シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

適切な言葉遣いは、身を助ける防具にも敵を排除する武器にもなる

 
blog.tinect.jp
 
上掲リンク先の文章は「適切な言葉遣い」の重要性について書かれたものだ。混同しそうな言葉のひとつひとつを丁寧に、面倒くさがらず、厳密に選択していく必要性が経験談とともに紹介されている。
 

だが上司は、非常に言葉にうるさかった。
例えば「問題」と「課題」のちがい。
これは専用のテキストまであり、「絶対に混同して使うな」と教えられた。
これはのちに、小難しい議論を好む人ほど
「問題」じゃない、「課題」だ
と強く主張することが結構多く、「厳密に教えてもらっていてよかった」と強く思った。
 
あるいは「失敗」と言うな、「成長ネタ」と言いなさい、とも言われた。
正直なところ、「馬鹿馬鹿しい」と最初は思った。
 
小学生じゃあるまいし、「失敗」と言って何が悪い、と。
 
しかし、「失敗」の発表の場で、誰が発表したいと思うだろうか。
社長が「成長ネタ」を披露してください、とコンサルタントに言い、事例の共有がなされるにつれ、「成長ネタ」という言葉が、心理的安全性を作っていることに、やがて気づいた。

「問題」か「課題」か。
「失敗」か「成長ネタ」か。
「失敗」を「成長ネタ」と言い換えるのは大同小異かもしれないが、その失敗を聞く側の心証はそれなり違う。違いがクライアントとの関係に影響するとしたら、適切な言葉遣いもコンサルタント業の資質のひとつ、ということになる。
 
こうしたことは、メールを書く時や報告書を提出する時にもついてまわる。だいたい同じ意味だからと雑に書くのと、適切な言葉遣いを心がけて書くのでは、読み手の心証は変わる。誤解なく文意が伝わるかどうかも変わるだろう。それこそ、支配を保護と呼び、搾取を競争と言い換えることで浮かぶ瀬もあるだろう。適切な言葉遣いが求められるのは、face to face なコミュニケーション場面ばかりではない。
 
 

「適切な言葉遣い」は、業種や公私を問わず求められている

 
こうした適切な言葉遣いが最も期待され、重要な資質とみなされるのは、なんといっても冒頭リンク先にあったコンサルタント業のような職域の人だとは思う。次いで、報告書や書類をたくさん書かなければならない職業、たとえば管理職や教員や公務員などにも求められがちだ。総じて、こうした技術はホワイトカラーの職域で重宝され、身に付けるのが望ましいとされてきた。
 
しかし実際には、適切な言葉遣いはもっと広い職域で期待されている。
たとえば営業職の人が雑な言葉遣いをしていたら、成約できるはずだった成約も取り逃してしまうだろう。宿泊業や観光業の従業員もそうだ。ちょっとした言葉違いによって、お客さんに喜ばれる確率や嫌がられる確率は変わり得る。その他の職域でも、同僚との会話で悪い印象を与えないために、上司への報告で良い印象を与えるために、それぞれふさわしい言葉遣いがある。不適切な言葉遣いが余計な摩擦や反感を買い、適切な言葉遣いが調和や協力を招く以上、誰しも、適切な言葉遣いを心がけたほうが働きやすいだろう。
 
適切な言葉遣いの出来不出来は、私生活のコミュニケーションの成否や、人間関係の帰趨にも少なからず影響する。新学期で人間関係がスタートする時、好意を獲得しやすいか、敵意を避けやすいかは言葉遣いによって左右される。それができる人とできない人のギャップは、時間とともに埋めがたくなっていく。
 
コミュニケーションが苦手だという人をよくよく観察すると、容姿の面で何か大きなハンディがある人は実はそれほど多くない。適切な言葉遣いができず、無用の反感や敵意を買ってしまっている、そういうハンディのほうが実際には多かったりするのである。
 
人間関係ができあがった後も、言葉遣いは影響を及ぼし続ける。
 
夫婦になった男女が、いつも雑な言葉を応酬しているのと、相手がどう受け取るのかをよく考えた言葉を応酬しているのでは、夫婦間の誤解やわだかまりが蓄積していく度合いはかなり違うだろう。カップルや友達関係の場合もそうだ。
 
こんな具合に、適切な言葉遣いはいつでもどこでも求められる。これができればあらゆるコミュニケーションに成功裏に進みやすくなり、これができなければあらゆるコミュニケーションが失敗しやすくなるーーということはだ、私たちにとって、適切な言葉遣いとはものすごくプラグマティックな渡世の技術ではないだろうか。
 
「たかが言葉遣い、言葉遊びに過ぎない」などと侮っている人は、考えを改めたほうがいい。雑に言葉を吐き出すそのたび、適切に言葉を選んでいる人よりも失敗しやすいコミュニケーションの橋を渡っているも同然である。言葉遣いの雑さに無頓着な人は、いわば、ハンディを背負ったまま渡世をやっているに等しい。
 
 

適切な言葉遣いを用いれば、排除すらいじめ未満になる

 
また、適切な言葉遣いは、自分の身を助けるために用いられるばかりではない、と思う。
 
「どうぞごゆっくり」「おしゃれさん」「まじめで好印象」──こういった、本来は他人を歓待したり肯定したりするレトリックを用いて、他人を揶揄したり嫌悪感を表明したりするテクニックがある。俗に京都ことばとして紹介される"ブブ漬けを出す"の日常版というか、表向きは歓待や肯定のようにみえるが、しばらく考えてみるとそうではない表現、わかっている人にはそうではないとわかる表現、メタメッセージとして異なる含みを持たせている表現を、私は時々みかける*1
 
レトリックの魔法は、そうした本来の語義とは正反対のニュアンスを、話者が不道徳な体裁にならないかたちで伝えることを可能にする。最もエレガントに機能する時、それは語り手と聞き手の両方の気持ちを救うことになるが、最も陰険に機能する時、それは語り手が不道徳を回避することを許しつつ、聞き手が一方的に落胆し、しかも言い返すのが非常に困難な状況を作り出す。
 
で、世の中にはそういうレトリック運びの上手い人が結構いたりする。
 
たとえば学校において、適切な言葉遣いを使いこなせる早熟な生徒は、口は悪いけれども気の良い生徒に対し、いじめだと謗られることなく意地悪な意志表明をしたり、圧力をかけたり、排除の包囲網を形成(しようと思えば)できる。もし、そのプロセスの途上でアクシデントが起こり、いじめの事例として浮上する場合も、十分に賢い生徒は適切な言葉遣いによって「いじめ被害者」の側に回るだろう。
 
というより、いじめを摘発しようとする現代の学校システムを知悉し、それに最適な言葉遣いを心がけられる生徒にとって、いじめとは、自分が加害者になってしまうおそれの高いものではなく、誰かを加害者として貶めることのできる機会にすら、なり得るのではないだろうか。そうした転倒を可能にしてしまうのが、適切な言葉遣いではないかとここでは言いたいわけである。
 
だから私は、自分以上に適切な言葉遣いで、花束のようなコミュニケーションを常としている人に、好感と怖れの両方の気持ちを持たずにいられない。気が付かないうちにそうしたレトリックの術中に嵌っているかもしれないし、実際、あとになってメタメッセージに気付いてうろたえてしまうこともある。でもって本当に手ごわい相手は、後でメタメッセージに気付いてうろたえてしまうことまで織り込み済みで丁寧な言葉遣いで怖いことをいう。中年となった今に至るまで、私はコミュニケーション能力を獲得したいと願い続けてきたが、天然のレトリックの達人たちには、こうした点でまったく敵わない。
 
法治が広く行き渡り、腕力によるコミュニケーションが否定され、言葉によるコミュニケーションこそが本道とみなされる世の中になったことで、適切な言葉遣いは、武器としても防具としても重要性を増していると思う。言い換えれば、令和の日本社会は適切な言葉遣いの有用性が跳ね上がった社会、レトリック巧者が有利を取りやすくなった社会だとも言える。こうした状況がこれからも長く続くとしたら、レトリックを巡る万人の万人に対する闘争はますますインフレし、後発世代は私たちより巧みに報告書を書き、巧みに自己弁護し、巧みに圧力や排除をやってのけるようになるのかもしれない。
 
 

*1:また、そうやって体よくあしらわれていると気付いたり、メタメッセージレベルでさっさと帰れと言われていることに気付いたりする