2010年代に入って、インターネットで種々の政治闘争を見かける頻度が激増したように感じる。
2000年代においても、いわゆる「ネトウヨ」は話題になっていて、匿名掲示板ではそういった人々とおぼしき書き込みは目に付いた。また、はてなブックマーク・はてなダイアリーあたりでも、極左的な政治闘争を叫ぶ人々の姿を目にしなくもなかった。
そうはいっても、当時のネット政治闘争はまだしも限定的だった。2010年代に入ると、東日本大震災後の原発/反原発を皮切りに、ジェンダー・国政・表現・道徳秩序といったものについて、あちこちのアカウントが自分の声をあげはじめ、論争に飛び入った。そうやって声をあげはじめた無数のアカウント同士は、シェアやリツイートや「いいね」といった手段を使って繋がりあい、派閥というには曖昧とはいえ、ともかくも、ひとつのオピニオンの塊を為して激しくぶつかり合い、いがみ合うようになった。
ネットでは、極端な主義主張を持った者の声が大きくなりやすい、と言われている。その実感もあるし数字としても裏付けられている。しかしそれだけではなく、2000年代には「ノンポリ」にみえたアカウントが、2010年代ではさまざまな政治闘争に繰り返し言及している、そんな風景を頻繁に見かけるようになった。
そんな風景を十年前の私は予想していなかったし、望んでもいなかった。あの人も、この人も、なんらかの政治闘争に言及・コミットし、なんらかのポジションにもとづいてポジショントークを繰り広げている。そんな風に見えるインターネットが到来した。
どうして、こんな風になってしまったのだろう?
まさか、誰もが運動家になりたがったわけでもあるまい。そういう闘士気質の人なら、十年以上以前から闘争に参加しているだろう。そうではなく、およそ政治闘争など望んでいなかったはずの「市井の人々」までもがこぞって政治闘争に参加し、ときに、口汚いボキャブラリーを用いながらシンパの擁護とアンチの排斥にのめり込んでいるのは何故なのかを考えているうちに、一側面として思い当たるものがあったので、書き残しておくこととした。
消極的理由──不安や憤りを払いのけるための闘争
誰もがなんらかの政治闘争にコミットするようになったのは、「みんなが政治闘争をしたくなった」といったポジティブな理由だけではあるまい。
インターネットにありとあらゆる人が集まり、繋がり過ぎてしまったがゆえに、自分の思想信条や生活実態とは相いれないオピニオンが視界に入るようになってしまったからなのだろう。自分とは相いれないオピニオンが、一人や二人の発言ならまだしも、シェアやリツイートや「いいね」で繋がりあった、何百人~何万人ものオピニオンの塊をなして眼前にあらわれた時、その心理的な圧迫感・存在感を無視するのは難しい。大人数の政治闘争に慣れていなかった人々においては、とりわけそうだろう。
「自分の思想信条や生活実態に否定的な、巨大なオピニオンの塊が、大きな声で、きつい口調で、自分に向かって批判や非難を投げかけているような状況」に不安や憤りを感じないのは、なかなかに肝のすわった人物か、よほどメディア慣れしているプロな人物か、どちらかだろう。
それ以外の大多数の人が、不安や憤りといったネガティブな感情にとらわれ、自分に近しい思想信条や生活実態を持った者同士で繋がりあい、対抗できるオピニオンの塊をつくろう・その一部に所属しようとするのは、動機としてはナチュラルなものだ。
少なくとも私が観察している限りでは、そういった不安や憤りを動機として、政治闘争に口を出すようになっていったアカウントはそんなに珍しくないように思う。
スマホでSNSを眺めている時の私達は一人きりだが、その際、対抗的なオピニオンの塊は何百~何万人もの大集団をもって目に飛び込んでくる。本当は、それは心理的にイージーな状況ではないはずなのである。
そんな折、自分の思想信条や生活実態を代弁してくれるかのような別のオピニオンの塊が目に飛び込んでくれば、そちらに参加したくなる──というよりすがりつきたくなる──のは人情としてよくわかる。実のところ、政治闘争がやりたくて参画している人は少数派で、不安や憤りといったネガティブな感情にとらわれ、やむを得ず声をあげて群れるに至った人のほうが多いではないだろうか。
積極的理由──承認と所属
とはいえ、不安や憤りが全てというわけでもない。
現在のインターネットでは、どのような思想信条や生活実態の人でも、かならず近しい立場のアカウントやオピニオンの塊にどこかで出会える。政治闘争に参加し自分の意見を述べてみれば、稚拙な内容でもシェアやリツイートや「いいね」が獲得できる。というより、いくらか稚拙で極端な物言いのほうが歓迎されるふしすらある──自分では極端なことは言いたくないけれども、誰かに代弁してもらいたい人々だってインターネットにはたくさんいるからである。
シェアやリツイートや「いいね」が絡んでくる以上、ネットの政治闘争に参加する者には承認欲求や所属欲求がついてまわることになる。
反原発であれ、政治的な正しさについてであれ、表現を巡る諸問題であれ、それらについての自説を述べ、近しい立場のアカウントやオピニオンとシェアやリツイートや「いいね」で繋がりあえば、承認欲求や所属欲求が充たされる。ネットで政治闘争に参加すると、そういったソーシャルな欲求が必ずといって良いほど充たされてしまうのだ。
かつての「ネトウヨ論」でも語られたことではあるが、そうした政治闘争への参加によるソーシャルな欲求充足は、日頃、そういった欲求に飢えている人や、充足の強度・純度が足りないと感じている人にはまたとない機会となる。日常では得にくい欲求充足を政治闘争の場で知ってしまって、なお節制をきかせるのは簡単ではないだろう。とりわけ、ハイレベルな承認や所属でなければ要求水準をみたせないような人*1にとっては、政治闘争の最前線で極論を繰り返すことが、最も簡単で現実的な欲求充足の手段たり得る点には注意しなければならない。
よく、オンラインゲーム依存者やソーシャルゲーム依存者へのインタビューに「何者でもない自分でも何者かになれる」といった言い回しが登場するけれども、これは、ネットでの政治闘争にも適用できよう。ネットの政治闘争は、何者でもない人間を、なんらかのポジションを主張する何者かに仕立て上げる。たとえそれが、大多数からみれば燃え続ける泥人形だとしても。
少なくともそういう論法が当てはまるとおぼしきインターネットアカウントは存在する。だからやめにくいし、エスカレートしやすいし、制御しにくい。ともすれば、政治闘争の悪鬼羅刹のようなアカウントになり果ててしまう。
繋がり過ぎてしまうネットメディアは人類には早すぎた
不安に動機づけられるのであれ、欲求に味をしめてやめられなくなるのであれ、結局、この問題の根底には、あまりにも繋がり過ぎてしまうネットメディアの性質と、そうしたメディアの進化に全く追いついていない人間の心理構造とのギャップがあるのだろう。
人間は社会的生物だから、他人の意見には敏感だし、ソーシャルな欲求をとおして不安も憤りも充足も感じる。その性質そのものは、太古の昔からほとんど変わっていない。
しかし、SNSをはじめとするネットメディアは、あまりにもたくさんの人を繋ぎ過ぎてしまう。自分の思想信条や生活実態に敵対的なオピニオンが、毎日のように何千何万と群れているさまが可視化され、と同時に自分のシンパの巨大な集団がソーシャルな欲求を充たしてくれる状況が十年足らずでできあがったものだから、その政治闘争の磁場にあらゆる人が引きずり込まれ、不安と憤りと充足の坩堝にとらわれてしまった。
2010年代以前は、「ネトウヨ」をはじめとする比較的少数の人々と少数のポジションがこの構図に当てはまっていたが、SNSが普及した2010年代以降、もっとたくさんの人々がインターネットに参加するようになると、より多くの立場のより多くの人々が政治闘争の磁場に呑み込まれていき、インターネットはあらゆるポジションのあらゆるポジションに対する闘争の舞台となり果てた。
そうしたネットでの政治闘争の陰には、もとから政治闘争に血道をあげていた人々の姿が見え隠れすることがあり、もちろん彼らの"努力"もこうした状況に一役買っているのだとは思う。けれども、こうも収拾のつかない政治闘争の常設戦場と化してしまった背景には、あまりにも繋がり過ぎてしまい、あまりにも可視化され過ぎてしまうネットメディアというツールが、不安や憤りや充足によって動機づけられる人間の心理構造には早すぎた、という側面も多分にあるだろう。
かくも過熱してしまったネットでの政治闘争の現状に、参加者の大半が不安や憤りや充足に動機づけられながら参加しているとしたら、そうした政治闘争が妥協点の摺り合わせや合意形成に向かわず、欲求充足に都合の良い、排他的で攻撃的なものになってしまうのは仕方のないことではある。もし、この構図をどうにかする余地があるとしたら、ネットアーキテクチャの変更や制御、制限のたぐいということになりそうだが、そんなことを誰が望み、誰がやってのけられるだろうか?
一昔前までは、ノンポリのようにみえたあの人も、あの人も、みんな政治闘争の磁場に吸い寄せられ、運動家クローンのようになった姿を見て、私は寂しく思うことがある。しかし私とて他人事ではなく、現在のインターネット、ありとあらゆる思想信条や生活実態が衝突するこの環境のなかでは、多かれ少なかれ人はそうならざるを得ないのだろう。使い古された表現をするなら、「人間にはインターネットは早すぎた」、ということなのだろうけど、この構図は、いったいどのような結末に辿り着くのだろうか。