ここ最近は特に無為に過ごす時間が異様に少なくなっていて、実際的なことだけをやっているので、ツイートすることがますます無くなってくる。
— 5mm / 5Agape (@pycl) 2020年6月24日
「無為に過ごす」のはもったいない、でも豊かな時間だと思う。自分自身のバリューを高めるだとか、経験を広げるだとか、そういう上昇志向だけで生きていける人は稀だ。誰もが上昇志向でなければならない世の中だからこそ、上昇志向から魂を解き放ち、のんびり過ごすことに贅沢さを感じる。もっと無為に過ごせないものか。
私は「無為に過ごす」を忘れてしまった。しいて言えばこの文章を書いているこの瞬間が「無為に過ごす」に近いかもしれない。が、この文章にも"そろそろブログを更新しとかなきゃ"といった、無為とは言い切れない欲が混入している。
無為で自由な境地で文章に書くことがわからなくなってずいぶん経つ。アニメを観る、ゲームをやる、もだ。好きなものを追いかけているはずの自分の影を振り返ると、そこに、なんらか生産的な意図、なんらか役に立つ経験を積もうとする意図が見え隠れしている。少なくともそれらは、ピュアに無為で自由な境地とは言い切れない。
そうしたなか、無為に一番近いと感じるのは、アマゾンプライムで無料公開されている『孤独のグルメ』だ。
2020年の春頃から、木曜日や金曜日の夜はだいたい疲れきっていて、午後8時に手がすいたとしても『孤独のグルメ』ぐらいしか受け付けなくなってしまった。2016年頃の私なら、そのぐらいの時間に新しいゲームをプレイしたり今期のアニメを観たりしていたはずだが、最近、そういう気力がなくなってしまっている。何年も前から予測していたが、ゲームやアニメをナチュラルに吸収する感性がいよいよ摩耗してきた。
たとえば『かぐや様は告らせたい』はよくできたアニメだと思うし10年前なら喜んで観ていたはずだが、今はディスプレイの向こうの出来事のように感じられてしまう。いいアニメだというのに、自分がアニメに臨場していない。そして消耗している。
だったら寝ろ、という人もいるかもしれない。
そうもいかない。文章ばかり書いたせいか、それとも酒を飲みながら生きていたせいか、私の神経は捻じれて休みにくい、面倒なシロモノになってしまった。だいたい10時ぐらいまで眠れないし、へたに早くから寝ると夜中に起きて苦労する。疲れていても10時までは起きていなければならない。昔は、そういう疲労した午後8時から午後10時にアニメやゲームがうまく刺さり、リフレッシュできていたのに。
アニメを観るにもゲームを観るにも気力が必要になってしまって、その気力を支払えなくなったことで、骨休めのサイクルがおかしくなってしまった。で、今の私には、『孤独のグルメ』に描かれているおおらかな時間が気持ちよく感じられてしまう。
ああ、おれはこんな消化しやすいコンテンツしか咀嚼できなくなったのか!
こう書くと、どこからともなくベテランアニメ愛好家やゲーム愛好家がやってきて「軟弱者め」「おれは四十代になってもラブコメを心から楽しんでいるぞ」といったコメントを残していくかもしれない。だが、コメントを残していく人々はいわば生存バイアスの精髄、愛好家エリートではないか。私もそうでありたかったし、そのために「努力」などしてきたつもりだった。しかし、振り返ってみれば「努力」しているということは、もう無為でも自由でもなかったのだ。ずいぶん昔に私は愛好家として変容してしまっていたのかもしれない。
アニメやゲームに身が入らず、井之頭五郎の快食っぷりを眺める我が身を悲しく思う。そんな疲弊に包まれていても視聴でき、それなり楽しめてしまう『孤独のグルメ』には感謝するしかない。
ふと、うまいものでも食べに行きたくなったが、ディスプレイのなかの井之頭五郎のようにはバクバクとは食えないだろうと思い、諦めた。