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クリスマスイブにちょっと心温まるニュースを発見してしまった。
革命的非モテ同盟が、2年ぶりにクリスマス爆砕デモを行ったのだという。リンク先の記事はこう報じる。
“恋愛資本主義”の打倒を掲げる団体「革命的非モテ同盟」は12月21日、渋谷駅周辺で恒例の「クリスマス粉砕デモ」を実施した。ニコニコ生放送による中継が行われる中、参加者たちは約40分間にわたり、クリスマスの機運が高まる街中を練り歩いた。
昔の私は、この手の非モテパフォーマンスをただバカバカしく思っていた。ところが歳月が流れても活動が受け継がれている。曲がりなりにも運動が継承されているのを見ると、ちょっと考えてしまう。それと、クリスマスやバレンタインを恋愛資本主義の象徴とみなしてデモンストレーションする、その姿勢が00年代当時よりも「さまになっている」と私は感じてしまった。
少し前に、私は資本主義的なパートナー選択を前に、旧来のロマンチックラブは敗北した、みたいな文章を書いた。
「革命的非モテ同盟が恋愛資本主義の打倒を掲げる」と言った時、彼らが攻撃しようとしているのが恋愛=ロマンチックラブのほうなのか、それとも資本主義のほうなのか、それはわからない。しかし男女交際や配偶からロマンチックラブが後退し、婚活やパパ活も含め、資本主義のロジックが強まっていく昨今の事情を踏まえると、恋愛資本主義への反対は、恋愛を呑み込んだ現代の資本主義システムのありように対する反対のように、私には見えやすくなっている。
いまどきの男女のバリューは年収だけで評価されるものではない。容姿や振る舞い、年齢、性格、人脈、趣味、そういったあらゆるものを評価したうえで恋愛市場・婚活市場でのバリューが決まる。このことをもって資本主義から遠ざかったとみなすのはもちろん間違っていて、個人の資質や属性のすべてが商品価値や生産価値として値踏みされるようになった、とみなしたほうが現実に即しているだろう。社会学者の本田由紀が語ったハイパーメリトクラシーの図式は、男女交際や配偶の領域にも当てはまる。
多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで 日本の〈現代〉13
- 作者:本田 由紀
- 発売日: 2005/11/01
- メディア: 単行本
ハイパーメリトクラシー化した恋愛資本主義が当たり前になった、この世知辛い世の中において、恋愛資本主義に反対するとは、現在の資本主義システムの成り立ちそのものに反対するようなものであり、現代社会を成り立たせている道理に反対しているも同然ではないか?
今から十年以上昔、はてなダイアリー周辺では、恋愛資本主義についてさまざまな議論があった。
いわゆる「非モテ」論は玉石混交だった。
が、「こんなのはおかしい」と声をあげている人々がいたのは事実である。
当時の彼らも、現代の革命的非モテ同盟の人々も、世間の道理に難癖をつけるという、天に唾するようなことをやっているわけで、たくさんの人に笑われていたし、今でも笑う人はいるだろう。
じゃあ、当時の彼らが天に唾したところの世間はその後どうなったのか?
- 作者:堀井 憲一郎
- 発売日: 2006/04/19
- メディア: 新書
1980~90年代にかけて、男女交際は資本主義化されていった。クリスマスやバレンタインデーをはじめ、若者の性を商品化し、消費個人主義の差異化のアイテムとして認識させ、恋愛を義務と錯覚させたマーケターたちの思惑に、すっかり世間は乗せられてしまっていた。では、そうやって商品化され、義務であると錯覚させられた男女交際の行先はどうなったのかといったら、当該世代は非婚化の道を歩み、少子化は決定的なものとなった。そしてイベントとしてのクリスマスもバレンタインも死に体になってしまった。
不景気や高齢化が重なってのことだとは思うが、今年の街のイルミネーションはひときわ寂しく、浮かれた雰囲気はどこにもない。地方にも東京にも寂しいクリスマスがやってきた。
この寂しいクリスマスをみるに、しゃにむに走り続けてきた資本主義化された男女交際には、なにか、大きな間違いがあったのではないか。それは資本主義の駆動という点では最適解だったのかもしれない。だが、社会の存続や個々人の福利にまで最適だったと言っていいのか、よくわからない。
80~90年代の恋愛志向には女性の(または若い男性の)主体的選択という意味合いもあり、少なくとも親やきょうだいによって主体的選択を剥奪されるおそれが無くなったのは進歩だった。とはいえ、主体的選択ができるようになったからといって若い男女が皆ハッピーになったわけではないし、「主体的選択ができる」というこのお題目じたい、ハイパーメリトクラシーした恋愛市場において、すべての男女を利するものではない。
「あなたには主体的選択ができる」というお題目をいくら与えられても、いわば、モテない男性、モテない女性には主体的選択の余地など画餅に過ぎないのだから。
そのうえ、主体的選択ができるというお題目を唱える者は、自己責任という十字架を背負わなければならない。
革命的非モテ同盟は、失恋の傷心を抱いていた創始者が『共産党宣言』を読み、興したものだという。創始者はお調子者の人物だったので、彼が本気だったのかはわからない。案外、モテない鬱屈をデモで晴らしたかっただけなのかもしれない。だがともあれ、彼の後継者たちは資本主義のロジックにもとづいた現代の男女交際に批判の声をあげ続ける。
彼らを非常識、時代錯誤と笑うのは簡単だ。
しかし、彼らを笑う側である私たちとその社会は、数十年かけて浮かれたクリスマスを沈鬱なクリスマスへと変貌させてしまった。
だからまあ、ああいう活動もあったほうがいいのかなと今は思う。
革命的非モテ同盟の皆さん、今後も活動頑張ってください。