現代では、冠婚葬祭にしても子育てにしても、親から子へ、子から孫へと、単線的にしか受け継がれていかない。生業は学歴というフィルターをとおして継承されるが、これも、核家族の文化資本と学校を経由して継承されるものになり、結局核家族の内側で、おおむね単線的に継承されていく。
 
 思春期の作法、成人期の作法、老人の作法といったものの継承も変わった。地域の生活とライフステージが不可分の関係にあった頃、ライフステージごとの作法は親以外の年長者複数名をロールモデルとし、地域の行事や風習のなかで学び取っていくものだったが、核家族化が進んだことに加えて、きょうだいの数が少なくなり地域の行事や風習が希薄になったことによって、両親以外の年長者からライフステージごとの作法を学びとるラインは相対的に、しかし着実に少なくなった。
 
 人間は、両親だけから人生を学ぶのではなかった。もっと沢山の人から学ばなければ足りないし、とりわけ学齢期以降の、親子の心理的な距離が広がっていく時期はそうだった。両親以外の年長者がことごとく「赤の他人」同然の子どもとて、学校や塾やメディアの年長者をとおして学べるところはあるだろう。しかしその学びのプロセスはどうしても他人行儀なものとならざるを得ない。
 
 処世術のバトンを世代から世代へと渡せなくなった、とは言わない。
 が、処世術のバトンを受け取るのも渡すのも、現代ならではの難しさはあるとは思う。
  
 親から子へ処世術のバトンを渡す際には、親子の年齢差もネックになる。ロールモデルとするにも、反面教師とするにも、親から子へのバトンの継承は年齢差が大きすぎて、いわば飛び石のようなところがある。
 
 かつては、5~10歳年上の兄貴や姉貴のたぐいが間に挟まるかたちで処世術のバトンの継承は行われていたはずだった。親子という単位に限らず、地域共同体や血縁共同体といった単位をとおしてもバトンは渡され、受け取られていたはずだった。だから昔は、バトンを渡す者と渡される者の年齢的距離は親子に比べてずっと近かった。
 
 それが今では、これが親子という単位のなかでほとんど完結せざるを得ないようになってしまった。年齢差による断絶を克服し、親から子へ首尾よくバトンが継承された場合でも、親以外のエッセンスが混じる余地が少ない。町内のおっちゃんやおばちゃんから受け取るエッセンス、いとこや親戚の年上から受け取るエッセンス、そういったものが混じらない純化したバトンの継承。それで都合の良いこともあるだろうけれども、それで都合の悪いこともある。
 
 たとえば、親から継承された処世術のとおりに生きられなくなった時にスペアになるようなバトン、親とはちょっと違ったロールモデルになるようなバトンを、どこでどうやって子どもは手に入れられるのだろう? この、社会契約と合理主義の徹底した令和時代のなかで、いったいどこの誰が「赤の他人」ではない年上という役割、いわば兄貴や姉貴を引き受けてくれるものだろうか。
 
 どんなに科学が進歩しても、親の死・子の誕生・結婚生活といった出来事によって人が受ける衝撃は変わらないのではないだろうか。その当事者のよろめきや、よろめきから立て直す所作のようなものは、赤の他人ではない人間の、生の声を経由したほうが、継承しやすいのではないかと思う。そういった、教科書を読んでも心にインストールされることのないバトンが、先行世代から後発世代へと受け継がれにくく、よしんば受け継がれるとしても親から子へと単線的にしか手渡されないのだとしたら、これは、なかなか難しいことであると同時に、実のところ非効率な継承ではないだろうか。
 
 こうしたバトンの継承は、科学的でもなければ経済的でもないため、バトンの継承がうまくいかなくなったことを問題視する人はあまりいない。私がここでバトンと言っているものが継承されなくても、GDPが下がったりしないし、サイエンスやビジネスが停滞することもないだろう。だとしても、そうしたバトンの継承の喪失もまた、喪失には違いない。
 
 私たちはバトンの隙間を埋めてくれる人たちを失った。というより、バトンの隙間を埋めてくれるような社会関係を失った。
 
 鼻息の荒い人は、「処世術のバトンなど、経済力でどうにかしてしまえば良い」とか、「自発的な学習と自己選択でどうにかできる」、と言い切ってしまうかもしれない。そうかもしれない。だが、誰もがそんなに鼻息が荒いわけでも、経済力や自発的学習や自己選択に優れているわけでもないと、私は思う。個人が自由に生きたいと思う際にも、継承された処世術の手札は大いに越したことはないし、バトンを渡してくれる手は、ひとつであるより複数であるほうが望ましいはずだ。
 
 しかるにバトンの隙間を埋めてくれていた人々と、その社会関係のことは、あまり思い出されないし、あまり語られない。だから私は、時々こうやってバトンの隙間を埋めてくれていた人々のことを思い出し、インターネットに放流したくなる。たとえ、それがバトンを渡すことの代償行為に過ぎないとしてもだ。