シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

"本当は正しくない『となりのトトロ』"が、受け入れられている

 

となりのトトロ [DVD]

となりのトトロ [DVD]

  • 発売日: 2014/07/16
  • メディア: DVD
 
 
『となりのトトロ』は子どもが妖怪に出会う物語だ。
 
妖怪が出るような、よくわからない場所が間近な生活圏にあったということだし、よくわからない場所に子どもが出入りする自由があったということでもある。
 
おばあちゃんの田舎へと引っ越してきたメイとさつきは、まず廃屋同然の新居を冒険する。
 
新居はほこりだらけで、ぼろくなっていて、まっくろくろすけ(すすわたり)が巣食っている。まっくろくろすけが巣食っているということは、新居はよくわからない場所で、そのよくわからない場所に、メイとさつきが踏み込んでいったわけだ。
 
床を踏み抜いてしまうかもしれない、リスクのあるよくわからない場所に子どもが入っていくのは、令和の子育て感覚では許容されない。親や周囲の大人が許容しないだけでなく、よく訓練された令和の子どもなら、よくわからない場所に勝手に入っていくことを警戒するだろう。
 
しかし、お父さんやおばあちゃんは軽く注意は促すにしても、それがいけないことだと思っている節はない。もちろんメイやさつきもだ。
 
メイやさつきが新居を飛び回り、まっくろくろすけに出会い、手足を真っ黒にしてしまうシーンは楽しげに描かれているが、令和の親御さんは、あのような振る舞いを子どもに許さない。清潔という観点からも、ハウスダストアレルギーといった健康という観点からも、まっくろくろすけは忌避されるだろう。笑い話にはならない。
 
そしてメイとさつきは森に遊びに行き、トトロに出会う。よくわからない場所に子どもだけで探検に出かけたからこそ、メイとさつきはトトロという怪異に出会えたわけだが、よくわからない場所に子どもだけで探検に行くという状況は、今日では、ネグレクトや児童虐待の文脈で語られてしまうもので、楽しげにみるべきものではない。
 
ところがトトロの話を聞いたお父さんは、その状況を禁止するでもおばあちゃんに深刻げに相談するでもなく、さも、良かったことのように話している。
 
令和時代のまともな父親なら、娘たちが勝手に森に遊びに行き、"トトロ"を名乗る正体不明の存在に会ったと聞けば震え上がるに違いない。
 
そうした状況の行きつく先として、ついにメイは行方不明になる。ご近所が総出でメイを探しにかかるが、見つからない。児童向け映画作品としてのトトロは、トトロとネコバスの助けによって大団円を迎えるわけだが、一歩間違えればメイは"神隠し"に遭っていたかもしれないし、そのような状況をつくったお父さんやおばあちゃんは厳しい詰問の目に曝されていたやもしれない。
 
 

令和では許されないトトロを、どうして私たちは楽しめるのか

 
こんな具合に、令和の子育て目線で『となりのトトロ』という作品を振り返ると、全体的に許されない感じが漂っていて、およそ、心穏やかに見ていられるものではない、はずである。いや、実際には令和の親御さんの多くは『となりのトトロ』という作品にホラーじみた危機感より、親しさや懐かしさを感じていることだろう。だが、冷静に考えると、トトロの物語は令和時代の親御さんが親しさや懐かしさを感じられるものではないはずだし、わが子をよくわからない場所に探検させ、妖怪に出会わせたいと思えるものでもない。
 
ところが『となりのトトロ』を正しくないアニメだ、不穏なアニメだという大人は少ない。どれぐらい少ないかというと、そこらじゅうの幼稚園や保育園で『となりのトトロ』が映され、国民的児童アニメという扱いになっているぐらいである。親御さんや子育ての専門家の多くも、普段は『となりのトトロ』の内容の不穏さや正しくないさまについてさほど意識しないのではないだろうか。
 
令和の子育て基準でみて、正しくもなければ穏やかでもない内容のはずの『となりのトトロ』が、これほど受け入れられているのはなぜだろう。
 
もちろん第一には、児童向けアニメとして『となりのトトロ』がつくられていて、しかも作っているのが宮崎駿監督だからだろう。
 
宮崎駿監督の手にかかれば、法から逸脱した物語はたちまち美しくなり、グロテスクな存在も魅力的になってしまう。本当はおぞましいかもしれないまっくろくろすけやトトロやネコバスも、児童向けアニメに本気を出した宮崎駿監督の手にかかれば、かくのごとしである。
 
最近、togetterで昭和時代の子育ては死と隣り合わせであった、といった内容のやりとりのものが注目を集めていたが、そこで語られていた内容は、トトロの舞台となった時代とそれほど遠くない。
 
硫化水素が発生し落ちたら死ぬドブ、しばしば轢殺される同級生...昭和30年代の東京芝浦エピソードは壮絶の塊だった - Togetter
 
トトロの時代からさらに下った昭和の後半でさえ、子どもが死ぬこと、行方不明になることはそれほど珍しいことではなかった。私が通っていた小学校でも、各学年にだいたい一人ぐらいは中途で命を落とした同級生がいるものだった。私自身、四歳の時に子ども同士で一級河川の川辺に遊びに行ってサンダルを片方なくしているし、小学校三年生の時に子ども同士で沼に遊びに行って沼でおぼれかけたことがあった。もう少し運が悪ければ、私自身が"神隠し"に遭っていたかもしれないし、いわば、トトロに出会っていたかもしれない。
 
昭和の子育て環境を振り返り、当時の社会のコンテキストに当てはめて考えるなら『となりのトトロ』はネグレクトでも児童虐待でもなんでもない、当たり前の子育てのありようだった。子どもは近所をうろつくものであり、ときに妖怪に遭ったり、ときに"神隠し"に遭ったりするものだった。そして『となりのトトロ』の作中で示されているように、子育ては親が全責任を負うものではなく、地域共同体のなかで緩やかに・曖昧に行われるものでもあった*1。批判的にみるなら、責任の所在の曖昧な子育て、とも指摘できるかもしれない。
 
ところが令和社会のコンテキストでは、親が子どもの24時間に責任を負うべきで、子どもの健康と安全に神経をとがらせるべきで、子どもがよくわからない場所をうろつくことはあってはならない、ことになっている。そこには大きなギャップがあるのだけど、昭和社会の子育てから令和社会の子育てへの移行にかかった時代は、せいぜい2~3世代程度の短い時間だった。そして令和社会の子育ては、子どもの健康や安全には配慮している一方で親には大きな負担を、子には窮屈な生活空間と管理され尽くした日常を与えてやまない──。
 
思うに、令和時代に『となりのトトロ』をみている大人たちも、内心では、令和社会の子育てが正しく健康で安全ではあっても、窮屈なものになっていることに辟易しているのではないだろうか。『となりのトトロ』を穿った目でみれば、令和社会のコンテキストでは許されない不健康で危険で正しくない状況が描かれているのだけど、他方、昭和社会の子育てにあった豊かさや良かった側面をトトロほど理想的に描いている作品もない。
 
令和の親御さんまでもが『となりのトトロ』に親しさを感じるのは、もう正しくなくなったとはいえ、今の子育てに不足しているものがたっぷり描かれているからではないかと、私は思ったりする。昭和から令和になって、子どもは安全になった。それはいい。だが、良いことばかりではなかったはずだし、そのことを本当はみんなも直観しているのではないだろうか。宮崎駿監督のマジックが効きまくっているとはいえ、もはや正しくなくなったはずのトトロがこうも受け入れられているさまを眺めていると、私たちはどこから来て、どこへ向かおうとしているのか、ちょっと考え込んでしまう。
 
 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 

*1:ただし、『となりのトトロ』においてはここでも宮崎駿マジックが発動している:地域共同体についてまわる余所者に対する目線は、せいぜい、カンタの意地悪のうちにデフォルメされてしまっているからだ。