シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

他人と話さないで済ませられる現代社会

 
 以下に記すことは、おそらくポストモダン思想が流行した1980~90年代にどこかの誰かが文章化しているとは思う。そういう意味では新規性のある文章だとは思えない。
 
 ただ、20世紀に流行したポストモダンなるものは、最も経済資本や文化資本に恵まれた「シラケ世代のエリート」たちに専ら該当する話で、なおかつ、彼らの間で消費される言説でしかなかった。2019年の現在のほうが、社会の末端にまで「シラケ」というより「不信」が広がっているので、今、こういうことを考えるのも無意味ではないと思うので書いてみる。
 
 現代社会を生きる私たちは、ロクに他人と話していないのではないか、というのが今日のお題だ。
 
 


 
 先日、上掲のツイートを読み、そうだよね、と私は思った。
 
 法律化という言葉だけでなく資本化・経済化といった語彙を当てはめてもよく似合う。話し合いによって個人と個人の問題を解決するのでなく、法制度やお金によって問題を解決する。それに加えて、たとえばSNSのブロックやミュートがわかりやすいが、アーキテクチャ(空間設計)によって揉め事を減らすようにする。これらの問題解決方法では、従来的にいわれていたところのコミュニケーションが占めるウエイトは小さい。たとえば法制度やお金で問題を解決する時には、それらが媒介物となってやりとりが進んでいくから、人と人とがじかに出会って話す際に特有の問題は顕れない。法制度やお金で問題を解決する時には、私たちは法や金銭を媒介物として、法的解決や売買に即したコミュニケーションだけを実践している。
 
 逆に言うと、法的解決や売買の場面で、それ以外のコミュニケーションを差し挟むことは歓迎されていない。たとえばコンビニで弁当を買って温めてもらう際には、そのためのコミュニケーション以外は基本的にノイズとみなされる。売買のやりとりと、弁当を温めるという仕事上のやりとりがあるだけだ。世間話をしたり、店員さんの近頃の悩みについて質問したりするのは無粋なことである。逆に、私たちがスムーズにコンビニで弁当を温めてもらえるのは、コンビニでのコミュニケーションが売買に特化していて、お金と仕事以外のコミュニケーションが除外されているからだ。
 
 これと対照的なのは、地域共同体での売買、たとえばご近所の日用雑貨店での売買だ。お店を訪れると、世間話や噂話と一緒くたになったかたちで売買の話が始まる。付き合いによって値段が変わったり、義理で買うとか、そういったことも起こる。こうしたコミュニケーションは売買に特化していない。地域共同体のご近所関係の一環として売買は位置付けられ、ご近所同士のコミュニケーションは、お互いのことを知り過ぎてしまいがちでもある。
 
 学会やカルチャースクールでのコミュニケーションも、実はこれに近いと思う。
 
 学会でのコミュニケーションは、その学会の研究にまつわるものが中心だ。一定の雑談は許容されるが、基本的に、学会に関連しない話を延々とされることは歓迎されていない。カルチャースクールでも、お稽古ごととその周辺にまつわるものが会話される。学会でもカルチャースクールでも、共通の関心事が媒介物となってコミュニケーションが行われていて、会話がその媒介物から遠ざかれば遠ざかるほど、その会話はノイズとみなされるおそれが高くなる。
 
 学会やカルチャースクールで人と人がコミュニケーションする時、私たちは学会や稽古事という媒介物についてはどこまでもコミュニケーションできるが、媒介物の外側についてコミュニケーションすること、知り合うことは基本的に歓迎されていない。たとえばカルチャースクールで出会ったメンバーにプライベートに踏み込んだ話を持ち掛けるのは、かなりの勇気が要る。へたをすれば、相手からハラスメントとみなされる可能性もある。
 
 いまどきの職場でもそれはあまり変わらない。職場では、仕事という媒介物にまつわるもののコミュニケーションが行われるのであって、そうでないコミュニケーションは歓迎されない。天気の話ぐらいなら大丈夫だが、プライベートな悩みについて上司や部下と会話することは歓迎されない。
 
 そう、いつも私たちは「○○にまつわる話」や「××についての話」をし続けているし、それが望ましいとされている。○○や××の話、あるいは法制度や金銭が媒介物となった会話にあまりにも慣れている。そうすることによって私たちのコミュニケーションは目的に特化し、効率的なものになり、ノイズやハラスメントが混入する心配をしなくて済むようになる
 
 だからこれは文明化された、効率化されたコミュニケーションに違いない。契約社会化したコミュニケーション、と言ってしまっても構わないだろう。契約社会化した2019年の日本の暮らし、たとえば東京での独り暮らしは、何かを媒介物とした「○○にまつわる話」や「××についての話」で専ら構成されていないだろうか。少なくとも地域共同体で長い時間を一緒に過ごすメンバーシップ同士のコミュニケーションとは、質的に異なったコミュニケーションが行われているのではないだろうか。
 
 

「人と話さないで済ませられる社会」の功罪

 
 だから私はこう言ってみたい:現代人はもう「他人と話さずに済ませられる社会」を生きているんじゃないか、と。
 
 職場でもコンビニでもカルチャースクールでもそうだが、私たちはその場のコンテキストにあわせた、媒介物を介したコミュニケーションしている。これは、話題や媒介物と会話しているのであって、職場の同僚やコンビニ店員やカルチャースクールの仲間と会話しているとは言えないのではないか。
 
 お互いのことをやたらと知ることがなく、話題や媒介物とだけコミュニケーションする社会になって、便利になったことは色々ある。
 
 まず、コミュニケーションの効率化。弁当を買って温めてもらう際に余計なコミュニケーションをしなくて構わないコンビニは、世間話をしなければならない地域共同体の日用雑貨店より、コミュニケーションの効率が良い。少なくとも売買に関してはそうだろう。
 
 仕事やカルチャースクールでも、余計なコミュニケーションをしなくて構わないほうが煩わされることがなく、効率の良いコミュニケーションができる。効率の良いコミュニケーションができる社会は、生産性が高い社会、とも言えそうだ。
 
 それと、プライバシーを守りやすい。地域共同体ではコミュニケーションの話題にならないものはなく、お互い、なんでも知り合い過ぎてしまう。対して、その場その場で「○○にまつわる話」や「××についての話」を繰り返している限り、私たちはプライバシーをお互いに守りあうことができる。
 
 媒介物を介したコミュニケーションで私たちがプライバシーを守りあえるのは、余計なコミュニケーションをしないことに加えて、私たちがバラバラに暮らしていて、職場やコンビニやカルチャースクール以外に接点を持ち合わないからでもある。
 
 だからこれは、お互いのプライバシーが守られるような現代風の街に住んでいなければ実現しようのない話だ。たとえば噂話がたちまり広がり、ウチとソトとの垣根がしっかりしていない百年前の農村では、何をどうしたってプライバシーは筒抜けになってしまう。いまどきの街・いまどきの住まいといった、プライバシーをしっかり守れるアーキテクチャが整備されてはじめて、媒介物を介したコミュニケーション、ひいては、他人のことを知らずに済ませられるコミュニケーションが現実のものになる。
 
 だから「人と話さないで済ませられる社会」には間違いなくメリットがある。いちがいに否定できるようなものではない。
 
 ただ、良いことばかりでもないように私は思う。
 
 第一に、プライバシーが守られるようになって、私たちはナルシシズムにのぼせあがりやすくなってはいないか。
 
 媒介物を介したコミュニケーションに専心しているおかげで、私たちはそれぞれの場所で"良い恰好"ができるようになった。職場の顔、コンビニでの顔、カルチャースクールでの顔。そうやって使い分けることで"良い恰好"ができるおかげで、私たちはナルシストになれる。だから少なくともある部分では、ナルシシズムはプライバシーの産物とも言える。"良い恰好"ができなければナルシストはナルシストを貫けない。
 
 ナルシストでいいじゃないか。
 そうかもしれない。
 
 ただ、八方美人ナルシストというのは疲れるしコストもかかる。そして孤独だ。どこでも"良い恰好"な自分を演出してまわるうち、いったいどれが本当の自分なのか? などという益体もない疑問を抱いてしまう人もいる。そこから発展して、役割ごとに態度を変える「ペルソナ」や「分人」といった考えを持つ人もいるけれども、その「ペルソナ」や「分人」を束ねている人格は結局ひとつなのだから、「ペルソナ」「分人」の運用コストを私たちは払わなければならなくなり、その辻褄をひとつの人格のなかであわせもっていなければならなくなる。これは、得意な人は得意だが、誰もが得意なものとは思えない。人格の辻褄合わせが苦手な人にとって、それは心理的コストの源たりえる。
 
 もうひとつは、他人と出会うことにいつまでも慣れることができない、ということ。
 
 塾でも職場でもカルチャースクールでも媒介物を介してコミュニケーションをして生まれ育っていると、それが板について当たり前になってくる。売買や就労に関しては効率的で生産的なコミュニケーションだから、さしあたり問題ないだろう。だが、誰かと親密になりたい時、誰かと多チャンネルでコミュニケーションしたい時には、この方法は通用するものだろうか。
 
 たとえば友達や恋人とより親密になりたいと思った時、仕事を媒介物として、お金を媒介物としてコミュニケートして、いったいどこまでお互いのことを深く知り合うことができるだろうか。
 
 できるだけ沢山の媒介物を持ってくることで、ある程度はそれがカバーできるかもしれない。たとえば複数の趣味、複数の興味話題を媒介物とすれば、さしあたってコミュニケーションのチャンネルは増えるだろう。だが、これだけでプライバシーの壁を突破できるだろうか。そうはいかない。ではプライバシーを侵犯しあうのか? そのとおり! しかし「○○にまつわる話」や「××についての話」を繰り返している現代人には、そのための流儀がよくわからないし、慣れてもいない。プライバシーを侵犯しあって親密さを深めるプロセスを、塾や職場やカルチャースクールは教えてくれない。
 
 なんということだ。プライバシーを侵犯しあうための方法は契約社会の教科書には乗っていないのですよ!
 
 私たちは売買のようなコミュニケーション、媒介物を介したコミュニケーションの方法については社会からみっちりと教え込まれる。けれども、その正反対のコミュニケーション、お互いにうまくプライバシーを侵犯しあうための方法についてはあまり社会から教えてもらえない。ここのところは独学で何とかするか、生まれた家庭でたまたまハビトゥスとして身に付けているか、どちらにせよ運に任せなければならなくなっている。
 
 子どもをもうけた時、媒介物を介したコミュニケーションに慣れきった私たちの困惑は最高潮に達する。
 
 なにせ子どもには媒介物を介したコミュニケーションが通じない。流行りの映画についてとか、雨模様についてとか、そういった「○○にまつわる話」や「××についての話」が乳幼児にはまったく通じない。プライバシーの欠如した一体状態から親子関係がスタートするので、子育ては、私たちを現代社会から最も遠いところへと遠ざける。現代社会のコミュニケーションの流儀に特化している人は、子どもとコミュニケーションができない。だがそれでは子どもも困るし親も困ってしまう。なにせ、言語という最も根源的な媒介物すら子どもには通用しないのだ。
 
 「言語という最も根源的な媒介物」すら通用しないのは、幼児期、学童期もだいたい同じだ。子どもは言語を少しずつ身に付け、使いこなせるようになるが、言語を主な媒介物としてコミュニケーションできるようになるのはだいぶ後だ。「自分の気持ちは、なにごとも言語化できるようになるのが望ましい」と現代人は考えるかもしれないし、それこそが現代人に求められる資質なのかもしれないが、成長途上の子どもにそれを求めるのは酷なことだ。
 
 だから、ざっくばらんに言って、「他人と話さないで済ませられる現代社会」というやつは、子育てには、あんまり向いていないんじゃないだろうか。これが少子化の原因だと言ったら言い過ぎだろうが、まったく無関係というわけでもあるまい、と私は思う。
 
 

「わかりあわずに済ませられる」幸福と不幸

 
 お互いのプライバシーが保たれ、効率的で生産的なコミュニケーションが実現した結果、ある面では人間にやさしい社会ができあがったと言えそうだし、別の面では人間に厳しい社会になったとも言えそうだ。
 
 どちらが良いとか悪いとかは私にはわからない。
 ただ、そういう社会でそういう生活をしているのだと振り返っておきたい。