現代人は、適切な努力を積み重ねるよう求められている。
我々は、いつかは「適切でない努力には意味がない」という現実と向き合わなくてはならくって、子どもの頃は努力するというスタンス自体を身に着ける為に「努力なら何でも褒める」という方針でも問題ないんだけど、どこかで「努力は適切なやり方でするべき」という切り替えも多分必要なんだと思う
— しんざき (@shinzaki) 2018年11月8日
で、「努力は無条件で尊い」から「努力は適切なやり方でやるべき」に転換する為の、一つの機会というかタイミングが受験なのではないだろうか
— しんざき (@shinzaki) 2018年11月8日
[詳しくはこちら→]我々はどこかで、「努力は無条件で尊い」から「適切でない努力をするべきではない」に思考を切り替えないといけない: 不倒城
「適切でない努力には意味がない」という現実は確かにあって、とりわけ大学受験は、適切な努力をとおして学力を獲得できるかどうかで成否が決まるし、くわえて、妥当な努力目標を設定できるかどうかによっても成否が左右される。
人生の前半において、努力の適切さと努力目標の妥当性を問うという点では、受験というハードルほど似つかわしいものはないだろう。
と同時に、受験というハードルによって、現代人は訓練づけられ、選別されている、とも言える。
適切に努力を積み上げられるか否か・妥当な努力目標を選べるか否かによって受験というゲームは争われ、学校教師や塾講師もその前提にもとづいて教育する。このため、受験勉強に乗れば乗るほど「適切な目標に向かって適切な努力をする」傾向がインストールされるし、と同時に、そのような素質に恵まれた生徒ほど上位に浮上するようになっている。
社会人になってからも、妥当な努力目標の設定と、適切な努力の積み重ねが問われ続ける。高級ホワイトカラー層や実業家ばかりでない。窓口業務や土木建設業の最前線にいる人々も、いまどきはそうした能力を期待される。控えめに言っても、妥当ではない努力目標・不適切な努力の積み重ねをしてしまう人が適応しやすい職種は少ない。
そういった、いまどきの受験勉強や就労状況をサバイブした男女が、親世代となって子育てを始める。必然的に、親から子へと「適切な目標に向かって適切に努力する」傾向はますますインストールされていくだろう──冒頭リンク先のしんざきさんがおっしゃるように、小学生時代は努力の積み重ねそのものを尊び、やがては目標選択の妥当性をも尊ぶようなかたちで。
つまり「妥当な目標に向かって適切な努力をする」という意識は再生産され、強化され続けている。教育機関と受験勉強という制度を潜り抜けた人々が、子々孫々に対してもそのように教え込んでいく。実際、それは現代社会をサバイブしていくには必要なもので、現代社会から強く期待されていることでもある。
"「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」は、現代人のたしなみ"と言っても過言ではない。
「不適切な努力」を許さない社会と、内なる規範意識
さて、妥当な目標に向かって適切な努力を積み重ねるようトレーニングされ、そのように生きる現代人が増え続けたことによって、社会は高度化し、効率化し、サービスも向上した。
重要なポジションを占める人々は、たいていは「妥当な目標を設定して、適切な努力を積み重ねる」人だ。強力なコネで地位を獲得したような例外はともかく、受験勉強・就活・就労をとおして頭角を現した人なら誰しもそうだろう。そのような人物が重用されて、そのような人物が尊敬される社会になっているからだ。
コンビニの店員や鉄道会社の駅員も、いまどきは的外れな努力で客を苛立たせるような人は珍しい。警察官などもそうだ。昭和時代の店員や国鉄職員や教育関係者などには見かけた、的外れな努力をやたらと積み上げるようなタイプは淘汰されてしまったのだろうか?
おおむね、そうなのだろう。
妥当な努力目標を選べない人や適切に努力を積み重ねられない人は、現代社会では活躍の場が狭い。「不適切な努力」になってしまう人を私達が意識的に排除しているわけではなかろうし、この国には制度として福祉のセーフティネットが幾重にも張り巡らされてはいる。それでも、結果として社会全体は「不適切な努力」を減らす方向に圧力をかけ続けているし、そういった能力にまつわる競争原理は、福祉というセーフティネットが存在することによって、ある意味、正当化されている。
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圧力をかけているのは社会の側だけではない。
私達自身の内面には「適切な目標に向かって、適切な努力を積み重ねよ」という規範意識がインストールされている。ホワイトカラー的な出自を持っている人においては、とりわけそうだろう。だからもし、妥当な努力目標を見失ったり、適切に努力ができなかったりした時には、その内面化された規範意識が葛藤を生むことになる。
「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」が強固にインストールされている人は、実際、なるへまく妥当な目標に向かって適切な努力を積み重ねるだろうし、それは現代社会に適応し、競争を勝ち抜くうえで有利には違いない。反面、それが強固にインストールされていればいるほど、いざ、自分自身が「不適切な努力」を積み重ねてしまったと気付いた時には、そんな自分自身が許せなくなってしまう。
高級ホワイトカラーなうつ病の患者さんや、高級ホワイトカラーな家庭の子弟のうつ病の患者さんのなかに、まさに、そのような自罰モードに陥っている人を見かけることがある。本人の規範意識が強固なだけでなく、家族や職場同僚も同じような規範意識を共有しているケースともなれば、そうした規範意識に根差した自罰感情は簡単には変えられないし、抗うつ薬を処方すれば済むというわけにもいかない。
一般に、インストールされた規範意識は無意識のうちに社会適応を助けてくれるように働く。しかし、そこから逸れてしまった時には自分自身のメンタルに罰を与えるものである。19世紀~20世紀前半の欧米社会では、そうした規範意識の典型例が性にまつわる規範だったし、フロイトの研究もそこから広がっていった。
フロイトの時代に比べれば、現代社会は自由になったといわれる。けれども私は、そんなに簡単ではない、と思う。「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」をはじめ、自由な社会で自由に生きていくための前提条件として、さまざまな規範意識がみんなにインストールされて、それでもって社会も私達の暮らしも成り立っているからである。
「カチコチの規範意識を避ける」
では、どうすれば良いのか?
解答としては、「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」をあまりにも強固にインストールしないことだろう。そのためには人間関係には幅があったほうがいい。家庭でも学校でも職場でも、そのような規範意識をしっかりインストールした人しかいなければ、どうしたって規範意識は強まってしまう。規範意識の外側にいる人や、規範意識をそれほど強くインストールしていない人との付き合いがあれば、まだしも意識の幅は広がる。
それが無理な場合は、せめて、努力を上手に積み重ねられない人を罰したがるような人間にはならないこと。他人を罰する呪詛は、自分の努力がうまくいかなかった時に自分に跳ね返ってくる。この件に限らず、やたらと他人を罰してまわる生き方はお勧めできない。
それと、日常生活のなかに無駄な努力や「あそび」を組み込んでおいて、あまりにも真っ直ぐに適切さを追いかけ過ぎないこと。
いまどきの現代人が、「妥当な目標に適切な努力を積み重ねる」という規範意識を撥ねのけて生きるのは、たぶん難しい。だから、それをインストールするのは構わないし必要ですらあるけれども、カチコチなインストールを避けるための方策や迂回路はあったほうが良いと思う。何事も、過ぎたるは猶及ばざるが如し。