シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

マミさんには解脱や涅槃は似合わない。菩薩行がよく似合う

 
anond.hatelabo.jp
 
 『魔法少女まどか☆マギカ』の巴マミさんにかこつけて、初期仏教の素晴らしさを説く記事を見かけました。
 
 なるほど、初期仏教が良いことに異存はありません。
 
 しかし、大乗仏教を信奉し、マミさんの魅力もまた大乗仏教的だと感じる私としては、「いや、マミさんがしっくり来るのは初期仏教じゃなくて大乗仏教なんじゃないか?」と思ったので、制限時間40分で思うところを書いてみます。
 
 

マミさんには解脱や涅槃なんて無理ですよ

 
 まず、マミさんには阿羅漢だの解脱だのといった、仏教でいうところの自力本願が難しいと考えざるを得ません。
 
 もともと、魔法少女とは、執着の強い存在です。
 
 何かを願って奇跡を起こす存在としての魔法少女。強く何かを願えること、強い奇跡を起こせること自体、その背景として、強いエネルギーを、執着を必要とせずにはいられません。暁美ほむらにしても、彼女が諦めることなく時間を巻き戻して戦えたのも*1、それだけ、彼女がまどかという存在に執着を募らせていたこそからでしょう。
 
 強い魔法少女には、強い執着がある、と考えて差し支えないのではないでしょうか。いや、現世においても、強い人間には、強い執着があるように思われますが。
 
『魔法少女まどか☆マギカ』という作品自体が、そういった執着や囚われの因業が巡っていく作品なわけですから、初期仏教の目指すような阿羅漢の境地に辿り着くのは、なかなかに困難でしょう。
 
 で、マミさんについて考えるなら、尚更と言わざるを得ません。
 
 彼女には執着の片鱗がたくさんみられます。
 
 後輩に対して良き先輩でありたい。
 
 綺麗な住まいに住んで、甘いお菓子を後輩と一緒に食べていたい。
 
 一人ではいたくない。
 
 自分の技芸に、それらしい名前*2をつけずにはいられない。
 
 冒頭リンク先の筆者さんは、マミさんについて
 

たとえばマミさんは現在こそ後輩女子との姉妹愛を求める中学生ですが
更に孤独感を深めると飲酒や妄りなセックスを覚えて依存していきがちなタイプに見えます。注意が必要です。

 と、まるで、一世代前の聖職者が若い女性を戒める時の台詞めいたことを書いていますが、とにかく、彼女に執着があるのは事実でしょうし、その執着が最悪のかたちで具現化すれば、飲酒やセックスに溺れるといったことも無いとは言えないかもしれません。
 
 もちろん、魔法少女の場合は、飲酒やセックスに溺れる以前に、「ソウルジェムが濁る」のでしょうけれど。
 
 
 話を戻しましょう。
 
 とにかく、そういう、執着が露わにみてとれるマミさんが、瞑想だなんだで阿羅漢の境地、解脱の境地に辿り着けるとは、私には思えないのです。
  
 もちろん、仏教の基本のひとつである「戒」は、魔法少女にも有用だとは思います。真言宗智山派、智積院のウェブサイトから十善戒を引用すると、
 

不殺生(ふせっしょう)むやみに生き物を傷つけない
不偸盗(ふちゅうとう)ものを盗まない
不邪婬(ふじゃいん)男女の道を乱さない
不妄語(ふもうご)うそをつかない
不綺語(ふきご)無意味なおしゃべりをしない
不悪口(ふあっく)乱暴なことばを使わない
不両舌(ふりょうぜつ)筋の通らないことを言わない
不慳貪(ふけんどん)欲深いことをしない
不瞋恚(ふしんに)耐え忍んで怒らない
不邪見(ふじゃけん)まちがった考え方をしない

http://www.chisan.or.jp/taiken/juzenkai/

 これらは、在家の大乗仏教徒でも守りなさいと勧められているものです。
 
 こうした「戒」は、自分の執着が汚れた方向に向かわないようにするための、つまり、ソウルジェムが汚れてしまわないようにするための、一種のライフハックみたいなものです。仏教に限らず、一神教の領域にも「戒」に相当する決まり事はあるでしょう。
 
 現実の人間であれ、魔法少女であれ、こういった心がけは健やかに生きていくにあたって重要なものです。
 
 とはいえ、24時間、完璧にこれらを守りきれる人なんてまずいません。
 
 「戒」を守って、慈悲を念じて、瞑想すれば誰でも解脱や涅槃に辿り着けるなら、世の中は、もっと解脱した人で溢れているのではないでしょうか。しかし現実はそうではなく、仏道を真面目にやっている人も執着にまみれて生きているし、運動・野菜・瞑想をやたら推している人達にしても、阿羅漢や解脱の境地からは程遠いわけです。
 
 である以上、マミさんが初期仏教の方向で自力本願に励んだとしても、執着を寂滅する境地には至らず、もがき続けるのではないでしょうか。
 
 

あのとき、マミさんはキュウべえに「涅槃」を願わなかった

 
 
 そもそも、マミさんが事故に遭ってキュウべえが現れた時、彼女は「涅槃」を願うべきだったのではないでしょうか。
 初期仏教のゴール設定から考えるなら、そうならざるを得ません。
 
 キュウべえをもってすれば、一人の人間が阿羅漢になる程度の奇跡など朝飯前でしょう。宇宙全体の因果の流れを改変してしまうのでなく、一人の人間が因果の流れから出ていくだけなら、彼の生業にもあまり影響はないでしょうし。
 
 しかし、マミさんは「生」を願いました。自分だけの生を願ったのか、家族全員の「生」を願ったのかちょっとわかりませんが、とにかく、願いが「涅槃」でなかったのは確かです。マミさんは生きていたかったのです。
 
 私は、「涅槃」を願うことなく、生きることを選んで、ときには美しく、ときにはみっともなく生きあがくマミさんのことが大好きです。解脱や涅槃を願うなら、生きあがく人間が好きなどと言ってはいけないのかもしれませんが、思うに、『まどか☆マギカ』という作品の魅力の80%ぐらいは、そうやって生きあがく人間達の、美しさやみっともなさで成り立っているのではないでしょうか。
 
 

マミさんは菩薩だ。菩薩の道を歩んでいらっしゃる

 
 で、マミさんが魔法少女になった後に何をしたのかというと、魔女から人々を守るために孤軍奮闘し、まどか・さやかに出会ってからはできるだけ良き先輩であろうと努めたのでした。
 
 第三話で語られていたとおり、マミさんは、自分が魔法少女になってしまったことに不安もあったし、寂しさも抱えていました。その後の展開が教えてくれるとおり、マミさんは不完全で、弱さも抱えた人間だったわけです。
 
 それでもマミさんは、魔法少女として、あるいは一人の人間として、他人に対して自分ができることを為そうと努めていました。
 
 もちろん、そうした努めのなかには、彼女自身の執着によって駆動していた部分もあるでしょう。彼女の活動は、純粋に他人のためだけに尽くしていた、とは言い切れない部分もあります。
 
 でも、人間のやることなんて、多かれ少なかれそういうものじゃないですか。私は、マミさんの活動の動機のなかに、彼女自身の執着が混じっていることを批判できません。だって、それが人間ですから。
 
 (私が理解しているところの)大乗仏教では、解脱や涅槃といった“ゴール”に辿り着いていなくても、世の中のために出来る限り頑張っていく人のことを菩薩と呼びます。
 
 菩薩といえば、地蔵菩薩や弥勒菩薩などが有名で、阿弥陀如来や釈迦如来と何が違うんだと思う人もいるかもしれません。が、悟りを開いて文字どおり成仏している如来とは違って、菩薩はいまだ修行中の身です。あるいは成仏なんて二の次にして、衆生を救うために頑張っているのも菩薩です。
 
 そうやって考えていくと、魔法少女ってのは、いや、人間はみんな、菩薩になり得るとも言えます。慈善事業も、ネットビジネスも、文芸活動も、良かれと思って努めるものである限り、菩薩行と言って良い側面を持ち得るでしょう。むろん、人間のやることですから、良かれと思って努めた結果、悪い結末がもたらされることもあるでしょう。それでも、そうやって不完全な者同士が繋がりながら生きているのが人間だとしたら、さしあたって、執着に対峙するという意味でも、善行を心がけるという意味でも、私達は菩薩行に励むしかないと思うのです。
 
 こういう風に考えると、マミさんの美しさや愛らしさも、弱さや脆さも、菩薩行に邁進する人間の性質を反映しているように思います。
 
 マミさんの魅力は、阿羅漢や涅槃者の魅力ではなく、菩薩行に励む者の魅力ではないでしょうか。
 
 

たくさんの菩薩行の末にまどかが現れる物語

 
 マミさんに限らず、ほかの魔法少女の魅力もまた、不完全な人間が精一杯つとめている類のものだと私は理解しています。唯一の例外は「最終回の鹿目まどか」で、なるほど、最終回のまどかは阿弥陀如来に比肩されるべき存在ですが、そのまどかにしても、前の段階では一人の善良な少女でしかなかった――つまり菩薩だった――のです。
 
 最終回に阿弥陀如来モードに入る以前のまどかは、さしづめ、法蔵菩薩*3といったところでしょうか。
 
 私は、第十話に出てくる「キュウべえに騙される馬鹿な私を助けてあげてくれないかな?」と言いながらほむらにグリーフシードを差し出すまどかがとても好きです。この時のまどかは、最終話のまどかと違って、マミさんや他の魔法少女に近い。
 
 不完全ではあっても最善を尽くしているがゆえに、魔法少女のソウルジェムは少しずつ濁っていかざるを得ないし、そのままずっと生き続ければ、いつか、魔女になってしまうのは必然かもしれません。それは、現実世界の人間でも同じで、えてして、一番善き行いを心がけている人、一番高邁な理想に向かって突き進んでいく人の心が、一番激しく痛んで、一番汚れていくものではないでしょうか。
 
 そんな、現実の寓話のようにもみえる魔法少女たちの菩薩行が、ほむらの超人的な努力の積み重ねの甲斐もあって、最終的にアルティメットまどかによって救われるわけですから、まどかが阿弥陀如来に喩えられるのも納得がいきます。
 
 私は大乗仏教が好きな人間なので、魔法少女達が菩薩行に励んでいることにも、最終的にまどかが救済をもたらしてくれる展開にも、心を強く動かされました。グダグダと書いてきて、結局何が言いたいのかっていうと、マミさんはマミさんのままでも最高で、すごく魅力的だってことです。
 

 

魔法少女まどか☆マギカ ねんどろいど 巴マミ (ノンスケール ABS&PVC塗装済み可動フィギュア)

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*1:そして、その因果としてワルプルギスの夜を一層肥大化させていったのも

*2:ティロ・フィナーレなど

*3:注:阿弥陀如来が如来になる前の、菩薩の時の呼び名