シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

規則正しい生活で生産効率120%の話と、ライフハックの陰と陽の話

  


 
久しぶりに言及していただいて嬉しいです。ご無沙汰しています。最近の高須賀さんは医療の王道に邁進し、とにかくお忙しそうですね。それでもbooks&appsにて健筆をふるい、長距離を走ってらっしゃるバイタリティが羨ましいです。私がそれぐらいのバイタリティを有していたのって、せいぜい20代の頃までです。酒ばかり飲んで、文章ばかり書いているうちに、健康面で高須賀さんより悪いコンディションになってしまったからでしょうか。それとも生まれながらの体質の強弱の問題でしょうか。
 
さておき、規則正しい生活について。
 
現在の高須賀さんのように多忙な状況では、規則正しい生活の必要性が痛いほど感じられることでしょう。books&appsの記事で「最近、睡眠の質が良くなった」と書いてらっしゃいますが、このことにも規則正しい生活がいくらか貢献していると推察します。
 
20代の頃の私は、そのあたりがあまりわかりませんでしたし、徹夜や不摂生をやっても無理を押し通せてしまうと感じていました。高須賀さんにおかれても、きっとそうだったことでしょう。でも歳を取るにつれて、それと為さなければならないことが増えるにつれて、生産性とか効率性とか生活の質を支えるために規則正しい生活がどうしても必要になってしまいました。ご指摘いただいたとおり、私が規則正しい生活に言及を繰り返すようになったのは、生産性や効率性や生活の質を支えるためにそうしなければならなくなった、30代の中盤以降です。
 
規則正しい生活以外にも、似たようなニーズから、挨拶とか礼法とかテンプレートとか、そういったものの必要性にも繰り返し言及するようになりました。生活様式やルーティンに落とし込める処世術って、自動化されちゃうからすごく便利じゃないですか。中年以降の限られたバイタリティ・限られた時間・限られた認知でできるだけ多くのことを為そうと思ったら、生産性や効率性や生活の質を支えるための処世術を、意識的なものから無意識的なものへ、(ゲーム的表現を借りるなら)アクティブスキルからパッシブスキルへ変えておかなければ到底やってられません。そういう、生産性や効率性を支える基礎を中年以降になっても身に付けておかなかったら、できることがどんどん減っていって、苦戦を強いられるようになっていくのでしょう。だとしたら、そういった処世術をハビトゥスとしてあらかじめ身に付けている育ちの良さは、文化資本と呼ぶに値するように思います。
 
もちろん、ここぞという状況で不摂生に耐える力、強行軍ができる力も必要でしょう。でも、それらは中長期的にみれば効率を出せない、あくまで短期決戦的なものでしかありませんからね。年単位で自分自身の運用効率をマックスで回すためには、もう、生活習慣やハビトゥスの次元で自分自身の運用効率を最大限にしておかなければならないし、そうしたニーズは50代、60代も活躍していこうと思ったらますます重要になるのでしょうね。
 
 
これも同感です。私は、長生きするために健康でありたいとか、健康が自己目的化した人生を歩みたいとは思っていません。還暦を過ぎても生きていられたらとりあえず満足、70代まで生きられたらすごく嬉しいと思っています。いえ、人生は一瞬先が闇ですから、いつなんどき命の蝋燭が消えてしまうかわかったものじゃありません。でも臨終の瞬間まで自分のやりたいことをやりたいだけやるとしても、その手段としての健康管理、規則正しい生活、効率的なハビトゥスはやっぱり欠かせないように思われます。あと、習慣化した運動も。
 
人生をゲーミフィケーションし過ぎてはいけないのかもしれませんが、たとえば40代の毎日を「生産効率80%」で過ごすのと「生産効率100%」で過ごすのと「生産効率120%」で過ごすのでは、40代の10年間で為せること・経験できることの総量はかなり違ってくるでしょう。細かな点にまで目を向ければ、40代だけ生産効率120%で過ごす代償として命を削る処世術が思いつかないわけではありませんし、たとえば私の場合、ワインを飲みたがるのは数十年先の生産効率と余命に悪影響をもたらすのでしょうけれども、まあそれは枝葉末節の話。総論としては、中年期以降の(人生という名の)ゲームプレイヤーは、生産効率にペナルティがつくよりもボーナスがつくようなコンディションを維持できるよう意識すること、いや、意識しなくてもできるようになっておくことが肝要なのでしょう。
 
 

社会適応のライフハックに陰と陽があるとしたら

 
話は変わりますが、社会適応のライフハックって、陰と陽があると思いませんか。
 
大昔に流行した『北斗の拳』という漫画のなかに、「北斗神拳は一子相伝の陰拳だったが、南斗聖拳は表の世界で広く学ばれる陽拳だった」というフレーズがありました。実際、作中では北斗神拳はメチャクチャ強いけれども一子相伝だから体得できる人間が少なく、南斗聖拳はそこまで強くないけれども広く学ばれ、たくさんの流派とたくさんの使い手が登場していたのでした。
 
で、社会適応のライフハックにも、陰拳と陽拳みたいなものがあるように思います。
 
遺伝的・先天的な素養と文化資本が完全に噛み合った、一子相伝のライフハックには無敵っぽさがあります。あの無敵っぽさを真似たいと思っても、凡人には無理ですよね。それと、本当の極意はなかなか表に出てきません。遺伝子と、言語化されざるハビトゥスの領域にこそ、一子相伝の極意ってやつが宿っているように思われますから。
 
対して、表の世界で広く学ばれるライフハックもあります。表の世界で広く学ばれるライフハックは、しばしば、マネジメント・自己啓発・ヘルスケア・サイエンスの領域の言葉で書かれています。宗教の言葉で書かれていることもあるかもしれません。それらは凡人の生活を向上させてくれ、何%か何十%かわかりませんが、生産性や効率性を高めてくれます。無敵っぽさはありませんが、比較的人を選ばないのは大きな強みです。規則正しい生活も、こちら側に属するものですよね。
 
私は、インターネットでも書籍のなかでも、表の世界で広く学ばれるライフハック、比較的人を選ばないライフハックについて言葉を費やしてきました。そのせいで私は、数えきれないほど「当たり前のことが書いてある」「間違ってはいないが、切り札にならない」といったコメントをいただきましたが、とはいえ、無敵っぽい一発逆転のライフハックは一子相伝の世界にしかないし、それはほとんどの人には手の届かないもの、奇跡に限りなく近い現象でしかありません。
 
とはいえ、確かに奇跡も魔術もあるんですよね、娑婆世界には。
奇跡の人としか言いようのない社会適応を構築している人もいる。
 
たとえば愛。
愛されることで圧倒的優位を獲得し、そのまま愛され人生を過ごしてゆく人。まったく再現性がなく、まったくメソッド化に馴染まないけれども、とにかく愛されることにかけては間違いない人がいます。それを偶然やアウトライヤーと呼ぶことだってできるでしょう。いやしかし、偶然やアウトライヤーにみえるからこそ、まさにそうした人を奇跡の人と呼びたくもなります。
 
でもって愛に限らず、奇跡をなしている人々とて、表の世界で広く学ばれるライフハックで身を固めていることのほうが多いわけですから、娑婆というのはまったくままならないものです。
 
では、ままならないからといって、偶然やアウトライヤーとみなされるからといって、そうした奇跡の人々について書かないのはどうなのか。それって片手落ちじゃないか……と、最近の私は感じています。一子相伝といえば、魔術師が家系にこだわり、家系をとおして魔術を錬成するみたいな話も、ここでいう奇跡の人々っぽさがありますね。一子相伝の極意を(遺伝的な素因も含めて)継承・発展させていくのが魔術師の家系だとしたら、なるほど、少なくとも比喩としての魔術師の家系は実在しているでしょう。もちろん、ここでいう比喩としての魔術とは『月姫』や『Fate』に出てくる魔術である必要はなくて、たとえば実業家の家系だったり、法律家の家系だったり、何かの家元の家系だったりでもいいわけですが。
 
新年の抱負というには遅くなりましたが、今年は、そういう簡単にはマネできない凄さや素晴らしさに意識を差し向けてみたいと思います。あるいは、誰もが少しずつ持ち合わせている奇跡性や一子相伝性、アウトライヤー性について言葉を費やしてみたいといいますか。高須賀さんにだって、そういった再現性のない部分が脈打っているように私にはみえます。もちろん他の人にだって。
 
最後になりましたが、新年、あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。