シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「おしゃべりは喫談室でどうぞ」の未来

 
子供が泣き出したら、隣の乗客が耳栓を... 「悲しくなった」母親の訴えに反響: J-CAST ニュース【全文表示】
【追記あり】子供の泣き声に耳栓されて心が折れた
 
 
最近、2018年にわずかに話題になったはてな匿名ダイアリーへの投稿についてのJ-CASTのニュース記事が目に飛び込んできた。2年前にも見た気がするが、当時はモヤモヤした気持ちを抱えながらも、スルーし、忘れてしまうことにした。
 
ところが2020年にふたたび相まみえてみると、あのとき自分が何をモヤモヤしていたのかわかる気がした。気の利いたことを書ける自信はないが、この「子供が泣き出したら、隣の乗客が耳栓をした」案件について今思うことを書いてみる。
 
 

正しいのは耳栓の乗客で、むしろ子連れの親が正しくないとしたら

 
いまどきの習慣や通念にもとづいてジャッジするなら、正しく振る舞ったのは耳栓の乗客のほうで、それについて母親が悲しいと思うのはもちろん構わないとしても、どうこう言う筋合いはないのだろう。実際、この母親は耳栓をした乗客に向かって直接にクレームをつけたわけではない。匿名ダイアリーに愚痴っただけの母親の振る舞いも、また正しい。
 
正しくて良かったですね。
 
「列車のなかでは他人に迷惑をかけてはいけない。お互いに迷惑をかけないことでお互いの自由が守られ、権利が侵害されずに済む」
「ましてや健康被害を他人に及ぼしてはいけない」
 
この、日本社会における金科玉条に照らして考えるなら、母親は悲しいなどと言っておらずにデッキに移動して子どもをあやすのが望ましかったかもしれない。申し訳なさそうな顔をしていればより完璧だ。そして子供連れで新幹線に乗る多くの母親が、実際そのように振る舞っている。
 
一方、耳栓をした乗客は最低限の動作で金科玉条を守ったといえる。お互いに迷惑をかけず、お互いの権利を侵害しない。それを耳栓をつける動作で実現したのだ。子どもの泣き声が癇に障る人も多かろうところを、彼女は耳栓を装着することで意に介さないことにした。舌打ちする乗客や、神経質な顔をする乗客よりもよほどいい。解釈のしようによっては「耳栓つけているからご自由にどうぞ、私にはストレスじゃありませんよ」というジェスチャーともとれる。
 
はてな匿名ダイアリーに投稿した人は、そのさまをこのように嘆いた。
 

彼女は悪くない。じゃあどうしてもらいたかったんだって、自分で考えてみたけど、「大丈夫ですよ」とか、あるいはニコッと笑ってくれるだけで良かったんだと思う。あの人にとっては、私も子供も「無」だった。私はいいけど、私の大切な子供も無、なんだ……と思って悲しくなったんだと思う。

このくだりを2020年に再読し、興味を感じた。
どうして無ではいけなかったのだろう。
 
きみたち日本人は、お互いに干渉しあわず、お互いに迷惑をかけあわず、お互いの自由が守られ権利が侵害されない社会を望んだんじゃなかったのかい?
 
そうした功利主義を守る冴えたやりかたが「相互無干渉」であり「儀礼的無関心」であり、「コミュニケーションしないで済ませる街づくり・社会づくり」ではなかったか。親切にされることがないかわりに、無用のコミュニケーションを強要されるリスクや、見知らぬ誰かと話さなければならないコスト、あるいはローカルルールに服従しなければならない理不尽を避けるために、私たちはバラバラになり、「お互いに迷惑をかけないことを金科玉条としたうえで接点をできるだけ持たない、快適でなめらかな社会」を作ってきたのが日本社会ではなかったか。
 
だから、筆者のいう「無」とは、現代の日本人が身に付けていることの望ましい、いや、身に付けていなければならない態度だし、筆者とて、出産するまではそれを良しとしてきたはずである。この、お互いが迷惑をかけないためにもお互いが「無」でなければならないという社会的ニーズに即していうなら、大きな声で泣く赤ちゃんは「無」ではなく、「有」であり、迷惑である。ストレスという観点から健康被害だ、などと言い出す人もいるかもしれない。杓子定規に「どちらが迷惑で」「どちらがお互いの権利の侵害を避けているか」という判定をするなら、子連れの母である筆者が「無」になりきれていないから悪い、という風になる。
 
もちろん私は、こうした現代日本ならではの功利主義的状況がおかしいと思っているから・皮肉に思っているからこれを書いている。子連れの親が公共交通機関や公共の場に出ると、子どもの泣き声や突発的行動などによって迷惑をかけ得るから、もうほとんど存在するだけで迷惑になり得る。個人的には「迷惑をおぶって歩いている」といった罪悪感をおぼえることさえあった。そして口さがない人はこういうのだ──「子ども連れが電車なんて乗ってるんじゃねぇ」「子どもは自動車で移動させろ」。
 
私はこうした子連れの親の境遇をひどいものだと思う。
しかし「お互いに迷惑をかけてはいけない」「ましてや健康被害を他人に及ぼしてはいけない」という現代日本の金科玉条に当てはめて考えると、子連れの親の側がむしろいけない、というより存在してはならないということになってしまう。
 
だとしたら、本当は金科玉条の側がおかしいか、少なくとも何か問題を含んでいる、はずである。
 
 

コロナ禍でエスカレートする功利主義と危害原理

 
ところがコロナ禍を経て、状況はますます窮屈になっている。
 
発声を巡って、マスクを巡って、ソーシャルディスタンスを巡って、私たちは2019年以前の私たちよりもずっと神経質に「お互いに迷惑をかけてはいけない」「ましてや健康被害を他人に及ぼしてはいけない」という金科玉条を気にするようになった。
 
「電車のなかでマスクをしていない人は健康被害を及ぼすかもしれない」
「ソーシャルディスタンスを守れない人は迷惑」
「咳しながら街に出てくるってのはどういう感覚なのか!」
 
コロナ禍をとおして、たくさんの人が他人に迷惑を及ぼすこと、他人に健康被害を及ぼすかもしれないことに敏感になっている。常識や通念がより健康でより迷惑をかけない方向に傾いてしまった。2019年までは神経質のきわみと思われていた人の振る舞いが、2020年においては功利主義と危害原理にかなった「新しい生活様式」にふさわしい振る舞いとみなされる。
 
もちろんそれは、新型コロナウイルスの蔓延を防ぐという大義に基づいている。
今はそれがプラスの方向にも働こう。
だが欧米諸国に比べると、その大義に基づいた「新しい生活様式」はスルリと日本社会に定着したようにみえる。そもそも、それ以前から日本は清潔大国であり健康王国であり「お互いに迷惑をかけてはいけない」が行き届いた国だった。そこにコロナ禍が到来した時、私たちはあっけらかんと社会の常識や通念をアップデートしてしまった。
 
「新しい生活様式」は新型コロナウイルス感染症だけでなくインフルエンザやかぜ症候群などの防備にも役に立つし、「お互いに迷惑をかけてはいけない」にもよく妥当するから、パンデミックが終わったとしても、ある程度は残るのではないかと私はみている。「迷惑をかけてはいけない」「健康被害を及ぼしてはいけない」という金科玉条に沿った変化である以上、これを覆すのは簡単ではないよう、思えるからだ。
 
 

行き着く先は「喫煙室」ならぬ「喫談室」

 
まだ新型コロナウイルス感染症が流行する前、twitterのどこかで「新幹線のなかで喋る奴は本当に迷惑だから、喋る時は喫談室に行って喋るべきだ、喫談室を用意しろ」といった内容のツイートを見かけたことがあった。
 
少なくとも新型コロナウイルス感染症が流行する前の時点では、「会話は喫談室で」などと言ったら、「なにを極端な、神経質すぎるだろう」と考える人のほうが多かったのではないだろうか。
 
しかし新型コロナウイルス感染症が流行した後の今では、「会話は喫談室で」に賛同する人は以前より増えているはずだ。なぜなら、会話が病原体を媒介することがよく知られ、町じゅうのどこでも会話に対する注意がアナウンスされているからだ。会話が迷惑とみなされる度合い、会話が健康被害をもたらすかもしれないと疑われる度合いが、2019年以前と2020年以後では違う。
 
となれば、私たちの行き着く先として、おしゃべりする人を「喫談室」に隔離し、迷惑で不健康なことを好んでやる自己責任な奴らとみる未来が来てもそれほど不自然ではないのではないだろうか。
 
かつて「喫煙室」が一般的ではなかった頃、「タバコは迷惑、タバコは健康被害」と主張したら「なにを極端な、神経質すぎるだろう」と考える人のほうが多かった。少なくとも、1980年に起こった嫌煙権訴訟で東京地裁が「列車での受動喫煙は受忍限度内」「日本社会が喫煙に寛容であることを前提にすべき」とし、訴えを棄却した程度には「タバコは迷惑、タバコは健康被害」は限定的な感覚だった。1980年の段階で嫌煙権を主張するのは、結構尖ったことではなかったかと思う。
 
同じく、2019年の段階で「会話は迷惑、会話は健康被害」と主張したら「なにを極端な、神経過ぎるだろう」と考える人のほうが多いに違いない。だがタバコと喫煙室の件が教えてくれるように、40年の歳月は私たちにとって迷惑とは何で、健康被害とは何かの判定基準を大きく変えてしまう。ある時代において神経質とみなされていた迷惑や健康に対する捉え方が、数十年後には疑う余地もない常識や通念になっていることはあり得る。
 
新型コロナウイルス感染症をとおして私たちは、話すということ・唾が飛ぶということに対して敏感になった。それが健康リスクをもたらす不潔な行為だと周知されればされるほど、しゃべるということ、唾が飛ぶということ、大勢で集まるということは、喫煙に近い立ち位置に寄っていく。極端な人なら、それらを不道徳でスキャンダラスな行為とみなすことだってあるかもしれない。
 
もちろん、本来人間はコミュニケーションする動物なのでしゃべるということは自然なことではある。だが、人間の文明化とは、本来の人間の行動や本能的な人間の行動を社会や文化にあわせて飼いならしていくものだったから、本来の人間の行動だからといって、話すということ・唾が飛ぶということが無条件で免罪されるとは言えない。
 
お互いに迷惑をかけないこと・他人に健康被害を与えないことの指し示す範囲は、時代や文化、社会的要請によって意外に変わる。そして変化はしばしば、神経質なほうへ・厳しいほうへと変わっていく。「おしゃべりは喫談室でどうぞ」という未来は私には極端に思えるが、20~40年後の人々が同じく極端だとみなすかどうかはわからない。少なくとも、迷惑と健康、功利主義と危害原理についての金科玉条が変わらない限り、そういう未来もあり得ると心得ておかなければならないように、私には思える。