雨の降る季節はあらゆるものにカビが生え、洗濯物が乾きにくくなり、水害が起こることもある。気圧の変化や温度の変化のせいで、私の場合、自律神経も失調気味になってしまうからいただけない。生活する、という点でみれば梅雨は厄介な季節でしかない。
けれども年を取るにつれて、この季節が待ち遠しくなり、、2021年も梅雨景色を満喫している。
まず雨のにおい。
いつの季節でも雨のにおいは好ましいものだし、真夏ににわか雨が降る寸前の、埃っぽい乾燥と生ぬるい湿りの混じり合うあの瞬間のにおいはたまらない。6-7月の雨のにおいはというと、さまざまな植物の香りが強く伴っていて、なんというか命の息吹が感じられる。だからアガる。
濡れそぼったアスファルトのにおいと合わさった、庭園の薔薇の香り。紫陽花やゼラニウム、ドクダミやガマにも香りがある。いや、花の香り以上にそれらを咲かせる土壌の香りだろうか。梅雨の季節は、土壌がむんむん匂い立ってくる。クローバーの生えている土壌も人参畑の土壌も田んぼの泥も、この季節ならわかりやすい。
そういうオーガニックなにおいと全体的に濃い色調の緑が合わさって、生命力に満ちた景観ができあがる。最高だ! その生命力はどこからきているかというと、梅雨前線がもたらす雨、ヒマラヤから東アジアに広がるモンスーンの壮大なメカニズムからきているわけだ───そのことを連想するにはこの季節がいちばんいい。9月の台風も雨をもたらすけれど、9月の緑にはメランコリーの気配があるし、そもそもあれは、荒っぽすぎる。
雲を眺めるのも好きだ。
低くたれこめた黒っぽい雲を早がけのように横切っていく小さな白い雲。雲によってフィルタリングされてラムネみたいになった太陽。天球をグレー一色に塗りつぶしてしまう乱層雲。昔は夏の入道雲や南ヨーロッパの(やる気の感じられない)雲のほうが好きだったけれども、梅雨の雲とそれによって生まれる景観のほうが好きだと最近になって気づいた。
うっすらと雨雲に覆われた山野が水墨画のように見える時、川向こうの田園地帯が雨に煙っている時、「これでいいのだ」という気持ちになる。これをナショナリズムと呼ばなければならないのか、郷土愛と呼んで構わないのかはわからない。が、そうした湿潤な景観をみていると「ここで生まれ育って良かった」「これからもここで生き続けたい」という気持ちになる。小雨のふりしきる田んぼにポツンと立つ鷺を見るのもいい。そういった諸々が魂の風景になっているだけでなく、夏がやってくる前触れにもなっているのだ。
虫たちも。
雨の日、草の裏を観察すると蝶が羽を休めている。梅雨も後半になればキリギリスの声が聞こえはじめ、環境の良いところではトンボたちがもう飛んでいる。真夏や秋のトンボは我が物顔に飛び回るイメージがあるが、梅雨のトンボには慎ましさが感じられる。たまにヤゴの抜け殻を見かけたり、脱皮したてのアメリカザリガニを見かけたりすることもある。
近頃は地球温暖化の影響で、こうした気候や風土も変わり始めていると聞く。そうでなくても梅雨の雨には危険が伴い、人がさらわれてしまうことさえある。それでも自分はこうした風土のもとに生まれ、育ててもらったから、この気候を嫌いになることはできないし、いつまでもこの気候に囲まれながら生きていきたいと願う。
書いているうちに雨があがった。山鳩の声が聞こえる。朝の散歩に出かけよう。