シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

男性性欲が医療によって管理される未来

 
この文章は、先週twitterでつぶやいた話をブログ用に書き直したものだ。もっと長文でまとめてみたい、と思ったからだ。
 
 

「賢者タイムは生産的」→「というより、男性性欲のあれって認知や行動の障害では?」

 
「賢者タイム」というインターネットスラングをご存じだろうか。
 
賢者タイムとは、男性が射精後に性的関心がなくなり、冷静になっている状態を指す言葉だ。賢者タイムがあるということは、いわば愚者タイムとでもいうべき時間もあり、男性、とりわけ若い男性はしばしば、性欲や性衝動によって冷静さを失う。そして生産的でも合理的でもない行動、たとえば普段は欲しいとも思わないポルノグッズを衝動的に買ってしまったり、向こう見ずな行動をとってしまったりする。
 
だから若い男性のなかには、冷静さを取り戻すために、ほとんどそれが目的でマスターベーションを行う人すらいる。
 
「睾丸毒」というネットスラングも過去にはあった。これも、男性性欲によって男性の行動が影響を受けるさまを指す言葉で、「睾丸毒が溜まる」という言い回しもあったように思う。
 
こんな具合に、男性性欲は行動にしばしば影響を与え、その影響のなかには、悪影響と呼ばれてもおかしくないものも含まれる。関連して、女性との交流や女性への下心が男性の認知機能を低下させる、といった研究があったりする。
 
[参考]:Interacting with women can impair men’s cognitive functioning - ScienceDirect
[参考]:The Mere Anticipation of an Interaction with a Woman Can Impair Men’s Cognitive Performance
 
これらの研究結果に"身に覚えのある"男性は多いのではないだろうか。
 
男性は、自分自身の性欲によって認知や行動に大きな影響を受け、なかにはそれで人生をどぶに捨ててしまう人すらいる。悩みや苦しみを抱えていることも多い。
  
日本の精神医療の現場にはたまにしか浮かび上がってこないが、いちおうアメリカ精神医学会の診断基準(DSM-5)には「性機能不全群」というカテゴリが存在する。だがこれらは「性行為ができない・性行為が来ない」「性倒錯にとらわれ一般的な性機能が障害されている」といったもので、範疇的な男性性欲がたかぶった結果として認知や行動がグラつく事態を想定したものではない*1
 
他方、表の世間であまり話題になっていないけれども、男性性欲によって「さかりのついた猫」のようになってしまう状況や、本人自身の悩みや苦しみが深いことは結構ある。その程度が甚だしいもの・社会的影響や経済的損失の大きなものについては、月経前症候群(Premenstrual Syndrome : PMS)や月経前不快気分障害(premenstrual dysphoric disorder : PMDD)などと同じく治療の対象とみなされ、医療化、すなわち医療の対象とみなされる余地があるのではないだろうか。
 
 

人間ほんらいの機能なら「病気」にならない……とは限らない

 
(機能不全でも性倒錯でもない)男性性欲が医療の領分とみなされることに疑問や抵抗感をおぼえる人もいるだろう。
しかし医療の現状をみるに、私にはそうとは思えない。
 
さきに挙げた月経(いわゆる生理)も、ホモ・サピエンスの女性に備わった生理的機能のひとつだ*2。たとえ生理的機能でも、それが本人に苦しみをもたらしたり生産性を低下させたり認知や行動に影響が出たりするなら、PMSやPMDDのように"病気"として、治療の対象として扱われる。
 
なら同じロジックで、男性性欲によって本人が苦しんでいたり生産性を低下させたり認知や行動に影響が出たりするなら"病気"として、治療の対象として扱われたてもおかしくないのではないか?
 
発達障害にもそうした側面はある。
発達障害には遺伝的・生物学的な基盤があることはよく知られている。だがそもそも、(重症度の高い自閉症などを除いた)大半の発達障害は20世紀後半になるまで診断と治療の対象になっていなかった。それは診断や治療の方法が乏しかったというより、診断や治療をしなければならない社会的ニーズが乏しかったからだ。
 
今日において発達障害と診断されている人の相当部分は、20世紀初頭や19世紀以前において「正常(または定型発達)」とみなされてもおかしくない人たちだったし、多様なホモ・サピエンスの成員にはそういう人たちがたくさん含まれていて、そのことに違和感を持つ人はいなかった。発達障害の遺伝的・生物学的基盤も、発達障害が"病気"としてクローズアップされるまではホモ・サピエンスの遺伝的ばらつきのひとつでしかなかったし、そうしたばらつきを人々が持っていること、そうしたばらつきを持った人も込みで社会が構成されていることは当然だった。
 


 
だから「ホモ・サピエンスのほんらいの機能」だからといって"病気"と呼ばれないとは限らない。人間の生理的機能でも、その時代・その社会にフィットしないものなら医療の対象とみなされることはぜんぜんあり得る。この点において、男性性欲が例外とみなされる理由は見つからない。
 
 

男性性欲の医療化が進む生物学的・政治的正当性を考える

 
なにかが医療のターゲットになること──医療化──が起こるのはいったいどういう時なのか。医療社会学者のピーター・コンラートは、著書『逸脱と医療化』のなかで医療化が起こる条件について以下のように記している。
 
 

医療業務は、新しい医療的規範の創出へと通じており、その侵害は逸脱、あるいはわれわれが示した事例では、新しい病いのカテゴリーとなる。このことによって、医療あるいは一部門の管轄権が拡大され、病いという逸脱の医療的治療が正統化される。19世紀における狂気の定義に際しての医療的関与の社会学的分析(Schull, 1975)と、最近の多動症(Conrad, 1975)と児童虐待(Pfohl, 1977)に対する医療的定義の事例は、特定の逸脱定義に対して医療職が唱道者となった主要な例である。
(中略)
ある行動や活動もしくは状態を逸脱として定義する決定は、逸脱カテゴリーを付与し、その付与行為をその後正統化する政治的な過程から出現する。そして多くの場合、医療的認定の結果も、特に人間の行動に関する場合は、同様に政治的である。

大雑把にまとめると、「医療者が新たに健康からの逸脱として発見し、啓蒙し、その生物学的・政治的な正当性を見出したものが医療化される」、となるだろうか。
 
このうち、生物学的正当性については、エビデンスが見つかれば良さそうだが、たぶん探せば見つかるだろう。
 
世の中には性欲のセルフコントロールが上手な男性もいるし、性欲に振り回されやすい男性や性欲に苦しむ度合いの高い男性もいる。性欲とそのセルフコントロールの度合いには個人差があり、いわばスペクトラム的な分布があるから、性欲に振り回される度合いの高い男性たちに有意差をもって見出される遺伝的・生物学的な特徴は(ASDやADHDやゲーム障害に関連した特徴、またはII型糖尿病に関連したポリジーンのようなかたちで)見つかるだろう。
 
 
では、政治的正当性についてはどうか。
 
私は、これほど男性性欲が医療化するための政治的正当性が揃っている時代は、いまだかつて無かったのではないかと考えている。
 
1.第一に男性性欲は不潔である。なぜならそれがもたらす性行動や性探索は性感染症を媒介するし、夜の街では新型コロナウイルスなどを媒介するからだ。「たとえ生殖器をとおさなくとも、体液の交換が起こり得るような状況のコミュニケーションは感染症を媒介する、いわば不潔な行為である」という認識は、もはや医療関係者だけのものではない。
 
2.第二に男性性欲は非生産的である。冒頭で紹介した「賢者タイム」や「睾丸毒」といったネットスラングが示しているように、男性、とりわけ若い男性は性欲によって認知や行動に影響を受けやすい。ある程度社会経験を重ねた男性でさえ、性欲が仇となり、キャリアを台無しにしてしまうことがある。そして現代社会において生産性は拝跪すべき目標でもある。「みずからの性欲に悩む男性の問題を医学的に管理すれば、社会全体の生産性は○○億ドル向上する」と判明した時、医学界と産業界は大喜びで医療化を応援するだろう。苦しみを減らし、生産性を向上させるオポチュニティーは現代社会において強い正当性を持つ。
 
3.第三に男性性欲は迷惑である。
男性性欲に傷つく人がいる。男性性欲を不快に、それそのものを不潔と感じる人がいる。なるほど、性欲で男性の認知や行動がブレること自体は実際あるのだから、誇張したイメージとして「何をしでかすかわからないケダモノ」を連想する向きはあるだろう。「お互いに迷惑を与えてはいけない」「お互いに脅威を与えてはいけない」という、日本ならではの功利主義的状況のなかで、男性性欲には居場所が無い。学校や職場や家庭でソレが露出した時には、公然わいせつほどではないにせよ、たくさんの人が当惑し、持てあます。脅威とうつることだってあるだろう。
 


 
正しい場所で・正しい時に・正しい手続きで・正しい相手にだけ性欲があらわれるよう、男性性欲をコントロールできるに越したことはない──自分自身の性欲を後生大事にしている一部の男性を除いて、みんながそう思っているのではないだろうか。
 
4.第四に男性性欲は不道徳である。
100年以上前のキリスト教世界の人々は、マスターベーションや性倒錯は罪であると言った。当時は性がほとんど医療化されていなかったが、かわりにキリスト教が性道徳を厳しく管理していた。
 
20世紀後半に一時的に緩んだものの、現在の日本もまた(かつてのキリスト教世界とは異なるかたちで)性道徳が厳しくなり、性のタブー視が進んでいるのではないだろうか。親や教師は子どもの性教育や性行動を持て余し、社会もまた、猥褻なものを少しずつ社会の辺縁へと押しやってきた。低用量ピルもいまだ普及しているとは言えない。性的なコンテンツこそ豊富にあるものの、それらの社会的位置づけは貶められているに等しい。猥談は笑って済ませるものではなく、ハラスメントとして告発されるものとなっている。かつては「不倫は文化」などと言っている芸能人もいたが、2020年に同じことを言えば、その芸能人は不道徳とみなされ社会的制裁を受けるだろう。
 
そしてキリスト教道徳に替わって私たちの道徳判断の基準になっているのは、資本(主義)とそれを追求するための効率性や生産性だ*3。効率性や生産性の乏しい人や行動に対し、社会は、人々は、厳しい目を向ける。生産性を低下させるたぐいの男性性欲は、効率性や生産性の道徳基準からみて正しくない欲求、矯正しなければならない欲求である。
 
 

健康的で清潔で道徳的な社会に男性性欲の居場所なし

 
こうやって振り返ってみると、男性性欲のうち、少なくとも個人や社会の効率性や生産性に悪影響をおよぼし、本人や周囲が苦しむものに関しては、医療による治療や管理の対象になっていく可能性は十分にあるように思える。なぜ今まで医療化の標的とみなされていなかったのか、不思議に思えることさえある。
 
ではなぜ、男性性欲が医療化されてこなかったのか?
 
ひとつには、男性性欲に衝き動かされる行動が過去には好ましいとみなされていたからでもあろう。
 

 
アラン・コルバンらによる大著『男らしさの歴史』には、今日の日本でなら犯罪や迷惑やハラスメントとみなされるだろう性的な振る舞いが、男性にとって望ましいとされてきた歴史が綴られている。そうでなくても、近代以前の性風俗は現代よりおおらかで、猥談や性的接触が街や村にあふれていた。そのような社会状況のなかでは、みずからの性的機能をアピールできない男性は男らしくないとみなされかねず、沽券にかかわる問題だった。
 
もうひとつ、医療や道徳を司る立場を長らく男性が独占したことに伴って、男性性欲が管理や道徳のまなざしを免除されていた、という一面もあるのではないかと個人的には思う。
 
 
上掲ツイートにあるように、男性は、女性の生殖や性欲を管理してきた。はじめは腕力や宗教や道徳で。現代では医療によって。他方、男性自身に対しては男性性欲の奔放さを許容してきた。もちろん「男性性欲に奔放さが許容されてきたこと」と、「男性が異性獲得競争に勝たなければならなかったこと」や「男性が性的機能をアピールしなければならなかったこと」は表裏一体の問題ではある。いずれにせよ、男性性欲を管理の対象とする歴史は、女性の生殖や性欲を管理の対象とする歴史に比べれば短く、ここには不平等が潜在している。
 
だとすれば、たとえば女性目線で男性性欲を腑分けすることによって、これまでは議論されてこなかった男性性欲の問題、管理されるべき問題が詳らかになることだってあり得るのではないだろうか。男性自身は気づきにくいが女性ならば気付き得る、男性性欲に伴う認知や行動の歪みはあるように思う。それはまだまだ研究されていないし、管理されてもいない。健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会にふさわしい男性性欲のテンプレートは、女性からの目線によって彫琢されていくのではないだろうか。
 
そうやって男性性欲が検証され、研究され、それに伴う認知や行動の歪みがマネジメントされ、男性自身の苦しみが解消されれば、男性はより生産的で合理的な個人へ、より正しい個人へと生まれ変われるだろう。すべての男性が、女性や子どもからみても安心できる男性、迷惑や脅威や不快感を与えない男性になるとしたら、それはハーモニーにみちた、すばらしい新世界ではないだろうか。
 
それだけではない。男性性欲にともなう認知や行動の歪みを検証・研究し、苦しんでいる男性に手を差し伸べた医療者は、プレステージを獲得し、学界的ポジションをも獲得するだろう。製薬会社は利益を、社会は生産的で効率的な男性労働者とGDPを得る。男性性欲を医療化してしまったほうがみんなが得をするし、みんなが道徳的になれるのだ。自分自身の男性性欲を後生大事にしているような、時代遅れの一部の男性以外の皆が、この変化から恩恵を受け取り、恩義を感じることだろう。
 
だとしたら、男性性欲は、いまだ手付かずのままの金鉱脈ではないか?
 
考察を続けるうちに、私は、男性性欲に悩む男性に救いの手をさしのべ、社会の生産性を高め、より安全・安心で道徳的な社会を主導する唱道者になりたいものだ、という誘惑をおぼえた。誰からも感謝され、どこからみても正当性を獲得できそうな、そういう金鉱脈が目の前で無防備な姿をさらしているのではないか。悪魔が、もとい天使が"『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』みたいな本を書くより、悩んでいる男性を救うために、社会の生産性や効率性に貢献するためにあなたも奉仕してはどうですか"と耳元で囁いている気がする。
 
もちろん最後のほうはジョークの類なのであしからず。
だが私よりもこの問題をよく知り、私よりも社会に貢献したくてウズウズしている誰かがいれば、きっと男性性欲は医療化されていく。そして歴史を振り返る限り、そういう誰かは必ず出てくる。
 
  

*1:性嗜癖、いわば調子が悪かった頃のタイガー・ウッズが陥った状態はこれにいくらか似ているが、これも現時点ではDSM-5の性機能不全群に含まれていない

*2:実際には、新石器時代の女性はもっと妊娠や授乳に人生の多くを費やしていて月経が起こる頻度が少なかった、という話もある。もっともその場合、妊娠や授乳を繰り返すことに伴って別種の身体的問題が女性について回っただろう

*3:マックス・ヴェーバー『プロ倫』風に考えると、資本主義的道徳とキリスト教道徳は繋がっているわけで、深堀りすると楽しいのだが、ここでは踏み込まない