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冒頭リンク先の文章は、結婚や子育てをするでなく、仕事→給料→趣味という生活のうちに自己実現が欠如している、その実存的悩みを吐露したものだ。
文中から察するに、結婚や子育てが自己実現の一環をなし、実存的な悩みを解決してくれるような期待が仄見えるし、それは結婚や子育てをしていない人に起こりやすい期待かもしれない。その一方、世の中には結婚や子育てが自己実現の一環をなさず、承認欲求や所属欲求を獲得する糸口にすらならず、重荷になっている人もいる。
だからこの文章の重心は自己実現とその欠如、自分のためにでなく誰かのために生きざるを得ない(または生かされている)ことの虚しさや交換可能っぽさやBOTっぽさ、なのだろうと受け取った。
こうした問いかけに、ポジティブな回答を提供するのも不可能ではない。実際、ついているはてなブックマークコメントをみれば様々な考えが述べられていて興味深い。たくさんの人が、さまざまな方法でこの問いの答えらしきものを書いている。なかには実践できるものもあるように思う。
でも、今日の私はそういう気分ではなく、逆に、私たちのBOTっぽさのぬぐいがたさ、脱出不能っぽさを強調したい。
自己実現などマズローの蜃気楼でしかなく、私たちは茫漠とした肉BOTの世界を生きて、生きさせられて、生産させられて、多少の境遇差はあっても大同小異の域を出ないのではないか、と私は言いたがっているらしい。仕方ないじゃないか、という思いと、それでいいんだよ、それがいいんだよ、という思いもある。否定したい思いと、肯定したい思いが相半ばするような気持ちを、まとめられないものだろうか。
自己実現は馬を走らせる幻の人参ではないか
まず自己実現、という言葉の定義について。マズローは自己実現について厳密な定義づけはしていないが、おおよそ、以下のような理解で良いのではないかと思われる。
自己実現した人の定義はいぜんとして曖昧であったが、マズローは大まかに次のように記述した。
「自己実現とは、才能・能力・可能性の使用と開発である。そのような人々は、自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる」。
消極的な基準としては、心理的問題・神経症あるいは精神病への傾向をもたないことがあげられた。自己実現した人は、人類の中の最良の見本、マズローが後に「成長している先端」と名付けられるようになったものの典型である。
『マズローの心理学』より
この成長している先端とは、たとえば研究やスポーツなどといったなんらかの分野で先端的技能や先端的業績に辿りつき、さらなる高みを目指している人がそれにあたると思われる。まず、これが難しく、達成したとしても人の一生のなかで先端に居続けること自体が難しい。稀にそうした人生もあるかもしれないが、おおよそ、凡夫が目指せる境地ではない。各方面の秀才ですら、たいていは一時的にしか達成できない状態だろう。
"自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる"、というフレーズも厄介だ。この条件を満たすためには、他人と比較して嫉妬するようなキョロキョロしたところがあってはいけない。本当は自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のこととしてしがないサラリーマンをしている人でも、他人と比較して嫉妬してしまい、自分はもっと伸びたのではないか、などと羨んでいてはこの条件には該当しなくなってしまう。*1
まあそれでも一時的にしても自己実現にたどり着いたとしよう。
で、置き換え可能なBOT感がなくなったと本当に言えるのだろうか?
自己実現について考えた時、私は、マズローの心理学が産業界に受け入れられ、例の、マズローの欲求段階説ピラミッドが今日でもまだ引用されていることに思わずにいられない。欲求段階説のピラミッドが古い古いと誹りを受けてもなお、繰り返し引用されているのは、産業界との親和性が高いこと、労働者や実業家が生産効率を向上させていくのに都合の良い言説だったからでもある。ドラッカーなどもそうだが、産業界がたびたび引っ張ってくる啓発的な言説は、どれほど人間の可能性を謳っているようにみえても、それは資本主義に適合する詩であり、生産性や効率性に貢献する社畜の歌である。ここでいう社畜とは、文字通り会社の家畜という意味だけでなく、社会の家畜という意味を含んでいると付言しておく。労働者は会社の家畜をとおして社会の家畜をやっているし、資本家や経営者はもっと大きな規模で社会の家畜をやっている。いずれにせよ、マズローやドラッカーのいざなう理想には、資本主義のユニバーサルタグがついている。
自己実現。至高体験。
しないよりはしてみたいかもしれない。だけど、それらもまた、生産性や効率性を至上命題とする資本主義の、そして現代社会の掌の上でのワンシーンに過ぎず、レアで、一過性に過ぎないものでしかない。なにより、そうした自己実現や至高体験は、ちょっと深く考えてみれば、別に自分がそうならなくっても構わないことでもあったはずなのだ。たとえば蒸気機関のワットやiPhoneのジョブズはそれぞれにたいした人だとは思うけれども、ワットやジョブズがいなくても蒸気機関やiPhoneに相当するものはやはり世の中に現れただろう。よほどの例外を除いて、偉人や有名人すら置き換え可能なBOTではなかったか。椅子取りゲームのユニットではなかったか。芸能人や研究者はどこまで唯一無二だろう。世の中には、自分自身のことを唯一無二だと思い込めている幸福な人もいる。が、その人がいないならいないで、ほんの少しだけ運の悪かった同僚やほんの少しだけ間に合わなかった後輩がその位置を占めていたはずなのだ。
自己実現できていない会社員って置き換え可能なbotでしかないわなぁ。むなしくなる。
無私な毎日だわな、ほんと。宇宙人が見たら、あまりの規則性に驚くと思う。人間がアリの習性に驚くように。
だから、かりに自己実現したとしても、そんなのは、ちょっと珍しい役割を引き受けた働きアリの一匹でしかないのではないだろうか。
今日の発明発見や創作の相当広い領域は、大局的にみれば、一人で作っているというよりみんなでつくっているのであり、時代がつくっているのでもあり、自分がやらなくても誰かが似たようなものを創りだす可能性が高い、そんな何かだ。そのうえグループによる研究や創作もあるわけだから、自分、というものに拘って発明発見や創作を見つめるのは、自己愛を充たすには適していても、事実からは遠い。そうした諸々を承知のうえで、それでも何かに挑む、何かを創るという行為には喜びが、フロー体験が伴うとは言える。文脈によっては、私はそのフロー体験をありがたがってみることもあるのだけど、今日はそういう気分じゃない。脳汁が出てるだけじゃねえか。ずっと出ているわけでもなし。唯一無二の脳汁であるわけでもなし。
自己実現も含め、希少で、ありがたいものを夢見て、結局、目の前にぶら下げられた幻想の人参に向かってダッシュし、生産性や効率性を搾り取られて社会のネズミ車を回しているのが私たちなのだから、どこまで行っても社会の掌の上でしかない。そして社会の内部において私たちは常に群体であり、その生態は、ギトギトの個人主義者が思い込んでいるほど個人主義にそぐうものではない、と私なら思う。
アリの一匹として、社会の細胞のひとつとして、ただ生きる
それらを踏まえたうえで、私たちが生きて暮らすとは、一体どういうことなのか見つめ直してみる。
私たちはしばしば、取り換え不可能な社会関係やかけがえのない活動をとおして、実存を、自分が生きる意味や生きがいを見出す。
承認欲求や所属欲求を馬鹿にしつつも、それらを心の支えに生きていたりもする。
きっと、そのほうがメンタルヘルスにも良いだろうし、個人主義的イデオロギーにも、資本主義的要請にもかなっていよう。
だからそういう思い込みが可能で、しかもメンテナンスできる人はとても幸せな人ではある。冒頭のはてな匿名ダイアリーを書いた人が夢見ている正解とは、結局、こういった「実存があると思い込めて、承認や所属の欲求にももたれかかっていられて、しかも、それをメンテナンスできる人」なのかもしれない。
が、本当じゃないな、とも思う。
人はもっとバラバラで、思い通りにならず、家族や子どもをとおして獲得できるアイデンティティとて一過性でしかない。自己実現だのフロー体験だのは、なおさらだ。賢者タイムみたいなもの。それか、衰退の約束された有頂天のようなものだ。
そうやって心細く、思い通りにならない生に生まれてしまって、管理のなかで生きて、管理を内面化して、よく学びよく働きよく年を取っていく世のならいを漫然と受け入れながら、それでも生きていく、生きざるを得ないのが人間の実態であると今日の私は特に思う。「そういう一面が人間の生にはついてまわる」と、トーンを下げて言い直すべきかもしれないが。
人間は生きている限り苦しく、空しく、なんのために生きているのかよくわからない境地にあり、思いつきと思い込みと偶発的才能によって時々自己実現や実存を幻想することはできても、それらも無常でしかないので結局ダラダラ生きて生かされているのだと思う。じゃあ安楽死? それを決めるのも社会であり制度であり、たぶん、資本主義も含めた体制ですよね。我々が決めていいものじゃない。でもって体制はたぶん、ロボットのように働けちゃう私たちに容易く安楽死の門はくぐらせないだろうし、安楽死しようよではなく、もっと楽しく生きようよとか、もっとポジティブに生きようよとか、もっとあなたらしく生きようよとか、声をかけ、支援を促すだろう。言い換えれば、ロボットのように働けちゃう私たちはもっと楽しく生きなければならないし、もっとポジティブに生きなければならないし、もっとあなたらしく生きなければならない、のだと思う。少なくとも、そういう読み換えは可能だ。
だから本当はアリのように、社会の細胞のひとつとして生きなければならない私たちにせいぜいできることは、せいぜい趣味や余暇を楽しんだり、家族や友人も含めた社会関係などをとおして実存を幻想したり、それぐらいのものだと思う。それぐらいのものだ、と書いたらたいしたことないように思えるかもしれないけれども、一匹一匹のアリである私たちにとって、案外それが重要だったりする。くだらないことに入れ込んだり、お笑い芸人に楽しませてもらったり、プロ野球やプロサッカーの結果に一喜一憂する、そういうひとつひとつだって、案外生きることの肝心な要素たり得るのではないだろうか。
と同時に、私たちにせいぜいできることは、私たちがせいぜいできなければならないことでもある。趣味や余暇は、仕事と同じく、ロボットとしての人間やアリとしての人間ができなければならないこと、そう言って語弊があるなら、できていることが望ましいことだ。私たちが社会に趣味や余暇を求めると同時に、社会は私たちに趣味や余暇を求めている。そういうものとして、私たちは、生きて、生産して、消費しなければならない。こう書くと人間はなにやら悲惨で悲観的で重たいもののように感じられるかもしれない。けれども体も心もよく訓練された現代人は、こうしたことを空気を吸うようにやってみせる。そして私には生きがいがあります、実存がありますと進んで証言してくれたりもする。よくできた現代人とは、そのようなものかもしれない。
オーライ(なにが?)。
冒頭リンク先の筆者のように、それか今日の私の気分のように、人はときに迷ったり嘆いたりする。ロボットのような生、アリのような生、社会から期待され資本主義的体制に最適化された生に対して、ふと、素面になってしまう瞬間がある。幻想の人参を取り戻さなければならない。ロボットのような生やアリのような生に実存の覆いをかぶせ、現代人らしく生きてみせるのだ。本当によくできたBOTは、実存について悩んだりはしない。
*1:マズローは、持論の適用できる範囲から神経症~精神病の傾向を持つ人を外しているので、他人と比較して嫉視するようなところのある人間は適用外、ということになるのかもしれない。ちなみにここでいう神経症にしても、マズローのいうそれはICD-10のF4圏などと比較すれば広範囲をカバーしており、精神科や心療内科を受診していない者が広く含まれると想定すべきだろう。マズローは神経症かどうかの判定を概ねホーナイに委ねているので、ホーナイの神経症的人間、神経症的人格が参照先となり、ならば、明らかにサブクリニカルな層を含んでいる。で、話は戻るが、SNSの時代、あまりにも他人が見えてしまう現代において、ここでいう神経症的人間にならずに生きるとは……どれぐらい簡単だろうか? 今日の生育環境で神経症的人間たらずに済む与件とはどのようなものだろう? 結構難しそうに思える。