シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

ノイズを避けるコミュニケーション──言葉も、においも、ウイルスも

 


 
少し前、たぶん新型コロナウイルス感染症でソーシャルディスタンスが求められている状況を踏まえた、皮肉めいたツイートを発見した。いや、本当は皮肉ではないのかもしれないが私には判断がつかない。
 
というのも、私には、現在の日本人のコミュニケーションの規範がこれに近いものに思われてならないからだ。
 
 

望ましいコミュニケーションと呼ばれるものの正体

 
現代人はしばしば、コミュニケーションを良いものとみなし、ディスコミュニケーションを悪いものとみなしている。そのうえで「コミュニケーションは良いこと」「コミュニケーションで繋がるのは望ましいこと」などと言ったりしているが、現代人がいうコミュニケーションとは、どういうものか。
 
たとえばコンビニのレジでの会話。
 
お客が無言で商品をレジに持っていくと、店員が「○○円になります」と合計額を告げ、お客がそれを支払う。おつりをかえす際に「××円のお返しになります」と店員が告げて、売買のコミュニケーションは終わる。ここに、タバコの注文や支払い方法、お弁当を温めるかどうかの応答が入ることもある。
 
コンビニは、店員と客が商品の売買をする場所だから、そこでのコミュニケーションは「売買について」のものに限られ、売買以外の話題に触れるのは、現在の日本の社会規範では歓迎されない。売買についてコミュニケーションすべきコンビニに、売買以外のコミュニケーションを持ち込もうとする者は歓迎されない。
 
たとえば、コンビニの女性店員に他の話題でコミュニケーションしようとする男性客がいるとしたら、そのような客とコミュニケーションは、ノイズとみなされるだろう。
 
コンビニほど極端ではないが、他の場所でも似たようなことが言える。
 
学会に参加している精神科医は、「学会で取り扱う話題について」「精神医学に関連した話題について」コミュニケーションすることが望まれる。質疑応答の時間に、プレゼンテーションの内容とは無関係なことを尋ねれば、演者に渋い顔をされかねない。学会会場でナンパしようとする精神科医、学会会場で陶芸の話しかしない精神科医も、ノイズとみなされざるを得ない。もちろん、懇親会の場ではもっと幅広い意見交換が許容されるが、それでさえ、あまりにも無関係な話題ばかり喋るのは考えものだ。
 
職場でも「業務や職場に関連したことについて」コミュニケーションするのが望ましく、そうでないことはむやみにコミュニケーションしないのが望ましい、と思っている人が優勢ではないだろうか。たとえば数十年前なら、上司と部下の飲み会や社員旅行といったかたちで業務や職場に関連しないコミュニケーションが日常に入り込んでいた。あるいは、今だったらハラスメントとみなされるようなコミュニケーションも存在していただろう。だがこの数十年の間に、業務や職場に関連しないコミュニケーションは嫌悪され、敬遠され、あるいは禁じられていった。昭和時代以前と比較するなら、令和時代の職場でのコミュニケーションはノイズが少ない。
 
SNSもまた、ノイズの少ない、純度の高いコミュニケーションを提供している。フォローやブロックといった機能のおかげで、ユーザーは望んだ相手と望んだコミュニケーションだけを行い、望まないコミュニケーションは行わない。タイムラインに流れてくる話題も、フォロワーの選好によってフィルタリングされている。タイムラインにノイズが混じっていると思ったユーザーは、ノイズ元となっているアカウントをフォローから外したりブロックしたりする。そういう行為を年単位で繰り返すうちに、SNS上のコミュニケーションは、自分の望んだ相手と望ましい話題に収斂せざるを得ない。
 
こうした「望ましいコミュニケーション」は複数のSNSやアプリ、複数のアカウントを用いることでさらに精度をあげられる。フェイスブックではフェイスブックにふさわしいコミュニケーションを、ツイッターではツイッターにふさわしいコミュニケーションを、LINEやSLACKではそれぞれにふさわしいコミュニケーションを行うのは、現代人にとって造作もないことだ。というより、それがいまどきのコミュニケーションの社会規範、あるいはリテラシーになっている。
 
オフラインの世界でも、私たちは職場・家庭・趣味の会合などで態度を使い分け、話題を切り分け、それぞれに純度の高いコミュニケーションをやってのけている。こんな具合に、いまどきのコミュニケーションにはノイズは不要で、用途や場所に最適化された、純度の高いものが望ましい、とされている。
 
 

「繋がりたいが」「要らないものはもらいたくない」

 
コミュニケーションにあたってノイズを避けるのが当たり前のものになり、それが社会規範やリテラシーともなっていることを踏まえて、冒頭のツイートをもう一度思い出していただきたい。
 
【人間どうしのコミュニケーションは不潔でなるべく避けるべきという規範が定着してほしい】
 
感染回避やエチケットの都合で不潔を避けるのは、「人から人へ、伝えたくないもの・もらいたくないもののが伝わらないようにすべき」とする点では、ノイズを嫌うコミュニケーションの社会規範やリテラシーと根っこは同じではないだろうか。
 
現代人は、コミュニケーションをとおして望んだ「~について」の用事をこなしたり話題を交換したりしたいとは願っているが、そこに余計な詮索やハラスメントのようなノイズが混じることは許しがたいと思っている。自分がノイズを受け取るのを嫌うのと同時に、相手にノイズを伝えてしまうのも恥ずかしいことや申し訳ないことだとも思っている。
 
ここでいうコミュニケーションのノイズに、ウイルスや病原菌まで含めたところで、コミュニケーションの社会規範やリテラシーはまったく変わらない。もともとノイズがコミュニケーションに混じらないよう心掛けているところに、感染症対策という、新しい用心が加わるだけのことである。元々私たちが望み、実行し、規範として身に付けてきたことが、いくらか拡張しただけのことではないか。
 
私たちの国ではもともとハグやキスといった身体的接触は少なく、そのうえ、SNSやネット通販といった遠隔的なやりとりが普及していた。飲みニケーションや社員旅行を敬遠し、ハラスメントを追放するようにも努力していた。ノイズの混じらないコミュニケーションを望み、実現してきた歴史は今にはじまったものではない。
 
また、清潔という点でも、1980年代の"デオドラント革命"からこのかた、臭う身体を脱臭してコミュニケーションにのぞむ社会規範を発展させてきた。それに伴い、自分が臭ってしまう事態をおそれ、他人にキモいと思われる事態を恥じる感覚をも内面化してきた。余計な詮索やハラスメントをしていなくても、臭ったりキモいと思われたりすれば、それは相手にノイズを伝えてしまうこと・迷惑をかけてしまうこととみなされるし、まただからこそ、清潔という新しいルールから私たちは降りることができない。
 
だから新型コロナウイルス感染症によって face to face なコミュニケーションが避けられるような社会規範ができたとしても、それは目新しいものとみなすより、ノイズを避けたがるコミュニケーションの趨勢を加速したもの、とみたほうが事実に即しているのではないだろうか。
 
旧来のコミュニケーションには、もっとノイズが混じっていた。言い換えれば、旧来のコミュニケーションとは、思いがけないのものが伝わったり与えられたりするものだった。ハグやキスだけでなく、拳骨やビンタもしばしばコミュニケーションの一部とみなされていて、おそらく、そうした身体的なやりとりをとおして病原菌のたぐいも盛んに行き来していたことだろう。
 

 
近代以前の社会とコミュニケーションを振り返る書籍を読むと、用途や話題にあわせてコミュニケーションの場所や相手を変更するなど不可能だったことが読み取れるし、その身体的なコミュニケーションと不潔さに驚いてしまう。そのような環境では、そもそも、コミュニケーションのノイズを取り除くという今風の願望を持つこと自体、簡単ではなかっただろう。
 
しかし近代化や都市化が進み、用事や相手や場所にあわせてコミュニケーションを切り分け、使い分けることが当たり前になっていくなかで、コミュニケーションは、用途や話題にあわせて純化されたもの・ノイズが混じってはいけないものへと変わっていった。昭和時代にはノイジーでしばしば身体的なコミュニケーションがまだ残っていたが、平成時代をとおしてどんどん漂白されていった。
 
コミュニケーションに際して、ノイズを避けること・フォローやブロックやアカウントを使い分けて純度を高めること・病原体のたぐい授受しないことは、定めし時代の要請なのだろう。だからこれを否定するのは私には難しい。
 
だけどこれは、従来のコミュニケーションから遠く隔たった、それこそ数世紀前の人がコミュニケーションとして体験していたものとは似て非なる何かだ。コンビニのレジでのやりとりは、ある意味、コミュニケーションであると同時にディスコミュニケーションではないだろうか。売買については、確かに伝わっている。だが、売買以外については伝わっていない。というよりできるだけ伝えないようにしているのがコンビニのレジでのやりとりではないか?
 
今、私たちがコミュニケーションと呼んでいるものは、特定の用途や話題について伝えると同時に、ノイズや感染症を遮断する。同時に、思わず伝わってしまうかもしれない何かまで遮断してしまい、伝わらなくなってしまう、ある種の可能性の狭さをはらんでいるようにも思う。
 
この騒動をとおして、ますます日本人が、いや世界の人々が、そのような可能性の狭さへ導かれていくとしたら、それはメリットだけをもたらすものではないと思う。私は、そのことが気になっている。