シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ないことにされたくないロスジェネ・オタク差別・web2.0の記憶

 

 
10月4日に発売される拙エッセイ『ないものとされた世代のわたしたち』は、「ないことにされたくない記憶」のまとまりになった。
というか、ほっといたら忘れられてしまったらなかったことにされてしまいそうだな……と思うことを書いている。
 
 
 

忘れられたくないこと、残しておきたいことがたくさんある

 
私がブログを書く理由はいろいろあるけれども、理由のひとつに「そのときの記憶を残したい」がある。
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
 
たとえば上掲は2008年3月のブログ記事で、秋葉原の歩行者天国が秋葉原連続通り魔事件で中止になる少し前のものだ。この頃の秋葉原の歩行者天国には色々な人が集まってきていて、オタクが集まる街からオタク以外も流入してくる街、オタクカルチャーのライト化が具象化した街として活気があった。この頃はまだ、外国人観光客もあまり目立たない。
 
こういうものを書き留め、思い出すツールとしてブログを続けているのはなかなかなかなか便利だ。その時期に自分が見た風景や情景が、たちまち蘇るからだ。
 
これに限らず、忘れたくない風景や情景は書き残しておくに限る。逆に、書き残しておかないもの(または、写真などに撮っておかないもの)は風化し、忘れられていく。忘却というプロセスに抵抗するためには書き残しておくに限る。その際、ブログもいいが商業出版も優れている。誰かの家の本棚に、そして国会図書館に入れてもらえそうだからだ。
 
私には、忘れたくない記憶・ないことにされたくない記憶がいろいろある。 
たとえば就職氷河期と当該世代のこと。
 

徹頭徹尾、就職氷河期世代の浮沈は自助努力と自己責任の名のもとに進行したのであって、社会とその社会を主導した当時の年長者たちはそのことに頬かむりを決め込んでいた。現在もである。社会は、私たちの世代がやがて老いて死んでいくのを、息をひそめて待っているようにみえる。それともこれは私の思い込みすぎだろうか。
──熊代亨『ないことにされた世代のわたしたち』より

就職氷河期世代が若かりし時代は去った。時代と社会のの曲がり角において、公私ともに多くの人がうまくいかず、そのうまくいかないことを自己責任だと言われて後ろ指をさされた世代。00年代には「構造改革」や「成果主義」といった聞こえのよい言葉にデコレートされた自己責任の構図をみずから支持することもあった世代。そうした「私たちの世代」の記憶や出来事は、いつまで・どれだけ記憶されるだろうか。
 
たぶん、(色々な世代において)なかったことにしたい人は多かろうし、そんなものは目汚しだとして退けたい人も多かろう。だからこそ折に触れて振り返っておきたい。
 
80年代後半~00年代前半にかけて目立ったオタク差別についても同様だ。
オタク差別については「なかったこと」にするような言説が定期的に現れる。しかし、それは実際にあったことで、オタクという言葉がスティグマの権化だった時期は間違いなくあった。今日では、オタク史の歴史修正主義者だけが「なかったこと」にするようなことを言っているわけではない。当時を知らない人が「なかったこと」として語ってしまう場合もあるように見受けられるので、ああ、こういうのって風化されるんだなと私は思うようになった。
 
それからインターネット。かつて、IT企業経営コンサルタントの梅田望夫さんは『ウェブ進化論』等でweb2.0というビジョンを語った。
 

 
このweb2.0というビジョンは、2024年から見ると荒唐無稽な理想論にみえるかもしれない。しかし00年代のインターネットにはweb2.0的な状況が実際にあった(すべて、そのとおりとまではいかないにしても)。誰もが無料でアップロードし、誰もが無料でダウンロードする。どんな情報にもロングテールな需給関係が存在し、情報がマッチングされる。そんな状況だ。
 
ただし、当時のそれがユートピアかといったらそうでもない。違法ダウンロードや誹謗中傷をはじめ、法治の明かりの届かない側面や野蛮な側面もついてまわった。web2.0的なユートピアは、脱法や違法に支えられていたとも言える。そうしたひとつひとつの景色、出来事も、記録しておかなければ残らない。まして、自分自身が見た景色となれば尚更だ。テレビニュースになるような出来事は日本の正史として残るだろうが、そうでない出来事は風化し、忘れられていく。実際、あの時代に書かれたウェブの文物もかなりの部分が散逸してしまっているわけで。
 
 

正史を書く人たちに全部任せておけない

 
ところで、出来事を記述し、歴史を紡いでいくのはいったい誰なのか。
 
歴史的アーカイブの記述者として真っ先に思い出されるのは、報道としての新聞やテレビ局、そして歴史を編纂する学者たちだろう。そうした人々が残す歴史は正統なものだ。私たちがお願いしなくても、彼らは正統な歴史を紡いでいく。
 
しかし彼らの編纂から漏れてしまうもの、彼らが記録の対象としないものについてはこの限りではない。もっと言ってしまうと、彼らのパースペクティブから見て不要とされたものは正史とはならず、彼らのパースペクティブから見て必要とされたものだけが正史の一部をなしていく。彼らのフィルタを通過したものだけが正史となり、彼らのフィルタを通過しなかったものは正史にならない、とも言い換えられよう。
 
私には、それがちょっと寂しい。
正史が有資格者によって紡がれていく、もちろんそれは大切なことで信頼に値する。けれども正史を編纂する人々が不要とするものや残しにくいものは、忘れられるばかりだ。
 
たとえば就職氷河期前にしてもオタクにしても、東京の景色は正史に編纂されやすくもあろうけれども、たとえば日本海側の地方ではどうだったのかは正史にはあまり残るまい、と思う。なおかつ正史は、東京をはじめとする大都市圏に住み、大都市圏の社会通念や近代的自我をよく内面化した、いかにも近代人によって近代のディシプリンに従うかたちで──いわば近代人のインクで──記されるだろう。
 
対して田舎者が見聞きしたものは、そのほとんどが失われ、顧みられる機会も少ない。バブル景気のビフォーアフターについてもきっとそうだ。もとより田舎といっても色々あるから、田舎者が見聞きしたものを平均化してまとめることなどできはしない。それでも、これからも東京を中心に正史が編纂されていくのだとしたら、個人レベルのエッセイにぐらい、田舎者が見聞きした景色が残されてもいいんじゃないか、という思いがある。
 
 

速水健朗さんの『1973年に生まれて』との異同

 
また、過去半世紀ぐらいを振り返る本としては、ライター・編集者の速水健朗さんが『1973年に生まれて 団塊ジュニア世代の半世紀』という本を出している。
 

 
速水さんは私と同じ石川県の出身で、世代的にもかなり近く、取り扱っている時代も拙著とほぼ重なっている。でも、似ているのはそこまでだ。速水さんは同書のあとがきに「この世代の世代論は、ノスタルジーか残酷物語のどちらかである。そうではない本を書くことが本書の目的だが、そうなっただろうか。」と記していて、実際、『1973年に生まれて』という本はそのようにつくられている。情にあまり流されず、中立的な筆致で1970年代から現在までの出来事を追いかけたい人には『1973年に生まれて』をおすすめしたい。
 
でも拙著は後発だから、まったく同じ本をつくるわけにはいかないし、そうするつもりはなかった。
そもそも同じ石川県出身といっても、育った境遇はかなり違う。『1973年に生まれて』を読む限り、速水さんの生い立ちは転勤族的であり、核家族的でもある。私は、そこにゲゼルシャフト的な環境を連想したりもした。一方私は、昔ながらの地域共同体で生まれ育ち、ゲマインシャフト的な境遇のなかで生まれ育った。ちなみにゲゼルシャフトとゲマインシャフトは社会学者のテンニースが『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)』のなかで使った言葉で大雑把にイメージするなら【ゲゼルシャフト=契約社会的、ゲマインシャフト=地域共同体的・ムラ社会的】みたいな感じだ。
 
だから『ないことにされた世代のわたしたち』に記した私の記憶は、地域共同体の一員としての幼少期の記憶からスタートしている。地域生活だけでなく、バブル景気とその崩壊や、オタクに対する目線も、私はまず地域共同体の一員として・ not 東京的な田舎者としてそれを見聞きした。そこには当然、偏りがあるし、情念が含まれているしも、東京的なパースペクティブに基づいていない。でも、この本はそういう地方在住の人間からみた1980~2010年代を、記憶のままに記したから、登場する出来事は共通でも速水さんの本とは方向性が違っていると思う。
 
同じく、インターネットやオタクについても、あるいはプレ近代~近代~ポスト近代の精神性についても、私は自分の出自をかわさずに書くようにつとめた。そうすることで、東京的なパースペクティブとは違った読み物ができあがると信じていたからだ。速水さんの本と私の本は、そうしたわけで方向性がかなり違うため、『1973年に生まれて』をお読みになった人でも『ないことにされた世代のわたしたち』は違った風に読めるんじゃないかと想像しています。
 
 

10月4日の発売です

 
そんな、私のエッセイである『ないことにされた世代のわたしたち』は、来週10月4日の発売です。放っておくと忘れられそうな80~10年代の思い出が綴ってあります。ご興味ある人はどうぞ。