シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

正論、説教について――『ロスジェネ心理学』を書きながら考えていたこと

 
 http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2012/12/11/170141
 
 ブログって何を書いても構わないんですが、新規に何かを書き出すのって、意外と難しく感じます。私の場合、特定の誰かの記事に言及したり手紙を書いたりするほうがスッと言葉が出てきます。気づかなかったことに気づいたり、言えなかったことを言語化できたり。
 
 ブログの醍醐味って、やっぱり「他人と言葉を交わすなかで自分の考えていることが変わっていく」にあると私は思うんですよ。一人で考えるだけなら、自宅のチラシの裏でも、Evernoteでもいいんです。でも、ブログとブログが言葉を連鎖させるうちに、自分の思念が形を変えて、ときに他人の思念すら変えていくとしたら、そこには可能性が眠っていると思うし、少なくとも私は刺激を受けているつもりです*1
 
 そんなわけで、『シロクマの屑籠』の記事のなかには、表面的にはトラックバックが張られていなくても、特定のブロガーや特定の人物に対するピンポイント言及の形をとっている記事がかなりあります。面白いことに、そういう“ステルストラックバック”って、まず間違いなく届きます。こっそり反論書いてやろうとか思っていると、すぐ見つかって「俺のことかー!」とお返事を頂いたりもします。たまに、当人以外の不特定多数が「俺のことかー!」って反応することもありますが。
 
 前置きが長くなりました。
 
 今回、コンビニ店長のid:lkhjkljkljdkljlさんに拙著『ロスジェネ心理学』について感想を頂きました。感想を頂いたから言語化できることもありそうなので、お返事を書いてみます。
 

ロスジェネ心理学―生きづらいこの時代をひも解く

ロスジェネ心理学―生きづらいこの時代をひも解く

 
 
 1.店長、拙著『ロスジェネ心理学』を買ってくださり、しかも感想までよせてくださり、ありがとうございました。世代も生育環境も異なるであろう人の手許に拙著が届き、読んで頂けるのはとても嬉しいことです。
 
 この本は、バブル景気が終わってから就職した人達、とりわけ、なんとなく大学に入り、なんとなく大学を卒業したような人達を念頭に置いて書きました。それとバブル世代に属してはいたけれども“フリーター”“とらばーゆ”的言説に乗せられて漂流した挙げ句、30代ぐらいになって着地点が無いことに気づいて慌てはじめた人達とか。「自由な進路選択」「とりあえずいい大学へ」的言説に乗せられて、気づいたらにっちもさっちもいかなくなるような人が、私の視界にはやけに沢山いたんです。これは職業的な視野の偏りかもしれませんし、ゲーセンを私生活領域とし、00年代にあっちこっちのオフ会に顔を出して回っていたせいかもしれません。私にはそうした人々が他人事には見えませんでした。
 
 「ノマド」って言葉が、いくらか意識の高い*2人達の慰安物になっているのと同様、当時“フリーター”“とらばーゆ”言説に振り回されていた若者ってのは、ちょっと育ちの良い子女だったと私は思っています。少なくとも、(今でいう)ヤンキー・DQN圏域の人達は“フリーター”“とらばーゆ”言説を真に受けたり、そういうフレーズに自意識の慰安物を見いだしたりはしていなかったと記憶しています。
 
 それと、なんとなく大学・学科に入った人達や「親に言われて」受験戦争を戦った人達にも、親が子どもに塾通いをさせたがる程度に意識の高い家庭*3の出身者が多かったと回想します。医学部同期にはそういうタイプはあまりいませんでしたが、他学部の同期や、オフ会やネットで知り合った人のなかには、そういう感じの人が結構いました。このあたりも、私がオタクで交友関係が偏っていたせいもあるかもしれませんが。そうした人達のなかには、難しい境遇に直面した人達が少なからずいました。2005〜2007年の、はてな非モテ論壇周辺にも、そういう表明をしている人や、人生をこじらせているっぽい人の姿を見かけたように思います。
 
 『ロスジェネ心理学』って、やっぱり「ニュータウン」の本なんですよ。表紙の写真は、埼玉県方面から東京スカイツリーをのぞむアングルですが、こういう風景の、こういう故郷を持つ世代の人達のための本といいましょうか。そういう意味では、店長の境遇は、世代的にも故郷的にも離れているんだろうと推察します。あと、『レジデント初期研修資料』のmedtoolzさん。medtoolzさんも、「同じ時代を生きていても、こんなに見え方が違うのかと驚いた」と仰っていました。育った世代・育った故郷・育った家庭が違っていれば、娑婆の見え方が違う。当然だと思います。“失われた二十年”とは言うけれど、見えている風景も生きている精神も、みんな違うんですから。
 
 でも、だからこそ本にして良かったなと思ってます。日頃、色んな人にブログを読んで頂けて、本当にありがたいと思っているんですが、普段ネットを読まないような人達にも手にとって頂ける可能性を秘めた、書籍という伝達手段は、これはこれで魅力的だと感じます。「ふーん」と言ってくれる人の手許に12万字のまとまったテキストが届けられるとしたら、頑張った甲斐があったものです。同人誌でやるという手もありますが、同人誌の場合、シンパシーの射程距離がそのまま書籍の射程距離になってしまいそうです。例えばの話ですが、60歳〜70歳の精神科医が、私のブログや同人誌を読むかって言ったら読まないでしょう。でも、書籍なら、ふとしたはずみで手に取って「ほー」と言うかもしれない。その、射程距離の意外性が気に入りました。いつかまた、書籍を出せるご縁があったら、やってみたいものです*4。紙幅の都合で書けなかったことが山のようにありますから。
 
 
 2.コンビニ店長は、拙著について、面白いことを仰っていました。
 

 ただこれ、すんげー正論だなーと思って。
 正論って正しいから正論っていうので、正しいことが助言どおりにできりゃ人間世話ねえよ、という話です。もちろん「いまのロスジェネ世代」というものを念頭に置いて、そのうえでの現実的な処方、という話にはなってるんですが、それでもなお「こりゃ正論すぎてきっついわー」というのが読後感ですね。

http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2012/12/11/170141

 
 「正論。」
 「正論すぎてきっついわー。」
 
 この言葉を、私はこれまでにも何度も聴きました。曰く、「シロクマさんは正論すぎる。」「シロクマさん、それは正論でしかないですよ」。ありがとうございます、ありがとうございます、奇術師がシルクハットから鳩を出すようなミラクルなんてくそくらえですよ。起こらないから、奇跡って言うんです。そして、莫大な時間と(十善戒のような)日常を積み重ねることで、奇跡ならざるものを現実へと転化していくことにこそ、力は宿ると信じてやまないのが私です。その日常の積み重ねを、陳腐と呼んで馬鹿にする人達もいる。怠惰によっておざなりにする人もいる。けれども、その陳腐という名の凡庸を突き詰めておかなければ「運がいつやってきてもいいように環境を整備」できっこないじゃないですか。
 
 店長も、コンビニ店長として、商売の前線の風に長く曝されてらっしゃることと思います。日々、細かな積み重ねをやっておられるのでしょう。そのなかで、色々なものが研ぎ澄まされていく。こちらの記事に、一万時間をひとつの修得単位、って書いてありましたけど、私も同感です。奇跡ならざるものを招き寄せるチャンスならあるとするなら、蓄積という名のクンフーは必要条件でしょう。そこまでやらないと肉薄できない運がある筈です。
 
 私は『汎用適応技術研究』というウェブサイトをやっていて、いつも汎用性の高い適応の技術を追求しています。その適応の技術のうち、誰にでも出来る可能性があり、十分な効果があるものを書籍に載せるとしたら、そりゃあ平凡で時間のかかる方法を乗せなきゃ嘘でしょう。陳腐だけど威力のある適応の技術といえば、時間を味方につけるようなタイプのものが一番強力です。
 
 ところが現代人の多くは、5年とか10年とかいう時間の積み重ねをナメているか、真面目に取り組んでいないか、時間視力が近眼すぎて目の前のことしか見えていないように見えます。だから私は、時間蓄積を味方につける手堅さを強調するような構成にしました。正論とか陳腐とか言われても、これが私の適応の奥義であり、最新の技術なんです。時間を敵に回してはいけない。時間は常に味方にすべきです。
 
 あと、コンビニ店長は「正論は糖衣錠として届けられるべき」と書いています。そうですね、このブログ上でなら、私は正論を糖衣錠に包めるかもしれません。もっと言うと、一対一でチャットしている時とか face to face で話をしている時とかは、もっと色々と正論のデリバリーに気を配れると思います。語りかける相手の事情や傾向が読める場合、相手にあわせて正論を煮込み料理にしたり水飴でコーティングしたり色々できそうです。
 
 でも、それはあくまで相手の特性に合わせる猶予のある場面での話。例えば、
 

  
 上記のような意見を参考にして『ロスジェネ心理学』をつくっていたらどうなっていたでしょうか?現代のサブカルチャーに詳しい人には、読みやすい本になったには違いありません。そのかわり、還暦ぐらいの人には読みにくい本になるだろうし、アニメやゲームについて嫌悪感を持っているような人には、五月蠅いと感じられる本になったでしょう。
 
 それと、世の中には糖衣錠に包んだ正論の、糖衣の部分だけムシャムシャ食べたがる人がいることも私は知っています*5。あるいは、正論を糖衣錠に包んで、その糖衣錠の部分が売れることばかり期待するような文章すらあるかもしれない。糖衣錠は糖衣錠で、厄介なんです。
 
 こうした諸々を考慮したうえで、私は、『ロスジェネ心理学』では適応技術を糖衣錠にくるむのはやめておこうと決めました。少なくとも、書籍でそれをやるなら大きな副作用を覚悟しなければならない、と思ったのです。「正論すぎてきっついわー」と言われても、私はこれでいいと思っています。
 
 
 3.それとですね、私は、思春期の人間から見て面白くない正論を喋るbotみたいな年長者をやりたいんです。
 
 私が学生だった頃、年長の先輩達は正論を語ってくれませんでした。バブルに浮かれて消費を煽る先輩達、どっちつかずのヘタレアイデンティティに「これでいいのだ」と居直った先輩達、今を feel している感性が一番大切と語る先輩達 etc…そういう年長者が、あっちにもこっちにもいました。今思えば、社会のベルトコンベアがいちばん楽観的に機能していた頃だったからこそ、そういった大人のおふざけが成立していたのかもしれません。しかし当時の私には、それらがなんとなく眉唾めいて見えました。このあたり、うちの父親がバブル景気や就職活況を一過性とみなして、警告を発してくれていたせいもあるかもしれませんが。
 
 私はそういった首都圏から発信される言説より、小学校にお寺の住職さんから頻繁に聴いた、説教のほうに影響を受けたみたいです。もちろん仏教の説教ですから、西方浄土がどうこうという形而上の話も出てきますが、【時の流れと人の生死】【結果を結実させるとはどういうことなのか】を考える枠組みとしては、仏教諸派の考え方は面白いものでした。正真正銘、正論ばかりだったんですが、数百年の時を越えて生き残っている人間の知恵みたいな匂いがしました。尤も、私が思春期を迎えて間もなくその住職さんは死んでしまい、いったんは忘れていたんですが。
   
 住職さんの置き土産が驚きとともに蘇ったのは、『脱-オタクファッション』五カ年計画を実行している最中です。ファッションって、一年じゃものにならないし二年でも怪しい。でも、三年、四年と積み重なっていくと確実に服飾と自分自身の辻褄合わせができてくるし、その方向性を(僅かずつではあっても)制御できるという事実に気づいた時、私は住職の説教を思い出しました。もっと仏教を学ぼうと思ったのもその頃ですし、これから先、あらゆるトライアルは最低五年、できれば十年をワンユニットにしようと決めたのもこの頃でした。
 

 実際のところ、正論ってなんの役に立つかっていうと、その人が自分の経験から学習して「ああ、あれは正しかったんだ」というかたちで、そこからの理解の速度が上がることくらいですね。そしてシロクマさんは「それでは手遅れなのだ、もう私達には残り時間が少ないのだ」と思うからこそ、書くわけなんでしょう(内心の忖度)。

http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2012/12/11/170141

 店長が仰っているように、ある日、正論の有効性に気づいて理解の速度が急に速まることがあるかもしれない。それはその程度のことなのかもしれない。でも、ただそれだけでも値打ちがあると思いませんか。
 
 私の場合、住職の説教は「人生の青写真」として機能したんです。思春期後半に自力でみつけた適応技術の開発速度を一気に加速するための青写真が、私の人生早期に埋め込まれていました。アニメやエロゲーで喩えるなら、序盤で埋め込んでおいた伏線フラグが後半のストーリーで一気に花開いて盛り上がる、みたいなものでしょうか。ありがたいことです。
 
 だから私は、そんな正論めいた、面白くはないけれども汎用性の高い社会適応の技術について、もっと追求してアウトプットしていきたい。その正論は、殆どの人にとって新鮮味の無い話かもしれませんし、思春期真っ盛りの人間が読んだらイライラするものかもしれません*6。けれどももしかしたら、どこかの誰かの「人生の青写真」になり、人生のどこかでストーリーを加速する材料になるかもしれない。その可能性が1%でもあるなら、それでいいんです。
 
 で、その手の説教臭い正論を「とりあえず年少者に予防接種しておく」ことになにかしらの値打ちがあると語っている大人、説教臭い正論をアウトプットしておく意義を認めている大人が、どこにどれだけいるでしょうか?
 
 あんまりいないような気がします。別のトピックスを語る際に、それらしい匂いのする事を語る人ならいますけどね、やまもといちろうさんとか。あの人は、たぶん短期〜長期のタイムスパンでモノを眺めて実行する術を知っていらっしゃる。でも、そのあたりに格別の値打ち感じて、語ろうとしている人って思うほど見かけません。もちろん世の中が説教臭いやつだらけでも困りますし、刹那的な視点しかないくせに説教めいた人生訓モドキを語る年配者も見かけたりするご時世なので、「みんなで正論を語ろう」みたいな雰囲気は私も御免蒙りますが。でも、一人ぐらい、“ネットの片隅で説教を語るケモノ”がいたっていいと思うんです。
 
 私は「人生の青写真」を(値打ちもわからないであろう小学生だった私に)授けてくれた住職を尊敬していますし、そういうエッセンスを、必要としているかもしれない誰かにばらまきたいと思います。『ロスジェネ心理学』の当該世代には、もう時間があまり残っていないので「人生の青写真」が苗床で芽吹くまでの時間が足りないかもしれません。でも、現在の二十代や十代には間に合うでしょう。彼らが思春期の狂熱から醒め始める頃、「あのシロクマってやつがネットで説教していた意味はこれだったのか!」とフラグが開花する人が一人でも現れるなら、私はそれで十分です。
 
 4.けれども、「古い正論を杓子定規に受け取っているだけでは駄目」なんですよ。正論とか処世訓は、その人その時代に合わせてモディファイされなきゃいけないと思います。聖書やコーランや般若心経にしたって、古代の目線でも、昭和の目線でもなく、現代日本の文脈に即して読み解かなければ、きっとうまくいかないでしょう。
 
 さりとて私も、時代の変化を度外視して正論を書くわけにもいかなかったので、拙著ではインターネット処世術についても若干言及しました。それでもあれだけじゃあ全然足りないので、私は今、以下のようなページをつくっています。
 
 『ロスジェネ心理学拡張キット』のページ
 
 年末年始を迎えてしまったので暫く更新は出来なさそうですが、紙幅の都合でカットした文章や、ネット方面・オタク方面の補足みたいなことをポチポチ書いていこうと思っています。私個人のウェブサイトなので、こちらは『シロクマの屑籠』の常連さん向けの筆致にしようと思っていますし、はてな村の人達が言うところの「黒いシロクマさん」も少しは登場するかもしれません。身も蓋もないところも含めて、人間の適応の正論や王道を突き詰めていきたいです。
 
 



 
 店長からreplyを頂いたお陰で、書きたかったけれども書けなかったことがドカっと書けてスッキリしました。本当にありがとうございました。これからも宜しくお願い申し上げます。
 

*1:最近は、ブログのトラックバックを時代遅れと言う人もいるらしいですが、そういう人は、言葉のバトンリレーとしてのブログの刺激を認識していないか、著しく軽視しているんじゃないでしょうか。もちろん、不特定多数を相手取って「○○のためのn個の方法」みたいな記事を書くのがいけないというわけではありませんし、私だってそういう記事が書きたい日もありますが。

*2:しかし、意識は高くても文化資本にまでは恵まれない

*3:しかし、意識は高くても文化資本にまでは恵まれない

*4:それと編集者の人の手が入るのも、書籍という伝達手段のアドバンテージだと思っています。

*5:まったくの余談ですが、世の中には、甘い味付けの薬を、おやつとして食べる人もいます。本末転倒も甚だしい話ですが、こういうことをリアルで、自分の身体でやる人もいるんですよ。

*6:『ロスジェネ心理学』を書きながら、「これを大学時代の俺に読ませたら、すげぇイライラしそう」と思ったものです。でも、今はそういうのが書きたかった。