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数日前にBooks&Appsに投稿されていたこの記事には大切なことが書いてあると感じた。ただ、私の着眼とは微妙に角度が違っていて、「シロクマならこう書くぜ!」を書きたくなってたまらなくなったので、持ち時間40分一本勝負で書いてみる。
私も「ちゃんと言葉にする」習慣はものすごく大事だと思っている。
理由のひとつは、精神医療の世界で自分の言いたいことを言語化できない患者さんをたくさん診ているからだ。リストカット、過呼吸、解離や転換*1などで自分の気持ちやストレスを表現する患者さんは、現代社会では社会適応があまり良くない。また、そういった症状が無くても、自分の気持ちやストレスを言語化できず、怒りや悲しみを爆発させて不利な状況を招いてしまう患者さんもたくさんいる。
それらをみていると、自分の言い分やストレスを適切に主張するのは実は簡単ではなく、必ず身に付けられるものでもないことがわかる。精神医療の世界では、「自分の言い分やストレスを言語化できる」ことは大切だとみなされている。ただ言語化するだけでなく、相手の理解力や立場を踏まえながら自分の言い分やストレスを言えるところまで到達したら万々歳だ。
だから、表現の一端として「言葉」を用いるすべはできるだけ身に付けたほうがいいと思っている。
理由のふたつめは、「他人/自分の気持ちをわかる」ための手段として、「言葉」はとても役に立つと思うからだ。
たとえば子どもがコンピュータゲームをやっている時に泣き出したとする。
その涙は一体どんな涙だろうか。
コンピュータのキャラクターに負けて、自分のキャラクターが死んでしまったから泣いているのか?
コンピュータのキャラクターに負かされた、自分自身がくやしくて泣いているのか?
それとも一緒にいる友達に「勝てるよ」と言ったのに勝てなかったから泣いているのか?
平均的な感情生活を送っている成人なら、わざわざ考えるまでもなくわかるだろうし、言語化するのも容易いだろう。
だが、成人にはわかりやすい感情も、子どもにはそうとも限らない。自分の感情がどういうカテゴリーに属していて、どういう言葉で呼ばれているのかは、ちゃんと教えられなければわからない。「悲しい」「悔しい」「恥ずかしい」――そういった言葉にぴったりの心理状態がどういうものなのかを、子どもは学び取っていかなければならない。
もちろん、そういった感情はアニメや絵本からもある程度理解できるかもしれない。
だが、アニメや絵本からの理解よりも、自分自身の気持ちが動いている時に教わるほうが、ずっと実感があって血肉になりやすいと私は思っている。
子どもが泣いている時の感情を読み取り、「そうか、おまえは今、悔しいんだな」「悲しい状態だな、そうだな」と感情を言葉にして確かめてあげると、子どもが自分自身の感情をわかっていくプロセスとしてすごく役に立つように思えるのだ。
と同時に、親が怒ったり悲しんだりした時も、表情をほとばしらせるだけでなく、「なぜ親が怒っているのか」「なぜ親が悲しんでいるのか」を子どもにもわかるような言葉で出来るだけ伝えるのが良いのではないかと思う*2。そうすれば、子どもは親をとおして他人の感情を理解できるようになり、しかも、それを言語化しやすくなる。
もちろんこれは怒りや悲しみだけではない。喜んでいる気持ち、リラックスしている気持ち、緊張している気持ち、そういったものも全部ひっくるめての話である。
なお、念のため断っておくと、言葉を介して自他の気持ちをカテゴライズし、表現することには、副作用が生じる可能性もある。
「悲しい」「悔しい」といった2、3の言葉で気持ちをラベリングするだけだと、子どもの理解も単純なラベリングになってしまう。「悲しい」「悔しい」にもいろいろな種類があり、それを表現するさまざまなボキャブラリーや言い回しがあることを、やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらなければ、子どもの感情理解は貧困なものになってしまうだろう。
それと、親だけがインストラクターになるのもたぶんまずい。気持ちの機敏は人によって微妙に違うものなので、親だけをインストラクターとするのでなく、保育士や教師や友達も含めた複数名をインストラクターとしながらやっていくのが望ましいと思う。そうしておけば、それぞれの親の手癖やコンプレックスの影響を最小限に留められるだろう。
言葉は「察しや思いやり」の敵じゃなくて、味方だ
だから私は、「ちゃんと言葉にしよう」って習慣は、他人の気持ちを察する能力を育てる一助として、むしろ役に立つんじゃないかと思う。芸術家に必要な繊細なところまではわからないとしても、現代社会で標準的に求められる程度の推測能力は、言葉を介した理解とトレーニングで結構いい線までいけるんじゃないかと思うのだ。
自分の気持ちを表現豊かに・適切に言葉にできる人のほうが、そのぶん自分の気持ちの解像度が高くなる。と同時に、他人の気持ちを察する際の解像度も高くなるだろう。親としてはそのための援助を惜しみたくないわけで、だったら、「ありがとう」「ごめんなさい」はもちろん、喜怒哀楽もどんどん言葉を使って表現して、その言葉と気持ちをシェアしながら結びつけるのがいいんじゃないかなぁ、と思って実践している。
少なくとも現代人にとって、言葉は「察しや思いやり」の敵じゃなく味方だと思う。
いや、味方につけるべきだと思う。
そろそろタイムリミットになったので今日はここまで。
以上、こじんのかんそうでした。