※この文章は、黄金頭さんへの返信のかたちをとった、私なりの反出生主義についての考えをまとめた文章です※
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こんにちは黄金頭さん、p_shirokumaです。拙著『人間はどこまで家畜か: 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)』をお読みくださり、ありがとうございました。今回私は、どうしてもこの本を読んでもらいたいブロガーさん数名におそれながら献本させていただきました。受け取ってくださったうえ、ご見解まで書いてくださり大変うれしかったです。
『人間はどこまで家畜か』を黄金頭さんに献本したかった理由は2つあります。
ひとつは、黄金頭さんが書いたこのブログ記事のおかげで『リベラル優生主義と正義』に出会えたからです。
今は8000円台で推移していますが、一時期、この本には30000円ぐらいのプレミアがついていました。この本は図書館で借りて十分な本ではなく、いつでも利用可能な状態にしておくべき本だと私は思いました。黄金頭さんのおかげでプレミアがつく前に購入でき、たくさん読めて助かりました。
もうひとつは、黄金頭さんが日頃から反出生主義的なメンションを書いておられたからです。
実は、執筆段階の『人間はどこまで家畜か』には反出生主義とその目標が現実的にありえる未来として記されていました。ところが125000字の原稿を90000字の新書に折り畳むためには、反出生主義についての記述を削除するしかなかったのです。私は、反出生主義を人間を滅亡させ得る思想のひとつ、危険な文化的ミームのひとつとみなしています。
思想の進展には最終目的地はありません(例外は反出生主義で、これには生物の絶滅という壮大な最終目的地があります)。思想の世界には自然主義的誤謬という言葉があります──生物学的な事実があるからといって、そのとおりに振る舞う「べき」とみなしてはいけないと戒める言葉です。たとえば人間には反応的攻撃性や能動的攻撃性がありますが、だからといって暴力や殺人が肯定される理由にはなりません。
一方、その逆は成立しません。自然主義的誤謬ならぬ思想的誤謬という言葉はないのです。思想は思想以外に対しては無謬であり、無敵であり、特権的な地位にあるため、思想を否定したり修正したりし得るのは、人間の生物学的特徴ではなく、思想自身だけです。たとえば反出生主義が思想として完全に定着した時、それを道徳的判断や価値判断からひっくり返せるのは当の思想だけで、生物学者が何を言おうとも哲学者や倫理学者のつくる未来を覆すことは許されないでしょう。その意味において、加速主義やハラリのビジョン、反出生主義にも荒唐無稽と切って捨てられない怖さがあります。思想のゆくえは真・家畜人たる私たちのゆくえであり、それは絶滅のゆくえでもあるのかもしれないのです。
━『人間はどこまで家畜か』ボツパートより
たかが思想だ、それもマイナーな思想だと反出生主義を軽んじるべきではありません。
拙著で述べてきたように、思想は文化の中核をなすミームで、たとえば今日の社会は資本主義・個人主義・功利主義といった思想に沿ってできあがっています。思想は都市空間のアーキテクチャとなって具現化しますし、私たち自身の超自我や価値観となって内面化もされます。だから思想なんてたいしたことがない、と思うのはとんでもない間違いです。思想が都市をつくり、社会をつくり、時代時代の人間をかたどり、値踏みすらするのです。
と同時に、21世紀においてメジャーな思想たちも、かつてはマイナーでした。(信用取引や流通貨幣の起源は別として)今日の資本主義のシステムや思想を育てたのは西洋のブルジョワ階級でしたが、はじめから彼らとその思想がメジャーだったわけではありません。たとえば今日では当たり前のものになっているコスパ/タイパ意識も、20世紀初頭には一部の人のものでしたし、いわゆる上昇志向もそこまで強かったわけではありません。でもって、ブルジョワ階級は「第三身分」と呼ばれ「第一身分」や「第二身分」ではなかったのでした。
『第三身分とは何か』が書かれたのはフランス革命期。現代人の雛型ともいえるブルジョワ階級も、当時はまだ新興勢力でした。資本主義をよく内面化し、そのとおりに生きている人はせいぜいアーリーアダプターまでだったと言えそうです。
個人主義や社会契約や功利主義にしてもそうです。それらのたたき台を作った偉人たちはイノベーターで、はじめから偉人たちの思想がメジャーだったわけではありません。だとしたら、今日ではマイナーで異端視されがちな反出生主義も、やがて社会や時代に浸透し、常識になったっておかしくないのではないでしょうか。
上掲ボツ原稿に書いたように、思想は思想以外に対して無謬であり、無敵であり、特権的な地位にあります。反出生主義という思想の是非について口出しできるのは当の思想だけで、生物学をはじめとする自然科学には口出しができません。そのうえ、「すべての生の苦をなくす」という発想において、反出生主義にはある種の功利主義的な「正しさ」があります。思想と思想がぶつかり合う際には、「正しさ」は非常に強いカードです。反出生主義という文化的ミームが「正しさ」という武器を携え、西洋哲学の論理という甲冑を身にまとっている点には注意が必要です。
である以上、この思想がイノベーターの夢で終わらず、アーリーアダプターからアーリーマジョリティのものへ、ひいてはレイトマジョリティやラガードまで巻き込む思想になっていく可能性は否定できません。
のみならず、現代社会は文化が(中央集権国家とその制度を介したかたちで)強力な力をふるう社会です。今日でさえ、資本主義や個人主義や功利主義といった思想の外側で考え、思想を逸脱して生きるのは簡単ではないのですから、もっと文化の力が強まり、その文化に人間がいっそう飼いならされるようになった未来に反出生主義が流行したら、その思想のあぎとから逃れるのはほとんど不可能ではないでしょうか。
反出生主義は病原菌よりも猛なり?
古来より、流行りものは人間をたくさん減らしてきました。ペストしかり、天然痘しかり、インフルエンザや新型コロナウイルスしかり。それらは細菌やウイルスといった生物学的ミームで、交易網に乗って広がり、大暴れしたのでした。
一方、今日ではそうした生物学的ミームよりもずっと多くの文化的ミームが、テレビや教育制度やインターネットをとおして広がっています。これまで、文化的ミームが人間を滅ぼす様子はないように……みえました。でも、それはいつまで本当でしょうか? たとえば資本主義や個人主義や功利主義が人間を滅ぼすまではいかなくても、人間を大幅に減らしてしまう未来はあり得るのではないでしょうか? いえいえ、案外それは既に起こっていることのようにもみえます。
そのうえで、反出生主義のような、より直接的に人間を滅ぼす文化的ミームが大流行し、本当に人間を滅ぼす、ひいては全生物すら滅ぼす未来は絶対に来ないと言えるでしょうか。
苦を避けることを至上命題とする反出生主義は、人間を滅ぼすだけでなく、たとえば自然界の食物連鎖、野生動物の生の在り方をも標的とするでしょう。人間の滅亡も全生物の滅亡も、思想として正しければ肯定され得て、その思想に対して生物学をはじめとする自然科学は何も言えません。そうして考えてみると、反出生主義は荒唐無稽な人類滅亡ストーリーではなく、文化をとおして人間が絶滅する現実的な導火線のひとつと思えるのです。
でもって、もし反出生主義が人類や生物を滅亡に追いやった時、その思想は、その善や正義を誇るでしょう。
伊藤計劃のSF小説に『虐殺器官』という作品があって、その世界では虐殺の文法なるものが登場し、そのミームが世界じゅうに争いを起こすさまが描かれていました。虐殺の文法というミームが人文社会科学の産物だとしたら、虐殺の文法もまた、文化的ミームの一種と言えます。
虐殺の文法は、争いを生むとげとげしい文化的ミームでした。反出生主義はそうではないでしょう。生まれてこないこと・極端な功利主義に基づいて緩慢に滅ぼすことをとおして人間や生物に終わりをもたらす文化的ミームとして、釈迦の真似事のような顔つきをして私たちの前に現れるでしょう。反出生主義は功利主義のバリアントのひとつ、苦を避けて命に対して慈悲深い、(フーコーっぽく言えば)生政治的なミームであるでしょう。でもそれがもたらす帰結は虐殺の文法と実はあまり変わりません。いいえ、もっと苛烈で、もっと徹底していると言えますし、逃れようがありません。
メディアやインターネットをとおして文化的ミームがはげしく往来する今だからこそ、人間に災厄をもたらすミームは細菌やウイルスといった生物学的ミームだけでなく、思想やイデオロギーといった文化的ミームである可能性は大きくなっていると私は読みます。そのような視点から『人間はどこまで家畜か』をお読みいただき、人間が文化に飼いならされようとしていて、その文化にそぐわない個人を治療・矯正しているさまを想像してみてください──ひとたび反出生主義が文化的ミームのヘゲモニーを握ったら、それにそぐわない個人もまた、治療・矯正の対象とみなされるでしょう。そのとき、治療や矯正に携わる人々は白い手袋をしていて、やさしく微笑んで、できるだけ苦の少ない生と平安を約束すると思います。
それって恐ろしい未来だと私なら思います。びっくりするほどディストピアですよ。
でも、反出生主義を奉じる黄金頭さんには喜ばしい未来、ユートピアとうつるのかもしれません。
どちらにせよ、未来について考え、未来について語るのは楽しいものです。
『人間はどこまで家畜か: 現代人の精神構造 (ハヤカワ新書)』は、未来について考えたい人には特におすすめです。