シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「コツコツ努力する」への違和感、あるいは反発

 
anond.hatelabo.jp
goldhead.hatenablog.com
 
 二人が書いた二つの人生を立て続けに読み、何か書きたくなった。
 私の脳内で最近渦巻いている何かが出かかっている。
 うまく書けるだろうか。
 
 
  *    *    *
 
 
 「底辺を這うおれには努力というものがわからない」を記したgoldheadさんには、文筆の才能があると私は思っている。ところがgoldheadさんはコツコツと努力を積み重ねることができなかったか、やらなかった。できないとやらないは、ある程度は重なるが、ある程度は別の問題でもある。ともあれ、自分自身の能力や才能を、努力をとおして「社会化」することにgoldheadさんが長けていなかったことだけは間違いないだろう。
 
 対照的に、「追いつけ追い越せ」を記した匿名筆者さんはコツコツと努力を積み重ねることには長けていて、学歴に勝る同輩たちを追い越してしまった。
 
 匿名筆者さんの学力は凡庸だったのかもしれない。才能も乏しかったのかもしれない。が、コツコツと努力を積み重ねることには長けていた。この文章を読みづらくすることを覚悟のうえで例えるなら、匿名筆者さんはある種のライトノベルやウェブ小説の主人公にいてもおかしくないタイプだと、思う。光るものが無いようにみえて、実は汎用性の高い、特別なものを持っている主人公。匿名筆者さんは、「コツコツと努力を積み重ねる才能」があるのだと思う。あるいは「社会化の才能がある」とでもいうべきか。
 
 ここでいう社会とは、もちろん現代社会のことだ。中世ヨーロッパ社会で必要とされる社会化と、現代日本で必要とされる社会化では、その内実はだいぶ違う。バブル崩壊後、「努力より才能」という言葉が流行した時期があったが、中世ヨーロッパなどに比べれば現代社会は個人の努力がモノをいう余地が大きい。そして匿名筆者さんは、他の才能はともかく「コツコツと努力を積み重ねる才能」には秀でていたのだろう、と思う。特別な才能も何もないようにみえて、学歴に勝る人々を追い抜いて着々と出世する人に、私はそのような才能をみずにいられない。くだんの文章には記されていないけれども、人間関係を生かす力とか、意見を調整する力とかにも恵まれているのかもしれない。
 
 じゃあ、みんなコツコツと努力を積み重ねられれば現代社会でうまくやっていけるのか? そうではあるまい。goldheadさんのような人もいるし、自分ではコツコツと努力を積み重ねているつもりなのに、まったく花の咲かない人もいる。努力には、信用ならないところがある。にも関わらず、たとえば丸の内の高層ビルで働くようなサラリーマンになろうと思ったら、やはりコツコツと努力を積み重ねないわけにはいかないし、そのような個人を輩出する大学が良い大学、とみんなが考えるようになっている。
 
 
 それだけならまあいいのかもしれない。
 もっと陰鬱なことを考えてしまうこともある。
 
 goldheadさんは冒頭リンク先で、以下のようなことを書いている。
 

つーわけで、おれが言いたいのは……なんだ? なんだかわからん。おれを反面教師にしろといったところで、生まれつきやる気のない、気力のない、努力のできない人間というものもいるだろう。おれのように精神障害者になるやつもいるだろう。そういう人間は……生まれてきたのが間違いだったな、としか言いようがない。勉強し、成果を出し、出世できる人間、金儲けできる人間のためにこの社会は存在している。だから、そんな社会に生まれてきてしまった、競争に向いていないやつは不運だった。残念だ。おれからもストロングゼロを一杯おごろう。ロング缶じゃないぜ。

 勉強し、成果を出し、出世できる人々、金儲けできる人々が社会の中心で活躍している。そういう人はストロングゼロのロング缶を飲んだりはしないのかもしれない。持ち前のコツコツ努力で、フィットネスジムに通って健康的な生活をしているような気がする。
 
 そういうよくできた人々に及ばないまでも、そこそこ頑張って、まずまず安定した生活をして、苦楽のなかで生きている人も多い。
 
 では、努力する才能に恵まれない人々、気力のない人々、コツコツやれない人々は、現代社会でいったいどうなるのか? 苦しかないのか? いや、苦しかないというのは極端としても、goldheadさんがしばしば述べるように、不運や不遇、低い自己評価といったものを仕方なく受け入れるしかないのか。
 
 コツコツ努力できない人がおのずと低い自己評価を持たざるを得ない社会は、なぜ、そのような社会のままでも構わないとみなされているのだろうか?
 
 現代社会は、メリトクラシー、能力主義によって給料や社会的地位が変わることになっている。能力主義が成立する前の、身分制度の世の中に比べればマシだというのは理解できる。ただ、その能力主義がすっかり隅々にまで浸透し、みんなの常識になった結果として、その競争ルールでは不利にならざるを得ない人々が不遇をかこつ状況までもが正当化されて構わないものなのか、その正しさが、私にはときどきわからなくなる。
 
 能力のある人々が頭角を現すのは、別に構わない。けれども当代に期待される能力が乏しい人々が、単に収入や地位が得られないだけでなく、その内面において「自分はどうしようもない」と思わざるを得ないのは、行き過ぎているのではないだろうか。
 
 ところがこの行き過ぎが社会の常識にまでなっているものだから、「能力も努力も足りなかったのだから仕方がない」の一言で片づけられてしまう。
 
 もうちょっと物分かりの良い人なら、「だから福祉が何とかしなさい」といったことをいう。福祉! もちろん福祉はあったほうが良い。だけど福祉は、この能力主義のピラミッドゲームを緩和しているのだろうか?
 
 福祉は、いまどきの能力主義に乗り切れない人々を能力主義の枠内へと再収納することによって、しばしば救う。だが福祉は、いまどきの能力主義に乗り切れない人を能力主義の枠外のまま救うようにはできていないように、私にはみえる。
 
 
 
 ……うまく書けている気がしないな。
 
 
 別の言い方を試みてみよう。
 なぜ私たちはコツコツと努力するのがさも人々の義務みたいな顔つきをしているのか。コツコツと努力できない人々がよろしくないような顔つきをしているのか。そのあたりがわからないのだ。わからないといって語弊があるなら、この、努力とか上昇志向といったものが浸透した社会の常識を胡散臭く眺めたくなる、と言い換えるべきかもしれない。
 
 社会は、何百年も前からコツコツと努力する人々で満ちていたわけではない。ましてや、コツコツと努力する人間をあるべきテンプレートとしてきたわけでもない。ところが今日では、それがテンプレートのようになって、私たちの罪悪感や劣等感や徳目とも結び付いている。
 
 私は今、現代社会では当たり前になっているものについて書いているから、ほとんどどうしようもならないことについてウダウダ書いているも同然だ。少なくとも私はこの常識にかなり染まっている自覚があって、たとえば、ガチャの荒ぶるソーシャルゲームを遊んでいる時ですら、マネジメントとか効率性とか、資本主義の呪文を唱えながら努力してしまっている有様だ。遊戯の時ぐらい、私はもっと気ままに、もっと自由に遊んだっていいはずなのに。
 
 コツコツ努力するという、現代社会を貫くイデオロギーに背を向けるのは高くつく。私のような人間は、コツコツ努力するというイデオロギーについてむやみに考えず、むやみに疑わず、もっとよく仕え、もっと賛美すべきなのかもしれない。だが、goldheadさんの文章を読むと、それでいいのかという気持ちになる。
 
 
  *    *    *
 
 
 私はまだ、脳内に渦巻いているものをうまく書けていない、と思う。「コツコツ努力する」は、私が言いたかったことの一部でしかない。goldheadさんが書いていたことのメインテーマ……でもなかったような気がする。ただし、「コツコツ努力する」をはじめとする現代社会の常識に、今の私が強い違和感をおぼえていることはよくわかった。私自身は「コツコツ努力する」が得意な部類とおもわれ、それで社会適応を助けられたが、すべての人にこれが求められるのは、何か違う、と思わずにはいられない。