シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

努力しているか否かでなく、努力でアタリを引ける確率・努力できる回数が問題ではなかったか

 
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恵まれているか、恵まれていないか。
命がけといえるほど努力しているか、努力していないか。
努力するポテンシャルがあるか、努力するポテンシャルがないのか。
 
これらは相対的で、総論的すぎて、細やかさを欠いた比較ではある。
 
とはいえ親の年収や文化資本の多寡、心理的サポートや社会的サポートの有利不利の総合として、恵まれた環境で育ったと言える人・恵まれない環境で育ったと言える人はいるだろうし、その差異、その競争上の不平等を巡って不満や苛立ちの声があがるのも自然なことだと思う。
 
 

恵まれた環境で育った人が努力してないと思っている人は、そんなに多くないのでは

 
上掲リンク先によれば、スタンフォード大学に入り、かつ書籍を出版した人に関して、(今は消去されている)Amazonのコメントがトリガーとなってブーイングがネットに木霊したという。
 
そうしたブーイングのなかにも「努力しているとは言えない」という声があったかもしれない。
しかし多数派だっただろうか?
違うだろう。
 
とにかくもスタンフォード大学への切符を手に入れた人間が努力していないとは、なかなか思えないものである。でもって実際、くだんの人は人一倍努力をして切符を手にしたのだろう。ブーイングの声の多くも「努力していない」ではなく「逆境を克服してスタンフォード大学に入ったようで、実はそうじゃなかった」的な向きが多かったようにみえた。
 
つまり、恵まれた環境で育って切符を手に入れたのか、恵まれていない環境で育って切符を手に入れたのか、が焦点になっていたようにもみえた。
 
で、くだんの徳島スタンフォードの人は確かな社会的地位のある親元で育ち、周囲からの支援も受けながら切符を手に入れていたのだった(にもかかわらず、自分は逆境にあったと表明してもいたのだった。)。スタンフォード大学の入学生のなかでは、くだんの人とて逆境の部類だったのかもしれない。しかし日本全体の水準でみれば恵まれた環境で育ったように見えただろうし、そのせいで逆境と騙ったと思われやすかっただろう。
 
逆境を超えて難関大学に合格したと言った時、ほとんどの日本人が想像するのは、たとえば貧困家庭で育ったとか、まったく文化資本の乏しい家庭で育ったとか、DVや虐待の絶えない家庭で育ったとか、そういった環境ではなかっただろうか。
 
 

みんな努力している。じゃ、恵まれた環境であることは何が問題なのか。

 
冒頭リンク先で強調されているとおり、恵まれた環境に生まれ育った人だって努力をしている。稀に、そうでない人がいるのかもしれないがおそらく努力をしている人が大半だし、死線をさまようような努力などザラだろう。現代の能力主義社会に疑問を投げかけたマイケル・サンデル『実力も運のうち』にも、以下のようなくだりが登場する。
 

 能力の戦場で勝利を収める者は、勝ち誇ってはいるものの、傷だらけだ。それは私の教え子たちにも言える。まるでサーカスの輪くぐりのように、目の前の目標に必死で挑む習性は、なかなか変えられない。多くの学生がいまだに競争に駆り立てられていると感じている。そのせいで、自分が何者であるか、大切にする価値があるのは何かについて思索し、探求し、批判的に考察する時間として学生時代を利用する気になれない。心の健康に問題を抱えている学生の多さは、危機感を覚えるほどだ。
マイケル・サンデル『実力も運のうち』

これを読み、高学歴に邁進するサラブレッドたちが努力していないと思う人はあまりいないはずだ。こうした努力をさせてもらえること自体が恵まれていると思う人でさえ、いまどきの英才教育が努力を不要にしていると思う人は稀だろう。このあたり、上掲リンク先で高須賀さんが強調している話には迫真みが宿っている。
 
だから、努力しているかどうかは(本当は)たいした問題ではないのだ。まあみんな、だいたい努力している。その結果として一定割合で死線をさまようことにもなる。思うに社会適応とは、そのようなものではないだろうか。野生動物はもちろん、人間たちも基本的には自分の環境で最善を尽くしていて、多かれ少なかれ「のるかそるか」をやっているものである。上昇志向を伴うなら尚更だ。努力できること、それ自体が才能であり環境の所産であるという意見もあるが、ここでは於こう。努力できる人ならば、だいたい人はぎりぎりまで努力している。
 
じゃあ、皆が努力しているなかで、恵まれている人と恵まれていない人は何が違うのか?
 
あえて単純化するなら、恵まれているか否かの違いは、「努力ガチャの質と量の違い」で比喩できるように思う。
 
たとえば10代後半に努力し、結果を求めるトライアル全般を、ガチャを回す行為になぞらえて考えていただきたい。
 
恵まれた環境にいる人が回す努力ガチャには、アタリがふんだんに含まれている。アタリの名前は、そうですね、東京大学入学とかスポーツ選手とか、人脈と言えるような縁を獲得するとか、そういったものをあてがっていただきたい。
 
ひとことで努力と言っても、恵まれた環境にいる人の努力はこのようなものだ:効率的だったり目的に適ったメソッドを伴っていたり、複数の目標にリーチできる多様性や多弾頭性を伴っていたりする。だから努力という名のガチャを回した時、本命のアタリを引く確率が高いばかりだけでなく、アタリの種類も多かったりする。
 
逆に恵まれない環境にいる人が引く努力ガチャには、アタリが少ししか含まれていない。絶無、という場合だってあるだろう。努力をしているのは事実としても、賽の河原に石を積むような努力、シベリアで木の数を数えるような努力、そんなアセスメントのだめな努力をやってしまっている・やらざるを得なくなっている場合も多い。努力家できる素養に恵まれている場合でさえ、アセスメントが弱くて東京大学入学までは難しい・地元国立大学に入るのが精一杯ということも多い。スポーツ選手になるにしても、親がそれを応援できる度合いが低ければアタリを引く確率はどうしても下がってしまう。人脈に関しては、人脈と言えるような縁を獲得する確率が下がるだけでなく、なんなら、腐れ縁に巻き込まれてしまう確率すらあるかもしれない。
 
だから同等クラスの努力をやったといっても、恵まれた環境にいる人とそうでない人では、アタリを引ける確率も、アタリの上限も、だいぶ違っていると言わざるを得ない。そのことは、恵まれない環境にいる人ほど自覚しているように思う。
 
 
そのうえ、努力ガチャを引ける数自体、環境の良し悪しによって変わってくる。
 
恵まれた環境にいる人にとって、努力という名のガチャ、なかでもアタリの混じっているガチャを回すチャンスは親元を離れるまで全般だ。
 
努力はしているだろう。苦労もしているだろう。しかし恵まれた環境にいればいるほど、その努力・その苦労は未来に資するような、アタリ含みのガチャと言えるような、そういう性質を帯びやすい。中学受験。高校受験。大学受験。そして大学受験に落ちれば当然のように大学受験浪人を「させてもらえる」。
 
大学受験浪人とは嫌なものかもしれない。が、浪人させてもらう猶予の無い環境で育った者からみれば、それは「努力ガチャの敗者復活戦」であり、「自分には絶対回せない二回目の努力ガチャ」とうつる。尤も、これも相対的な話ではある。大学受験じたいをさせてもらえない環境で生まれ育った者からみれば、一度でも大学を受験させてもらえるだけで、恵まれた環境とうつる。
 
中学時代にどれぐらい勉強やレクリエーションに没頭できたか、大学時代にどれぐらい授業料や家賃のために苦学生をしなければならなかったか、そういった違いによっても努力ガチャの数は実質的に変わる。若いうちに自分自身に資する努力に集中できればできるほど、その人は多くガチャを回していることになる。逆に、自分自身に資する努力に集中する猶予を与えられない人は、たとえ難関大学に入ったとしても、努力ガチャの数は実質的に減ってしまうし、ひょっとしたら、大学卒業以降のアタリを引く確率さえ下がってしまうかもしれない。
 
そして恵まれない環境にいればいるほど、努力ガチャ、なかでもアタリのふんだんに混じっているガチャを引く回数は少なくなる。
 
たとえば大学受験の機会が一度きり、という高校生は、大学受験浪人をさせてもらえる高校生に比べてガチャを回せる挑戦回数が少ない。そして回数が少ないからこそ安全マージンを意識しながら大学受験せざるを得なくなり、そのため、選択肢は狭くなってしまう。
 
のみならず、自分自身に資する努力をする猶予が少ないほど、アタリのふんだんに混じっているガチャを人生のなかで引ける回数が減ってしまうのだ。たとえば若いうちから親の介護を引き受けなければならない人、いわゆるヤングケアラーが問題になっているが、ヤングケアラーなどは、まさにアタリの混じっているガチャを引く機会から遠ざけられている。親の介護に時間や体力をとられてしまっては、自分自身に資する努力ができなくなるか、少なくなってしまうからだ。そうした人が努力をしていない・苦労をしていない・努力不足だなどとどうして言えるだろう? いずれにせよ、そうした若者が恵まれた環境にいる人と対等に競争し、見事にアタリを引いてみせるのは至極困難だ。
 
(もうちょっとソーシャルゲームの好きな人向けに言い直すなら、恵まれた環境にいる人は、目当てのSSRが出る確率が10%、目当てではないSSRが出る確率が20%ぐらいのガチャを人生のなかで10回引けるようなものだ。)
(一方、恵まれない環境にいる人は、目当てのSSRが出る確率も目当てでないSSRが出る確率も、それよりずっと少ないガチャを引かざるを得ない──たとえば目当てのSSRが出る確率が1%で、目当てでないSSRが出る確率が2%であるような。そしてガチャを人生のなかで引ける回数自体も少ない。)
 
 

努力ガチャのアタリの割合と、引ける回数が違っている

 
だから問題にすべきだし、実際、問題とみなされているのは、「努力しているか努力していないか」という問題系ではない。少なくとも私の目にはそのようにみえる。
 
問題とみなされている問題系は、アタリのふんだんに混じったガチャに比喩できるような努力へのアクセシビリティの差である。または、努力をアタリへと導くアセスメントの差でもある。そして今回の騒動の場合、アクセシビリティやアセスメントが相当に優れた環境にいるはずの人が、そうではないと騙った(ように見えた)ことが火種となり、ネット上の大火に発展したのだと思う。
 
しつこく繰り返すが、恵まれた環境か否かとは相対的な問題に過ぎない。それこそ徳島からスタンフォード大学に入り込むのは、針の孔を通すような、恵まれない環境にいる人が東京大学に入学するようなトライアルだったのかもしれない。少なくともアメリカのエスタブリッシュメントの子息がそうしようとするのに比べれば逆境と言えるだろうし、当人が逆境を克服したと胸を張りたくなるのもわかる気がする。
 
とはいえ、そもそもスタンフォード大学に挑むという発想じたい、その環境が質・量ともに最高クラスのものだったことを暗に示している。恵まれない環境で呻吟している若者は、東京大学に挑む努力ガチャまではぎりぎり想像可能かもしれないが、スタンフォード大学に挑む努力ガチャなんて想像すらできないのだから。でもって、実際、国内有数の環境のなかでトライアルがなされたことが後付け的に判明したのだから、そこで「逆境を克服した」と言われても納得できない人が現れるのも、これまたわかる気がする。
 
「努力は身を助ける」というけれども、その努力の質、その努力の試行回数、そのアセスメントのクオリティにはあまりに大きな差がある。これが、「努力は身を助ける」というフレーズに大きな影を落としているさまを、本件はよく炙りだしているよう私には思われたし、そのような社会状況を恵まれない環境から見上げている人が虚無感を持つのは避けられないだろうとも思う。
 
にも関わらず、資本主義が、社会が、家庭が、内面化された規範が、努力せよ、アチーブせよと迫ってくる。恵まれた環境の人だけでなく、恵まれない環境の人にまでもだ。その、努力という名の一見公正にみえるガチャとその強制が、実は、ものすごい格差を孕んでいることを高所大所から告発したのがサンデルの『実力も運のうち』の一面だった、と私は思った。同書の帯に書かれている、”「努力と才能で、人は誰でも成功できる」この考え方に潜む問題が見抜けますか?” という問いは、今日的で切実なものではないだろうか。