シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

「点の成功」と「線の成功」の話

  
人生のある時点で最高・最強だからといって、長い人生が最高・最強とは限らない。
 
多くの場合、人生のある時点で最高・最強だった人は、その前は劣悪な環境でもがいていたり、精彩を欠いていたりする。一時代に栄華をきわめた人のかなりの割合も、一時代に栄華をきわめていた、まさにそのことによって、干支が1~2周した後に衰微や破滅を招くことも多い。例外がいないわけではないとしても、一時代に栄華をきわめ過ぎた人物は、その栄華によってしばしば足を掬われる。
 
「塞翁が馬」とはよく言うけれども、人間の栄枯盛衰は本当にわからない。
 個人それぞれの未来は読みきれない。
 
だから「勝って兜の緒を締めよ」というのはその通りだし、停滞しているからといって人生を諦めてしまうと思い込むのも、人生にネタバレがあると思い込んでしまうことも、厳に慎まなければならないのだろう。
 
 

「点の成功」と「線の成功」

 
そうしたわけで、人生の成否をある時点の成功や失敗だけをもってつべこべ言うのは巧くない。。「人生のなかの"点"を成功の基準にしてはいけない」と言い換えるべきか。
 
大学入試。
就職。
結婚。
 
これらは「点の成功」の最たるもので、それらの達成目標にし、それらを栄華の現れとするような生き方はたぶん危ない。大学に入ってから、就職してから、結婚してからの果てしなく長い時間がむしろ重要で、スタートやピリオドといった節目はそこに様式を与えるようなものに過ぎない。長い時間という「"線"の成功」を意識も前提もしない「点の成功」にはたいした意味は無いし、成功の持続力も乏しい。様式にとらわれている人は、ここのところが往々にしてわかっていない。
 
 さきに述べたように、人間はいつ死んだり病んだりするかわからないから、持続力のある成功を意識しても実を結ぶとは限らない。というか、どれほど恵まれた人生でさえ、泥濘を這う時期もあれば、アクシデントによる中断も起こるだろう。それでも人は「点の成功」だけでは生きていけない。もっと長いスパンでみた、浮き沈みや悲喜こもごもを大前提とした目線でなければ見えないものがたくさんある。でもってその見えないものが見えないと、人生は形骸化・形式化してしまうようにも思える。
 
 無数無限の「点の成功」の集まりによって人生を成り立たせれば良い、という人もいるかもしれない。もちろんその考え方でも構わないと思う。ただし、無限無数の「点の成功」を連ねるような生き方とは、結局のところ毎日のひとつひとつの出来事を大切にし、丁寧に生きるような、結果として「線の成功」を意識している人とあまり変わらないものになるようには思う。
 
 毎日をできるだけ丁寧に。
 うれしいことがあっても悲しいことがあっても為すべきことをして生きる。
 
 こうしたことは簡単のようで簡単ではないから、無限無数の「点の成功」を連ねる生き方、または「線の成功」に忠実な生き方をやってのける人はそれほど多くはない。また、すべての人生がこうであるべきと強弁するつもりもない。「点の成功」を目指し、そこで燃え尽きるという考え方も、本来尊重されるべきだろう。
 
 ところが現代社会は人にさんざん「点の成功」を煽っておきながら、産卵後の鮭や初夏のカゲロウのように人が燃え尽きることを許してはくれない。それなら、表向きは「点の成功」を目指しつつも脳裏には「線の成功」を思い描けたほうが現実的、ということになりそうだ。
 
 この話のすぐ先には「面の成功」とでもいうべき、他人の線の成功との繋がりあいや折り合いの話があるのだけど、あまりブログを書いている暇がないので今日はこのへんで。