- 作者: 安田誠,人生再建研究所
- 出版社/メーカー: 幻冬舎コミックス
- 発売日: 2011/03/01
- メディア: 単行本
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目覚めの瞬間に、ふだん意識していない考えが浮かび上がってくることがある。
こないだ、うたた寝から目が覚めた時に「思春期の男女がビチビチと動き回るアニメを40代になっても観ている自分自身」を直視させられた。
10~20代の頃は、思春期然としたアニメを眺めることになんの疑問も無かった。アニメを観るのはとても自然なことで、そこに登場する同世代~少し年下のキャラクター達は近しい存在だった。感情移入することも嫉妬することも、ときめくことすらできた。
40代になった今は、たぶん、そうではない。
アニメに登場する思春期のキャラクター達を、私はもっと遠い存在として眺めている。昔はもっと近しい存在で、感情移入することも、嫉妬することも、ときめくことすらできたはずだったのに。
ときどき、脇役としておじさんやおばさんキャラクターが出て来る時に感情移入することはあるが、そのこと自体が、私のアニメの見方が変わってしまったことを証明している。10代や20代の頃は、おじさん・おばさんキャラクターをそんな風には眺めていなかったはずだ。
アニメに登場するキャラクター達が変わった以上に、私自身が変わったから、アニメを違った風に観るようになった。それでも楽しんではいるから、大問題だとは思わない。それでも私はもう、10代や20代の頃と同じようにはアニメを観れていないとは言える。
こういうことを考えた瞬間に、歳月の重みが私自身の自意識をキュッと締め付けたような、気がした。
「一生アニメを観て幸せ」は変化を前提としている
歳月は人を変える。
それはアニメ愛好家とて例外ではない。
10代や20代の頃に出会った傑作アニメは、人格形成の一部になり得る。まだそれほど沢山のアニメを観てはいないから。まだ生きた時間が短いぶん、感動や衝撃に晒された回数が少ないから。まだ感情が太く、瑞々しいから。
そういう境遇の若きアニメ愛好家が語る「俺は一生アニメを観ていれば幸せ」という言葉には、かけがえのない輝きが宿っていると思う。
だが、私はもう知ってしまった。
若き愛好家の「一生アニメを観て幸せ」という言葉は、若さという前提に支えられていることを。熟慮するまでもなく「一生アニメを観て幸せ」と言えてしまう能天気さじたいが若さの証であり、私や私と同世代の愛好家、そして愛好家とは言えなくなってしまった連中が喪ってしまったものであることを。
本気で「一生アニメを観て幸せ」で居続けるためには、幾つもの条件をクリアしていく必要がある。
・第一に、アニメを観る自分自身の心が変わっていくから、それに適応しなければならない。
いつかは思春期は終わりを告げる。それまでの間、思春期のキャラクター達は近しいものとして感じられるが、思春期が終わると、それらは過去を描いた何か、あるいは年下世代のファンタジーを描いた何かに変貌する。青春群像なりビルドゥングスロマンなりを「我が身に引き寄せて」楽しむ筋は、制限されることになる。
だから、キャラクターへの感情移入に頼ったかたちでアニメを楽しんでいる人は、そうでないアングルから楽しむ方法を確立しない限り、思春期の終わりで「一生アニメを観て幸せ」の難易度が跳ね上がる。そして思春期には必ずといって良いほど終わりがあり、結婚しようがしまいが、子育てをしていようがしていまいが、中年という新時代が幕を開ける。きわめて稀に、何歳になっても思春期を続ける人がいないわけでもないが、これは一種の異形であり、なろうと思ってなれるものではない。
・第二にキャラクターや筋書きには流行があるから、変化を前提としなければならない。
90年代後半に流行していた作風、00年代後半に流行していた作風、10年代後半に流行している作風はみんな違う。これから先もそうだろう。若くして「一生アニメを観て幸せ」と言っている人が、もし現代の流行がベストと感じているなら、その感覚は間もなく去っていくと心得ておいたほうがいい。
最近は、アニメの作風も多様化が進み、リバイバルもある程度期待できるようになった。それでも、「俺のためのアニメが溢れている!」といった気持ちになれる時期は思うほど長くない。アニメを観て幸せな理由が流行に依存しているようでは、流行が終わってしまったら尻すぼみになってしまう。
ということは……長くアニメを観て幸せでいたければ、好みではないアニメもときにはチョイスして、眺めかたを知っておいたほうが良い、ということでもある。「一生アニメを観て幸せ」とのたまうような人なら、そうしているかもしれないが。
・第三に、アニメを観る自分自身は社会的な存在だから、辻褄をあわせなければならない。
社会的な存在だから、歳を取ったらアニメを観に映画館に行きにくいとか、同人誌を買いに行きにくいとか、そういうことを言いたいわけではない。その程度の自意識の疼きなど、本当にアニメが好きな人には小さな問題でしかないだろう。
もっと重要なのは、家庭とか、仕事とか、地域とか、介護とか、そういった問題と無縁ではいられない、ということだ。
20代独身でアニメを愛好しているうちは、趣味に時間やお金を割くことはそれほど難しくないかもしれない。最悪、時間やお金の足りなさを健康を代償としてカバーすることすら可能だ。もちろん、健康の前借りは、後で負債となってのしかかってくるのだが。
しかし年を取るにつれて、そういう自由がきかなくなってくる。結婚・出産・子育てで自分の時間が少なくなる人もいれば、仕事で重要なポジションに就いて時間が少なくなる人もいる。介護に手間暇をとられる確率も少しずつ高くなる。
だったら、そういったしがらみの無い人生なら「一生アニメを観て幸せ」かといったら、さて、どうだろう。
しがらみが無いということは、ポジションが無いということでもある。その結果、収入やソーシャルキャピタルが脆弱になって、趣味を楽しむ土台が脅かされるようでは元も子もない。一生アニメを観て幸せに過ごすなら、なんらか、堅牢なライフスタイルをつくっておく必要がある。
・第四に、アニメを観る自分自身はフィジカルな存在だから、健康を守らなければならない。
若い気持ちでアニメを観ようとしても、肉体までは若くできない。皮膚のしわぐらいなら誤魔化せても、集中力や記憶力の低下まではどうしようもない。ニコニコ生放送でアニメ全話を通しで観るとか、だんだん辛くなってくるし、深夜アニメをライブで見た翌日の疲れ具合も厳しくなる。老眼をはじめ、目に関する問題もだんだんに出て来るだろう。
人は、年を取るにつれて「身体が資本」といったことを言い出すものだが、アニメ愛好家の道も、たぶんそうなのだ。二十代の頃は歯牙にもかけていなかった健康問題が、じわじわ迫ってきて趣味生活を圧迫する。メンタルもまた肉体に宿るものだから、フィジカルをないがしろにしているとメンタルの側から健康が脅かされるおそれもある。健康に関心を持っていかれてアニメへの関心が減ってしまうこともあるし、健康に時間やお金を費やさざるを得ない局面も増えてくる。こんなことは思春期の頃は考えなくても良かったのだが。
君は、朽ちていった屍を乗り越えられるか?
このように、「一生アニメを観て幸せ」を実際にやってのけるのは簡単ではない。いくつもの変化、いくつもの条件をクリアしてようやく成立するもので、実際にやってのけるのはなかなか難しいのではないだろうか。
私はインターネットの内外で二十年以上、アニメ愛好家の生きざまを見つめ続けてきたけれども、たくさんのアニメ愛好家が朽ち果てていった。
ある者は仕事が面白くなるにつれてアニメから遠のいていき。
ある者は健康問題によってアニメを楽しめる土壌を侵食され、精彩を欠いていった。
「俺は○○と結婚する!」と豪語していた者も、リアルで妻帯者となってからはアニメを観なくなった。
そして彼らよりもずっと大多数として、年に1~2本はアニメを観るけれども、趣味と呼べるほどでも幸せと呼べるほどでもなくなった大勢の元アニメ愛好家のおじさんの群れが存在している。
もちろん、インターネットの雑居ビルさながらの「はてなブックマーク」あたりには、四十代になっても矍鑠としている古参アニメ愛好家もいないわけではない。だが彼らはあくまで少数派であり、朽ちていった者達を乗り越えて生きながらえてきた、アニメ古老的な何かである。彼らのなかから、やがてアニメじじいやアニメおばばも現れるのかもしれない。だが、その道のりは険しく遠い。険しく遠いからこそ、生きながらえたアニメ古老は貴重な存在だともいえるが。
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