シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

悲しさを忘れるために何かに没頭することの是非

 
 悲しいことがあった時、悲しさから逃れるため・心の空白を埋め合わせるために、何かに没頭する人は少なくない。
 
 悲しいことがあった時こそ休まず出勤する、それどころか、いつもより長く仕事をする人がいる。あるいは、いつもより長くランニングする人、いつもより長くweb小説を読む人。それらは、悲しさに押しつぶされずに日常生活を維持するための行動として、理解できるものではある。
 
 反面、悲しさを忘れるための没頭には、危なっかしい面もある。
 
 悲しさを忘れるための没頭は、悲しさが心の中や頭の中に蘇ってこないようにするのが目的なので、なるべく長時間続けようとしがちだ。多少の疲労があったとしても、悲しさが蘇ってくるより少し疲れていたほうが気持ちとしては楽なので、疲れたまま、いつもより多く仕事をしたり、いつもより多くランニングしたりすることになる。
 
 哀しさを忘れるための没頭は、ゆえに、疲労の蓄積に鈍感になってしまいやすい。
 
 悲しいことがあった後、心に必要なのは――いや、神経に必要なのは――気分転換以上に、たくさん寝ること、休養をとることだ。もちろん悲しいから眠れない・休めないというのはわかる話で、それが持続し、悪くなる一方なら医療の助けが必要な場合もあるかもしれない。なんにせよ、睡眠や休息を軽視して、悲しみから逃れるために疲労をおして働き続ける・遊び続けると、神経にとって大きな負担になる。やり過ぎれば、かえってメンタルヘルスの危険を招きかねない。
 
 それともう一つ。悲しさを忘れるために何かに没頭する行為は、とりあえず悲しさを意識から追放することはできるけれども、悲しさを葬送するには向いていない。悲しさは、忙しさによって当座の間は追い払えるが、忙しくなくなったら舞い戻ってきてしまう。悲しさが舞い戻ってきた時に心身が疲弊していると、悲しさはものすごく堪える。悲しさを忘れるために没頭して疲れ果てている時に、葬送されざる悲しさが不意に戻ってくると、にっちもさっちもいかなくなる。
 
 じゃあ、どうすれば良いのか。
 
 私は、どうしようもないんじゃないかと思う。
 
 せいぜい、今までどおりに働き、今まで通りに遊び、むやみやたらに生活のペースを乱さず、できるだけ自分の神経に負荷をかけず、しみわたるような悲しみが全身から抜けていくのを、じっと待つしか無いのではないだろうか。
 
 悲しみは、何かに没頭すれば無くなるかのように思っている人がいるが、違うと思う。いつも以上に何かに没頭しながら、後は時間が解決するのを待つ……というのは、一見、賢い方法にみえるが、それで追い払える悲しみは、せいぜい、数日程度で忘れられるレベルのものでしかない。年単位で葬送しなければならないような、大きく深い悲しみは、没頭による逃避では忘れきれない。忘れるよりも先に、心身がへばってしまう。
 
 それよりは、悲しみを抱えて暮らしながら、いつか、悲しみが占めている部分が別の何かによって埋められていく日が来るのを、じっと待ったほうが得策なのだろうと思う。
 
 人は、目の前に大きな悲しみが現れた時に、その悲しさを忘れるために、つい、何かに没頭してしまうし、それは短期的には有効な適応機制ではある。けれども、短期的にはどうにもできそうにない、大きな悲しみに対しては、それがむしろ不適応や不健康を招くおそれもある。悲しみに対処するのはとても難しいものだが、身体や神経の負担を顧みず、とにかく忘れようとするのは、危なっかしいと思う。