シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

キリトとアスナの新婚生活は現在のオンラインゲームでも可能か

 

 
2020年代になって『ソードアートオンライン』も遠い昔の作品、ライトノベルの古典に思えるようになった。で、同世代のオタクな人と会話になった時に、「今、オンラインゲーム(特にMMO)をやっている若い人は『ソードアートオンライン』みたいな夢がみられるか」といった話になった。
 
なんていうか、『ソードアートオンライン』の一巻でキリトとアスナが新婚さんみたいな生活をゲームの向こう側で実現していた、ああいう夢を見ることって今のオンラインゲームのプレイヤーに可能なのか、そこまでいかなくても「現実の向こう側」を夢見て楽しめているのか、みたいなことが気になったのだった。
 
 

00年代のオンラインゲームは「現実の向こう側」ではなかったか

 
『ソードアートオンライン』を知らない人向けに断っておくと、同作は00年代前半から連載され、10年代に入ってとりわけ広く知られるようになった。ゲームの仮想世界に完全没入できる装置が開発され、新しいオンラインゲーム「ソードアートオンライン」を始めた主人公たちが、諸々の事情でゲームからログアウトできなくなり、仮想世界のなかで生き延びなければならなくなり、脱出するまでにさまざまな物語が展開される。それが『ソードアートオンライン』の最初の物語だった。
 
この作品の魅力はたくさんあり、それらを列挙していてはきりがない。けれども魅力のひとつとして「オンラインゲームの向こう側の世界に行く夢」「現実ではないゲームの世界に没入し、そこで冒険をして、人間模様もあって、恋だってする」といったものがあったように思う。作中で「ソードアートオンライン」の攻略が終わり、登場人物がオフラインでも集まれるようになってからは違った魅力も出てくるのだけど、少なくともはじめのほうは「完全にゲームの向こう側に行っていること」そのものがひとつの夢物語だったと記憶している。
 
そうした「ゲームの向こう側」の夢は『ソードアートオンライン』の序盤の魅力であると同時に、往時のオンラインゲームプレイヤーが夢見たものでもなかっただろうか。
 
ウルティマオンライン、ファンタシースターオンライン、リネージュ、ファイナルファンタジー11、ラグナロクオンライン、等々。
 
色々なオンラインゲームがあったけれども、それらに接続し、仮想世界で職業をこなし、人間関係をつくっていくのはまさに「ゲームの向こう側」に行くことだった。オフ会で集まるようになると話が少し変わってくるのだけど、実のところ、オフ会だって「ゲームの向こう側の、そのまた向こう側」といった感じで、ゲームの世界は現実の延長線とみられるよりも、現実とは違ったどこかだった。
 
そういう意味では、当時、オンラインゲーム依存を槍玉にあげていた人々が「現実逃避だ」と言っていたのは当たっている部分もあったように思う。実際、サーバに接続しディスプレイの向こう側に夢見ていたのは、たとえば現実で四苦八苦している人でもゲームのなかでは活躍できる世界であり、力や美しさを獲得できる世界でもあった。少なくとも現実と地続きの世界としてオンラインゲームをやっている人は滅多にいなかった。
 
そうやってゲームの向こう側に夢を見た結果、入れ込み過ぎてしまう人々を、精神医学の専門家たちはオンラインゲーム依存やゲーム障害といったテクニカルタームで整理しようとしていたし、現場のプレイヤーたちも、あまりにも過激に入れ込むプレイヤーをやっかみや揶揄を込めて「廃人」と呼んでいた。実際、「廃人」が過ぎれば現実がおろそかになり、ソーシャルスキルが低下したり心身の不健康な状態に陥ったりすることがあり得るし、海外では死人も出ていたから、仮想世界にとらわれてしまった人々が問題視されるのは、当然の成り行きだったと言える。「ゲームの向こう側」に行けること・現実と隔絶された世界にいられることは、オンラインゲームの魅力のひとつだったけれども、それは脱-社会的なことでもあったからだ。
 
と同時に、当時のオンラインゲームは単なる世界の代替品ではなく、「最先端のどこか」や「未来的などこか」でもあった。『Second Life』で盛大に勘違いする人が現れた一因も、そこが単なる現実の代替品ではなく、新世界でもあったからだろう。
 
 

2022年。「現実の向こう側」はあり得るだろうか?

 
それから歳月は流れ、『ソードアートオンライン』はライトノベルとしては古典になり、オンラインゲーム、とりわけ「ソードアートオンライン」的なMMOは最先端でも未来的なものでもなくなった。ありとあらゆるゲームがオンライン化され、SNSやDiscordをとおしてプレイヤー同士が繋がりあい、小学生でもボイスチャットをやるようになった。そんな2022年において、ゲームの向こう側とはどこまで想像可能・没入可能なものだろうか。
 
先に触れたように、『ソードアートオンライン』では、主人公のキリトとメインヒロインのアスナが新婚さんごっこをしていた。それは、MMOプレイヤーの夢物語であると同時に、実際にMMOのなかで起こり得ることでもあった。起こり得ることだったからこそ、キリトとアスナの新婚さんごっこが『ソードアートオンライン』の作中に描かれ得た、とも言い換えられるかもしれない。
 
ゲーム世界のなかで恋人同士のように言葉を交わし、エモを交わし、結婚式もあげる。男性プレイヤーが女性キャラクターを操作し、その女性キャラクターに別の男性プレイヤーが惚れたり貢いだりすることだって起こる。ゲームの仮想世界の内部でそうしたことが起こるのだから、新婚さんごっこが「ソードアートオンライン」という壮大な夢のなかで描かれても違和感はなく、むしろ「あるあるネタ」だった。
 
しかし2020年代のMMOにおいて、そうした新婚さんごっこがどこまで可能なのか? そもそも、そうやってゲームの仮想世界を現実世界と対立するものとみなすことが、どこまで可能だろう?
 
インターネットがアーリーアダプターのものからレイトマジョリティのものへ、それからラガードのものにまで広がっていった頃から、「ネットは現実と繋がっている」「ネットと現実はシームレス」と言われるようになった。そうに違いない。あらゆる経済活動、あらゆるニュース、あらゆる政治がインターネットでも繰り広げられるようになった今、インターネットと現実を二項対立的に論じるなんて時代遅れもいいところである。
 
だとしたら、オンラインゲームも現実と二項対立的に論じるべきじゃないだろう。
 
少なくともゲームデザインやゲーム運営やメディアミックス戦略、そして現代のプレイヤーのゲームとの向き合い方から考えるに、オンラインゲームはもう、「現実の向こう側」とは呼びづらくなってきてないだろうか。オンラインゲームは、ゲームそのものを包み込む別種のオンライン空間やオンラインメディアと繋がりながら成立している。でもって別種のオンライン空間が現実とシームレスなのだから、一枚噛ませているとはいえ、ゲームの仮想世界は昔ほど現実から隔たったどこかとは言えなくなっている。
 
プレイヤー同士のコミュニケーション手段も今では充実しているから、ゲーム内の機能の限定的なチャットツールにしがみつかなければならない道理はなく、たとえばSNSやdiscordを使ってコミュニケーションすれば良い。プレイ中も、キーボードを使って会話しなければならない道理はなくなった。ボイスチャットをしてしまえばいいのだ。ボイスチャットは今ではまったく珍しくなくなっている。
 
そういった、ゲームの外側のコミュニケーションツールによって便利になったことは沢山ある。けれども、それらのツールに慣れれば慣れるほど、そのゲームは「現実の向こう側」ではなく、より現実に近い位置に留め置かれてしまう。そもそもインターネット自体も現実とシームレスになってきているのだから、それは仕方のないことだ。そして自分自身のボイスが発せられ、他のプレイヤーのボイスが耳に届くことによって、ゲーム内でのコミュニケーションは、実際の人間同士のコミュニケーションへと接近していく。 
  
タイトルで「キリトとアスナの新婚生活は今のオンラインゲームでも可能か?」と問うたのは、こうしたコミュニケーションの変化と、ゲーム世界と現実との距離感の変化を踏まえたうえでの問いだ。ひとつのオンラインゲームの内側でプレイヤー同士のコミュニケーションが完結できていた時代が終わり、ゲームの内側でコミュニケーションを完結させようとするのが一種のこだわりプレイに変わってしまった今の時代に、MMOのなかで新婚さんごっこ、恋人ごっこはどれぐらい可能だろうか? あるいはゲーム世界内の地位や財力や権力にのぼせあがることがどこまで可能だろうか?
 
ちゃんと工夫すれば……できるかもしれない。でも、ちょっとゲームの外に目を向ければ、魅力的な女性キャラクターのプレイヤーが本当は冴えない男性のものだったと知れてしまう。勘違いと幻想から始まるネットの恋など、これでは始まりようがない。あるいはゲームでは対等の地位や財力を持っているとみなしている相手が、現実でも大金持ちだと知れてしまうかもしれない。そしてボイスチャットは、その息遣い、その声音、その背景音などをとおして、お互いのナマの人間性を漏洩してしまう。
 
今、オンラインゲームをやっている若いプレイヤーは、ゲームの外に目を向ければSNSやdiscordのアカウントが目に入り、ボイスチャット越しにさまざまな情報(いや、現実の向こう側に行くうえでは、ノイズというほかない)が耳にも入る環境でオンラインゲームをやっている。それは、プレイヤー同士を現実に近いかたちで結びつけるには適しているし、そんな環境のなかでもキリトとアスナのような仲になっていく男女がいるとしたら、従来の恋人同士とほとんど変わらない。だとしても、コミュニケーションが現実に寄りすぎてしまったせいで、イージーにゲームに幻想することが難しくなり、「現実の向こう側」で権力者や勇者や男女交際を幻想するのも難しくなってしまった、とも言える。
 
2020年代から『ソードアートオンライン』、とりわけ「ソードアートオンライン」世界を攻略する物語を思い出すと、あれが「現実の向こう側」の夢として一番訴求力を持っていた時代は過去になったんだなと思わずにいられない。だから『ソードアートオンライン』が駄目だとか、読む価値が無いとか言いたいわけではない。逆かもしれない。『ソードアートオンライン』には、まだオンラインゲームの隔絶度が高く、「現実の向こう側」として幻想可能だった頃のフィーチャーやエモーションや希望がぎっしりと詰まっている。同作者の『アクセルワールド』とあわせて、00年代のオンラインゲームとその周辺の息吹をライトノベル作品として昇華したようにも今は読める。たとえそこに創作上のご都合主義やお約束があるとしてもだ。いやいや、そうしたご都合主義やお約束すら、同時代を思い出すフックになる。
 
 

今、「現実の向こう側」といえば異世界じゃないか

 
ところで、ゲームが現実とシームレスになっていくのをよそに、異世界転生の物語は現実と隔絶している。そこに登場するノウハウやテクノロジーは現実からの借用かもしれないし、魔法やスキルはゲームからの借用かもしれない。それでも、現実との行き来が不可能か、ものすごく困難な異世界の物語は、読者を「現実の向こう側」へといざなう。少なくともそのような、現実を気持ち良くシャットアウトした異世界転生の物語は存在する。
 
そのような異世界転生の物語の魅力とは、案外、オフラインゲームの魅力や、もっと古典的な物語の魅力に近いものかもしれず、ことさら新しいと喧伝するほどではないかもしれない。いずれにせよ2020年において、オンラインゲームを通じて幻想するよりは、「現実の向こう側」の想像や幻想を炸裂させるには手堅いように思う。