シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「自分の市場価値」がついてまわる社会と、その疎外

 


 
 この手のメールを受け取ったことは、一度や二度ではない。けれども今回、携帯キャリア会社からこのメールが届いたことにはちょっと驚いた。さんざん使っているPCのメアドに届くなら理解できるし、珍しくないことなのだけど、ほとんど使っていない携帯キャリアのメアドに「自分の市場価値を測ってみませんか」が届くということは……全国のあらゆる人間にこんなメールが送られているのだろうか。
 
 人間の市場価値とは、どういうものか。
 
 お金をどれだけ稼げるか、どれだけ人気者か、どれだけ他人に好ましい影響を与えられるか、等々によって現代人は他人を値踏みし、と同時に値踏みされることにも慣れている。就活や婚活などはその典型で、純粋な就労能力だけでなく、性格や容姿、趣味や身振りなども含めた、トータルとしての人間の市場価値が測られる。いまどきは、SNSの被フォロワー数なども人間の市場価値の一部とみなされるかもしれない。
 
 だが、こうした値踏みの習慣が昔から一般的だったわけではないし、これほどあからさまだったわけでもない。少なくとも、携帯キャリア会社をとおしてあらゆる人間に「自分の市場価値を測ってみませんか」などというメールがばらまかれ、それが自然に受け取られるほど一般的ではなかったはずである。
 
 この、人間が値踏みされる習慣や通念について、最近読んだ『いかにして民主主義は失われていくのか』という本にスケールの大きい見取り図が記されていたので、それを引用しながら、私なりの考えを膨らませてみる。
 
 

あらゆるものの市場価値化としての「新自由主義」

 
 

いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃

いかにして民主主義は失われていくのか――新自由主義の見えざる攻撃

 
 
 政治学者のウェンディ・ブラウンは著書『いかにして民主主義は失われていくのか』のなかで、新自由主義のロジックが社会に徹底されるようになったことで、民主主義が危機に直面している、と述べる。教育や農業の現場で起こっている新自由主義的変化を紹介したり、人間の考え方や暮らしかたそのものの市場化(ホモ・エコノミクス化)のプロセスを説明したり、なんとも読み応えのある書籍だった。
 
 資本主義のロジックが人間に徹底されること、ひいては新自由主義のロジックが人間に徹底されることとは、人間がお金にがめつくなること、ではない
  

新自由主義とは理性および主体の生産の独特の様式であるとともに、「行いの指導」であり、評価の仕組みである。
『いかにして民主主義は失われていくのか』P14

 

 本書が提案するのは、新自由主義的理性がその相同性を徹底的に回帰させたのだということである。人も国家も現代の企業をモデルとして解釈され、人も国家も自分たちの現在の資本的価値を最大化し、未来の価値を増大させるようにふるまう。そして人も国家も企業精神、自己投資および/あるいは投資の誘致といった実践をつうじて、そうしたことを行うのである。
(中略)
 いかなる体制も別の道を追究しようとすれば財政危機に直面し、信用格付けや通貨、国債の格付けを落とされ、よくても正統性を失い、極端な場合は破産したり消滅したりする。同じように、いかなる個人も方向転換して他のものを追究しようとすると、貧困に陥ったり、よくて威信や信用の喪失、極端な場合には生存までも脅かされたりする。
『いかにして民主主義は失われていくのか』P14-15

 
 ブラウンのいう新自由主義 Neoliberalism とは、学校も、政府も、個人の価値基準や習慣も、すべてが企業化、法人化するような、そのようなものである。たとえば新自由主義のもとでは、学校の良し悪しとは、どれだけ自分の頭で考えられる自由な人間を作り出したかではなく、どれだけ収入の大きな人間を作り出したかによって測られる。
 
 人間もまた然り。人間が、生産価値や消費価値といったもので測られることはそれまでにもあったけれども、新自由主義の浸透した社会ではもっと進んで、投資効果や費用対効果にもとづいて人間が値踏みされる。人間の行動原理も新自由主義的になり、企業としての自分、法人としての自分のバリューを拡大することが現代人の関心のまとになる。学校を選ぶのも、パートナーを選ぶのも、インスタグラムにアップロードする写真を選ぶのも、すべてこうしたバリューの拡大という関心に基づいたものとなる。
 
 ブラウンはさらに踏み込んで、そもそも今日のホモ・エコノミクスほど徹底的に新自由主義的となった個人は、もう「関心」というものを持たないかもしれない、とも述べている。企業化・法人化してしまった個人に、ほんとうに「心」などというものは必要だろうか? 
 
 政治の良し悪しも、どれだけ資本主義経済に仕え、貢献したのかによって測られることになる。ガバナンス、ベストプラクティスといった企業のボキャブラリーが政治のボキャブラリーになっていくと同時に、経済合理性の追求が政治の至上命題になっていく。
 

 端的に言えば、ベストプラクティスは、統治、ビジネス、知の活動を非市場的価値や目的をさりげなく追放する市場のエピステーメーへ親和的にするだけでなく、合併させてしまうのである。ベストプラクティスが新自由主義体制において、かつては明瞭に区別されていた統治、ビジネス、知の意図や目的を重ね合わせるとき、それはこうして重層化によって、規範への挑戦を新自由主義的理性へと去勢するか、あるいは逸脱させてしまうのである。
(中略)
 たんなる技術であると主張しながら市場価値を携えることによってこそ、ベストプラクティスはある種の規範を喧伝し、規範や目的についての議論をあらかじめ排除するのである。
『いかにして民主主義は失われていくのか』P159

 
 ブラウンは、人間の経済的特徴は近代以前から存在してはいるが、それは政治的な特徴と並び立っていたのであって、近代市民社会が実現した後も人間はホモ・エコノミクスであると同時にホモ・ポリティクスであった、とみなす。ところが人間も政治も資本主義のロジックに飲み込まれ、経済合理性に仕えるようになったことによって、近代市民社会を成立させていた民主政治が危機に直面している、というのである。
 
 『いかにして民主主義は失われていくのか』には、政治、経済、個人といった言葉にくわえて、統治、規範、様式といった言葉が多用されていて、ちょっと読みにくいところがあるかもしれない。しかし「自分の市場価値を測ってみませんか」というメールが届く社会、お互いに値踏みしあうことが当たり前になった社会のことを、よく説明していると私は思う。大学英語民間試験や東京オリンピック周辺で起こっている現象とも相性が良い。
 
 いろいろな意味で、日本もまた、新自由主義化しているのだろう。
 
 

「ところで、日本に近代市民社会は来ましたっけ?」

 
 ただ、この書籍を読んでいて改めて気になった点がある。
 
 ブラウンは、ソクラテスやアリストテレスからはじまり、近代市民社会へと脈々と受け継がれてきた政治のロゴスを踏まえたうえで、アメリカの新自由主義について議論している。なるほど。アメリカやイギリスやフランスには実際そのようなロゴスの継承があって、近代市民社会が成立してきたのだろう。
 
 ということは、この話は日本や韓国などにはあまり当てはまらないのではないだろうか。
 
 日本にも、近代市民社会を成立させるために頑張ってきた先進的な人々がいたことを、私は知っている。戦前には自由民権運動や大正デモクラシーがあったし、戦後も大都市圏の住宅地では市民運動が盛んに起こっていた。そうした人々には近代市民社会は到来し、彼らは実際、市民だったのだろう。 
 
 だが、そうやって近代市民たりえたのは、日本国民のいったい何パーセントぐらいだったのだろうか? 大正デモクラシーは、どこのどういう人々に、どれぐらい受け容れられたのか? 戦後の市民運動は、どれぐらいの期間、どの程度の人々に支持されていたのか?
 
 

団地の空間政治学 (NHKブックス)

団地の空間政治学 (NHKブックス)

  • 作者:原 武史
  • 出版社/メーカー: NHK出版
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  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
 たとえば『団地の空間政治学』を読むと、戦後のニュータウンにおける市民運動の熱気が伝わってくるし、そのような市民のマスボリュームが小さくなかったことが窺われる。しかし、そのような市民運動の全盛期でさえ、地方では保守政党が支持され、その支持のありようは近代市民社会というよりは前近代的な、いささか権威主義的なものだった。少なくとも私が学生だった頃の北陸地方の自民党政治とは、そのような雰囲気のものだったと記憶している。
 
 そして各都道府県の自民党支持率の推移などを見るにつけても、この国が近代市民社会たりえた期間は短く、その程度や範囲は限られていたのでないか、と思わざるを得ない。
 
 周知のように、現在の自民党は「若返り」を果たしている。多分に前近代を引きずっていた自民党は、前近代ではない何者かになった。だからといって自民党が近代市民社会の政党になったようにもみえない。小泉元首相の改革からこのかた、自民党はおそらく、ブラウンのいう新自由主義に親和的な政党へと変貌し、そのように政策を推し進めてきた。
 
 
 [関連]:若者はなぜ自民党を支持するのか|研究・産学連携ニュース|中京大学
 
 
 そんな自民党を支持している若い人々は、みんなホモ・エコノミクスとしてカリカリに訓練されているのかもしれない。「仕方なく自民党を支持している」「ほかに頼れる政党がないから」と主張する人もいるだろう。だがそもそも「自民党が他の政党よりマトモにみえて、他の政党より仕事をしているようにみえる」その判断基準じたいがブラウンのいう新自由主義的ロジックに染まっていれば、非-新自由主義的な政党は正統性の乏しい、マトモではない政党とうつるだろう。
 
 だから私は、20世紀中頃に市民運動に参加した人々を例外として、この国の政治は前近代から新自由主義的状況にジャンプしたのではないかと考えているし、ひいては、多くの人々の意識や習慣も近代市民社会を経由することなく、前近代から新自由主義的状況にジャンプしたのだろう、と想像している。
 
 ブラウンの議論のうち、近代市民社会についてのくだりは、日本のかなり広い範囲には該当するまい。資本主義と並び立ってしかるべき近代市民社会のロゴスや、ホモ・エコノミクスと並び立ってしかるべきホモ・ポリティクスが根付かないうちに、モノも人も思想も習慣もとことん資本主義化した社会がやって来てしまった。
 
 

市場価値を問い続ける社会からの疎外

 
 だいぶ長い文章になってしまったので、そろそろ終えよう。
 
 資本主義化の徹底によってベネフィットを得た人も多かろう。が、この状況に疎外されている人もまた多かろう。そもそも新自由主義が徹底した国はどこも、たくさんの人々が疎外されていると同時に、そのような状況が新自由主義的ロジックにもとづいて正当化され、「筋が通っている」とみなされている。政治も人間も資本主義に飲み込まれてしまった社会のなかで、資本主義の徹底に抵抗するのは、カトリック全盛期のヨーロッパでカトリックに抵抗するのと同じぐらい難しいのではないだろうか。
 


 
 人間という存在は、法人でも企業でもない。生身の、こころを持った、実存的存在である人間は、市場価値というモノサシのなかで簡単に疎外されてしまう。新自由主義が徹底した国ではたいてい、抗うつ薬が劇的に売り上げを伸ばしている。そのような疎外や抑鬱も、「筋が通っている」とみなされてしまってはどうしようもない。
 
 「自分の市場価値を測ってみませんか」というメールが届く社会を、その「筋の通っているさま」を含めて批判するのは、とても難しいことのように思える。だからといって、この社会状況を黙って肯定して構わないものだろうか? とても、そんな風には思えない。
 
 
資本主義リアリズム

資本主義リアリズム

  • 作者:マーク フィッシャー
  • 出版社/メーカー: 堀之内出版
  • 発売日: 2018/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)