シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

ディストピア弁当を売っているスーパーがもっとディストピアになった

 
 
お店の名前は言えないが、私の生活圏には殺伐とした弁当が殺伐と並んでいるスーパーマーケットがあり、数年前からその店のことをディストピアスーパーと呼んでいる。
 
「弁当なんて、どこで売られているものも同じじゃないか」と言う人もいるかもしれない。確かに、コンビニで売られている唐揚げ弁当のなかには、健康への配慮が乏しいだけでなく、食事としてのパッケージがぶっきらぼうな品も見受けられる。「この弁当にはカロリーはある。が、カルチャーは無い」と言いたくなるようなやつだ。それでも、コンビニの弁当コーナーをざっと眺めると、多かれ少なかれ、カルチャーに配慮した体裁は伴っている。たとえば凝ったデコレーションのパスタとか、そういった品がコンビニには必ず存在している。
 
ディストピアスーパーはそんな生やさしいものじゃない。
 
ハンバーグ弁当には、過剰に水分を吸い込んだ重たいご飯がびっちり詰められていて、パサついたハンバーグとしおれたパセリ、レタスの切れ端がごろりと添えられている。弁当のパッケージは黒一色。空腹をみたすという一点ではコストパフォーマンスに優れているが、遊び心もカルチャーも栄養バランスもここには見当たらない。
 
唐揚げ弁当には、やたらと大きくて顔色の悪い唐揚げがごろごろと並んでいる。唐揚げの背丈が大きいので、プラスチックの容器が少し膨らんでいるのだけど、なぜかちっとも美味そうにみえない。やけくそ気味に詰めた、という印象を受けてしまう。
 
パスタやうどんも、ディストピアスーパーのものはことごとく美味そうにみえない。スーパーマーケットの惣菜コーナーのパスタやうどんには、もちろん冴えない雰囲気のものが珍しくないのだけど、ひとつぐらいは買って良さそうなものがあるものだ。たとえばスパゲティナポリタンの具はちょっと頑張っている、といったように。
 
ところがディストピアスーパーには、そういう頑張っている感のあるパスタやうどんが並んでいない。ボリュームが少ないわけでも具材が少ないわけでもないのに、なぜか殺伐としていて、彩りがない。紅ショウガのけばけばしい赤色だけが自己主張している。こうしたぶっきらぼうなパッケージのパスタやうどんを前に、我が胃袋はおそれを抱いて回れ右をしてしまう。
 
とはいえ、殺伐もここまでくれば逆説的な商品になり得るわけで、私はときどきディストピアスーパーに立ち寄って安くて大盛りのディストピア弁当を買い、安いチューハイと飲食していた。最近のチューハイもディストピア度が高いから、ディストピア弁当との相性はとてもいい。ディストピアを大きく深呼吸すると、それはそれで一種のカルチャー、いや、カウンターカルチャーの味がする。毎日食べるとなれば、話は違ってくるだろうけれども。
 
 
 
 
そんなディストピアスーパーにも、新型コロナウイルス感染症の影響が現れるようになった。
 
マスクや消毒用品を買い求める人々が、空になった商品棚の前をうろうろとしていた。やがてトイレットペーパーやティッシュペーパー、パスタの商品棚でも同じようなことが起こった。
 
ディストピアスーパーでも、お客さんはまずまず行儀よく並び、穏やかに買い物をしているものだったが、この商品争奪戦と買いだめ騒動を経て、お客さんにも殺伐とした気配が宿るようになった。いや、お客さんがそのようにみえる一因には、それを見る私自身が殺伐としている、というバイアスもあるだろう。当惑しながら距離を取って並んでいる姿も、どことなく現実離れしている。いや、まぎれもない現実なのだが。
 
品揃えが殺伐としているところに、お客さんにまで殺伐とした雰囲気が宿るようになって、ディストピアスーパーは、いよいよもってディストピアのていをなしてしまった。これが日常だったら、「ほう、これがディストピアスーパーの完成形か!」と感嘆の声をあげ、ひとつのアトラクション、ひとつのカウンターカルチャーと解釈していたに違いない。
 
ところが日常がどこかへ行ってしまい、私自身も殺伐としているらしく、私はディストピアスーパーを受け止めきれなくなってしまった。「ディストピアは、遊びじゃないんだよ」と言われてしまえば反論のしようもないが、アトラクションでもカウンターカルチャーでもなくなったディストピアスーパーに行くと気が滅入ってしまうので、カルチャーの残滓の宿っている、花丸スーパーマーケット(仮称)で最近は買い物をするようにしている。
 
花丸スーパーマーケット(仮称)のお客さんもいくらか殺伐としているが、お店の商品や陳列にカルチャーの残滓、遊び心の残滓があって、今はこれに救われていると感じる。ディストピアを味わうだけの心のゆとりを、私は失っているのだろう。