シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「超自我」は滅びんよ、何度でも甦るさ

 
 フロイトは、自我とイド*1と超自我の三つの概念を用いて精神機能を説明した。「精神分析なんて古い」と考えている人にとって、この精神機能のモデルはいかにも古風に聞こえるだろうし、時代遅れにも感じられるだろう。
 
 わけても、時代遅れに聞こえそうなのが超自我だ。
 
 自分の行動が社会のルールからはみ出さないか、禁じられた行為をしていないかを自己検閲し、自分自身の行動どころか思考にまでブレーキをかける、そういう精神機能のことを超自我と呼ぶ。
 
 昔、超自我はしばしば性的な取り決めと関連づけて語られていた。精神分析が生まれたころのヴィクトリア朝時代のヨーロッパ、とりわけフロイトが顧客とした中~上流階級の子弟においては、性についての社会のルールは厳格をきわめていた。とりわけ女性は、その厳格な性的な取り決めによって束縛されていた。
 
 当時の女性たちは、ジェンダーやセクシャリティについて、実社会で束縛を受けていただけではなかった。女性たちへの束縛は、物心つく頃までにはプリインストールされていて、意識すらされないような、内面化された規範意識や常識のレベルにまで及んでいた。彼女たちは厳格な性的取り決めを内面化していて、しかも、それを意識することすら難しかったからこそ、束縛は逆らい難いものだった。本来なら奔放な性衝動がある女性でも、その衝動には無意識の水準でブレーキがかけられ、それが葛藤を、ひいては神経症症状を生み出す──というわけだ。フロイトが活躍したフィールドには、そのような葛藤を抱え、神経症症状を呈していた女性が珍しくなかったことを思えば、フロイトが持論のとっかかりとして性の問題に着眼した(というより着眼し過ぎてしまった)のはわかる気がする。
 
 むろん、当時の男性も「男性かくあるべき」という規範意識や常識を内面化していたし、当時は男性役割についての取り決めも現在よりも厳格だったから、これは女性だけの問題ではなかった。まとめると、「19世紀のヨーロッパの中~上流階級に広まっていた規範意識・常識が、物心つくまでにプリインストールされ(=超自我)、自分自身の衝動や境遇との間に齟齬が生じていれば、葛藤や神経症症状を起こす余地がある」となるだろうか。
 
 

21世紀に「超自我」はあるやなしや

 
 それから長い歳月が流れて、社会は大きく変わった。
 
 19世紀には厳格だった性的な取り決めは、20世紀をとおして大幅に緩和された。21世紀の先進国では、「男性かくあるべき」「女性かくあるべき」を個々人に押し付けることは好ましくないこととみなされている。個人の自由や個性が尊重され、自主的選択にもとづく多様性が尊重される社会では、フロイトが論じた頃と同じような超自我も、それに起因する葛藤や神経症症状も、そう滅多にお目にかかれるものではなくなった。
 
 では、「超自我」は無くなってしまったのだろうか。
 
 すなわち、「物心つくまでにプリインストールされ、意識すらされないけれども、自分の行動が社会のルールからはみ出さないか、禁じられた行為をしていないか検閲して、自分自身の行動どころか思考にまでブレーキをかける、そういう精神機能」はもう無くなったのだろうか。
 
 私の記憶が間違っていなければ、20世紀後半の精神分析方面の論者のなかには、「現代人には超自我があまりみられない」「超自我に束縛される精神性より、歯止めのきかない精神性のほうが今日的だ」といった論調の人ががいたように思う。
 
 フロイトが活躍した頃と同じ内容の超自我がみられなくなった・フロイトが語ったとおりの葛藤や神経症症状が少なくなったという意味では、それは間違っていないだろう。
 
 では、現代人には本当に超自我は無くなったのだろうか?
 
 私にはそうは思えない。
 
 たとえば、少し前に人気を博した漫画『東京タラレバ娘』の内容は、「女性の生き方かくあるべし」を強固に内面化したいまどきの女性たちを描いたものだった。
 
 [関連]:『東京タラレバ娘』という神経症的葛藤 - シロクマの屑籠
 
 彼女たちのような「女性の生き方かくあるべし」は、2018年現在、早くも時代遅れになりつつある感はあるし、女性がみな同様の「かくあるべし」をプリインストールされているとは思えない。だが、この漫画がそれなりのセールスを記録したということは、「かくあるべし」を多かれ少なかれ内面化した女性がそれなりいたことを暗に示しているように、私には思われた。
 
 のみならず、現代社会には現代社会なりに、たくさんの「かくあるべし」が存在している。いくつか挙げてみると、
 
 ・私達は自己主張し、自己決定して、独立した意志にもとづいて生きるべし。
 ・私達は資本主義のロジックに基づいて考え、行動すべし。
 ・私達は多様化した社会に相応しいモノの考え方と言動を心がけるべし。
 ・私達は街で他人に迷惑をかけないように行動すべし。
 ・私達は他者から承認される個人たるべし。
 
 19世紀の日本と21世紀の日本を比べると、これらの「かくあるべし」は、21世紀のほうが段違いに強力で、幅広いものとなっている。たとえば、大都市圏のホワイトカラー層の家庭で生まれてきた子どもが、こういった「かくあるべし」をプリインストールされることなく成長することは、おそらく不可能だろう。20世紀後半に生まれてきた子どもらも、多かれ少なかれ、こうした考えをプリインストールされていた側面はあろうけれども、これらの「かくあるべし」が社会のなかで当然視されている度合いは段違いである。これらの「かくあるべし」に関する限り、21世紀は20世紀よりも「かくあるべし」が強固にプリインストールされ、自明とみなされやすい社会だ。
 
 言い換えれば、これらの「かくあるべし」から本当は逸脱したい個人や、逸脱することしかできない個人にとって、神経症的葛藤や罪悪感が生じやすい社会だとも言える。そこまでいかなくても、「かくあるべし」によって生き方や社会適応のありかたを制限され、不自由な状況に甘んじている人が生じやすい社会だとは言えよう。
 
 だとすれば、21世紀において超自我について考える際には、フロイト時代の「かくあるべし」に基づいて考えるのでなく、21世紀ならではの「かくあるべし」に即して考えるのが妥当ではないだろうか。
 
 フロイト時代の論説をそのまま現代人に当てはめるなら、「精神分析は時代遅れ」「超自我なんて時代遅れ」というのはそのとおり。
 
 だが、今日の社会に蔓延している常識やルールを踏まえて、それなら今日の超自我とは何なのかをキチンと考えられるなら、葛藤まみれで自縄自縛な現代人について考える際にはいぜん有効ではないだろうか。
 
 あるいは、現代人の精神の自由について考える際には、あったほうが良い思考モデルではないだろうか。
 
 尤も、超自我という概念は無意識を前提としていて、この、無意識というやつが、現代人にはすこぶる受けが悪い。現代人の大半は「無意識なんて考える必要はない、すべては意識的に、自分で考え自分で決めたとおりのことだ」と考えたがる。本当はそんなはずが無いのに。それもまた、今日の「かくあるべし」のひとつかもしれないし、現代人にとっての躓きの石たりえるのかもしれない。
 
 

*1:またはエス