シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

特別展「東寺─空海と仏像曼荼羅」で、お参りしたい自分に気付いた

 

 
特別展「国宝 東寺-空海と仏像曼荼羅」
 
 
 仏縁に導かれて、東京国立博物館で開催している『特別展「国宝 東寺─空海と仏像曼荼羅」』を観に行ってきた。というより仏様に会いに行く気持ちで出かけたのだけど、さすが博物館での開催、そこには仏様ではなく仏像が展示されていたのだった。
 
 

「仏教美術を堪能したけど、お参りはできなかった」

  
 中国伝来の仏具や空海直筆の手紙なども素晴らしく、私の大好きな胎蔵界曼荼羅もババーンと貼られて気持ちが高まったが、今回の展示のクライマックスは、東寺の講堂にいつも並んでいる仏像たちだった。京都は遠い。なかでも、京都駅から南側に向かう東寺は意識しない限りは回らない。それに比べると上野の東京国立博物館は簡単だ。首都圏に出たついでにスッと行ってこれる。
 
 はたして、東寺講堂の仏像が立体曼荼羅をなしているさまは壮観だった。仏像スキーな人で首都圏在住の人は、これのために出かけたっていいと思う。いつもは講堂にすし詰めになっている明王さまや菩薩さまが、広いスペースに展示されている。しかも仏像を前後左右から眺めることだってできる。こういう観察はお寺ではできっこない。平安時代の仏教芸術を、気が済むまで堪能した。
 
 そして会場を後にした時に、はたと気付いた。
 
 そうだ、今日は私は手を合わせていなかったのだった。
 
 私は仏教美術を堪能したけれども、仏様に手を合わせてはいなかったし、お経も唱えていなかったし、お賽銭を入れてもいなかった。
 
 

 
 今回の展示で、一体だけ写真撮影OKになっていた、この帝釈天像を見返しても、これが仏教芸術の傑作として展示されていたことがわかる。仏教芸術の傑作として鑑賞するのに適した展示だし、これは、東京国立博物館の特別展なのだからそうでなければ困る。
 
 ということは、仏様として拝むような、御仏の教えに思いを馳せる一連の構造物としては機能していない、ということでもある。
 
 昔から、お寺の仏像が博物館などに展示される時には「御霊抜き」をされるといわれている。最近は現地で魂を入れることもあると聞いているが、ともあれ、博物館で展示されている時には仏像として展示されているのであって、崇拝の対象として仏様が安置されているわけではない。
 
 この帝釈天像にしても、立体曼荼羅の仏像たちにしても、人々が崇拝するのに適した展示になっているわけではなかった。あえて俗っぽい言い方をするなら、「賽銭箱のひとつも仏像には並置されていなかった」。
 
 私は仏教美術展に来ていたはずだったが、本心としては、仏様をお参りしたがっていたらしい。冒頭に「仏縁に導かれて」と書いたが、実際、そうだったのだろう。平安時代最高峰の仏教美術に溜息を洩らしながらも、ああ、仏様に手を合わせたい気持ち、お参りしたい気持ちが消化できていなかった。帰りに浅草寺にでも寄っておけば良かったのかもしれない。
 
 
 

「お参りできる仏様たち」

 
 お寺に安置されている仏像は、魂が入っているだけでなく、お寺というコンテキストのなかで仏様として機能している。
 
 

 
 
 例えばこの弘法大師さまは、みんなが仏様としてお参りしているもので、実際、礼拝されるセットのなかに安置されている。お寺の人が毎日礼拝している形跡もある。もちろん私は手を合わせるし、訪れた他の人々も手を合わせていく。
 
 

 
 
 こちらの薬師如来さまも、お参りの対象としてフルセットの状態だ。
 
 これらの仏様は、仏教美術という点でみれば特別展の仏像たちに及ばないし、前後左右からしげしげと眺めやすく展示されているわけでもない。そのかわり、手を合わせたい気持ちのままお参りするには完璧な状態になっている。国立博物館で仏像に手を合わせて拝んだら奇異の目でみられるかもしれないが、これらの仏様に手を合わせて拝んでも奇異の目でみられる心配はない。むしろ、手を合わせないほうが奇異の目でみられかねない。
 
 お寺、それと西洋の場合は教会には、私のお参りしたい気持ちを昂らせる何かがある。
 
 

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)

 
 
 ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』のなかで、複製可能な現代作品とそれ以前の作品を比べてアウラ(今風に言うならオーラ)が有るとか無いとかいったことを語った。インターネット上でライブ的なコンテンツが栄える2010年代に、このベンヤミンの筋書きがどれぐらい適用できるのかはわからないが、ともあれアウラは古い仏像全般に宿っていて、それ以上に、お寺に安置されている仏様にはビンビンに宿っている。なぜならお寺の仏様は、個別の美術品ではなくみんなでお参りされるものだし、お参りされる対象として安置されているからだ。お寺の仏様はお寺ごとアウラに包まれていて、私はそのアウラのなかでアウラの溢れる仏様に手を合わせる。
 
 国立博物館で展示される仏像にも、もちろんアウラはある、なにしろ平安仏教美術なのだから。だけど美術館という場所で個人が仏像と対峙する時、お寺ごとアウラに包まれるなんてことはない。美術館という場所にも相応のコンテキストがあるとは言えるけれども、美術館はお寺ではなく、鑑賞するための場所ではあっても礼拝のための場所ではない。
 
 まあ、そんな御託は置いといて。
 
 子ども時代からの習慣の延長線上として、私には仏様に手を合わせたい欲求が間違いなくあって、だから私はちょくちょくお寺に行く。仏教芸術を「鑑賞」する機会は、それに比べればずっと少ない。私は、仏様にお参りすることには慣れているが、仏教芸術を鑑賞することには慣れていないのだろう。というか、慣れていないと今回の件でわかった。
 
 
 

「そうだ、東寺行こう。」

  

 じゃあ、私はどうすれば良いのか。
 
 決まっている。お寺に行くしかない。お寺を詣でて、諸行無常のならいのなかで生きるということを、因縁・縁起の考え方にもとづいて思い返そう。そうやって、世の中のモノの見方を仏教フォーマットに定期メンテナンスしておかないと、どうも私は駄目らしい。
 
 そして再び出かけよう、むせかえるほどのアウラに包まれた東寺と、その講堂に。