シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

クソリプはクソだが、クソリプが書けること自体は尊い。

 
「はてなブックマーク」廃止論 - いつか電池がきれるまで
アメリカの銃規制と「はてなブックマーク廃止論」その後 - いつか電池がきれるまで
 
 6月28日にfujiponさんが書いた「『はてなブックマーク』廃止論」というオピニオンは、いかにもfujiponさんらしい文章だと思いましたが、私自身、はてなブックマークについて考えがまとまっていないので言及しませんでした。
 
 しかし、7月20日の記事で、こんなくだりを見つけてしまいました。
 

 こちらとしても、このエントリに「はてなブックマーク」で賛意が集まるとは全く予想してはおらず、ある意味、予想通りの反応ではありました。甲子園で巨人の応援をするようなものですよね。
 「ブックマークコメント」以外の手段でこのエントリに言及してくれたブログは『はてなブログ』にはたくさんあったのですが、twitterやメールで僕に直接何か言ってきた人はほとんどいなかったのです(というか「皆無」でした)
 『はてなブックマーク』を大切に思っていた人たちに反発されるのは仕方がないのだけれど、ブックマークコメントやこのエントリへの反応を読んでいると、「なんだかなあ」と思ったんですよやっぱり。
 (注:強調文字はシロクマによるものです)

 これを読み、私はfujiponさんが誰かのリアクションを求めていたのだ、と推定しました。
 
 twitterはともかく、「メールで直接何か言ってくる」とは懐かしい響きですね。90年代~00年代の頃は、ウェブサイト管理者同士がメールで意見交換することがよくありました。BBS(掲示板)やICQを使うこともあったけれど、個人的な長文をやりとりする際にはメールを選んでいましたよね。
 
 そのメールを使ったやりとりがブログのトラックバックに取って代わられ、最近はSNSに取って代わられました。しかし、SNS、とりわけtwitterなどは長文の意見交換には向いていません。はてなブックマークも同様です。
 
 140字以内や100字以内のコメントを短冊のようにくくりつけて済ませるのが、いまどきのネットコミュニケーションの流行りなのでしょう。
 
 しかし、そのような短文をコミュニケーションのツールとして赤の他人に対して用いるのは、本当は難易度が高いのではないか、とも思います。俳句や短歌の文字数で伝えたいことを伝えきるのが難しいのと同様に。
 
 長文をメールでやりとりする際には、長い文章を書く手前、それなりに考えて、それなりに時間をかける必要がありました。意見を言語化する際、時間的・認知的コストを十分に費やす必要があり、費やさずに返答するというのはあまりありませんでした。あまりにもぞんざいだと、メールを読んでもらえない懸念もありましたからね。
 
 対して、twitterやはてなブックマークの短文はそうではありません。時間をかけずにコメントできてしまいます。認知的コストを支払わずともコメントできてしまいます。ただコメントするだけという意味では「難易度が低くなった」と言えますが、短時間かつ短文で適切にコメントし、コミュニケーションとして成立させるという意味では長文より「難易度が高くなった」とも言えます。
 
 最近のSNS全般を眺めていて思うのは、「コメントはしやすくなったけれども、双方向的なコミュニケーションはかえって難しくなった」ということです。
 
 一方的にコメントするだけなら、SNSやはてなブックマークは簡便ですし、「数的優勢をもってブロガーやウェブマスターに圧力をかける」「オピニオンの多数決的優劣をつけあう」という観点でのコミュニケーションには適しています。しかし、マンツーマンでお互いの意図を推し量りながら双方向的にコミュニケーションするには適していません。短文に自説を圧縮するのも、短文から相手の意図を汲み取るのも、とても難しいことですよね。
 
 


 
 
 2018年7月20日の夜間にfujiponさんとズイショさんがtwitter上で交わしていたやりとりを見ても、双方向的なコミュニケーションに向いていないメディアだなぁ……とつくづく思いました。
 
 にも関わらず、ネットユーザー同士のやりとりが短文で済ませられるようになっているわけですから、巧くないコメントの応酬、ディスコミュニケーションの氾濫が起こるのは当然の帰結ではあります。きっと、短文カルチャーは思考のありようにも影響を及ぼしていることでしょう。短文で考え、短文でコメントするカルチャーは、長文で考え、長文を交換するカルチャーとは異なる人々をはぐくみ、異なる傾向へと導いていくと思われます。いや、現在のネットの風景は、その傾向が既にできあがったものかもしれません。
 
 

1を読み10を知る者もいれば、何も読み取れ(ら)ない者もいる

 
 それに、短文~長文というネットメディアの特質を抜きにしても、「ちゃんと読まれ、応答になっているコメント」というのは簡単に成立するものではありません。
 
 まず、読解力には大きな個人差があります。
 
 筆者の意図や文章の論旨を95%ぐらいの確率で読み取れる人もいれば、25%ぐらいの確率でしか読み取れない人もいます。そもそも、論旨とか主旨とかいう概念が欠如している人だって今日日のネットユーザーには多いでしょう。「ネットの読者の少なからぬ割合は、センター試験の国語で120点取れない」ことは、前提として忘れてはならないように思います。
 
 加えて、コメントを書く人のなかには、読解したい人もあれば、ぜんぜん読解したくない人だっています。
 
 文章を読んでコメントしたいのでなく、ただタイトルにかこつけて自分が言いたいことをコメントしていくだけの人なんてごまんといるじゃないですか。本来は読解力がある人でも、気分や状況によっては「タイトルだけ読んで自分の書きたいコメントを書く」ことがあってもおかしくはありません。それを禁止すべきでもないでしょう。
 
 読解力に個人差があり、読解したい人もしたくない人も集っているとしたら、SNSやソーシャルブックマークのコメントが多種多様になるのは一つの必然です。必然だから良い、と言いたいわけではありませんが、必然ではあります。本来は居酒屋の毒舌やテレビの前のつぶやきで済んだはずの言葉までもが、一覧になったり、クソリプの山になったりするのが、今のインターネットですから。
 
 fujiponさんは「はてなブックマーク」を殊更に批判しておられるけれども、この問題は、インターネット全体にもほとんど言えることで、たとえば90年代のインターネットにだって「話の通じない人」はそれなりに存在していました。だから、はてなブックマークが廃止されなければならないとしたら、ほとんど同じ理屈でインターネットも廃止するか、インターネットを選民制度にしなければならないのではないでしょうか。
 
 それでも、はてなブックマークに絞って問題点を考えるなら、私は、「はてなスター」が悪く働いているように考えています。はてなスターは、ブログ記事とブックマーカーとの双方向的なコミュニケーションを促すより、ブックマーカー同士の党派性を助長し、「はてなブックマークというメディア上で目立つ」ことを促しているように見えるからです。
 
 本来、穏やかな目的に供されるはずだったはてなスターが、ユーザーの攻撃性を煽るメカニズムと化しているとしたら、痛ましい限りです。
 
 また、多くの方が指摘しているとおり、現在のidコールの仕様にも問題があるように思います。
 
 はてなスターやidコールといった仕様をこれからどうしていくのか。私は、(株)はてな の内部の人に真剣に考えていただきたいと願っています。
 
 

「コメントできること」のかけがえのなさ

 
 さて、ここまで書いた文章を読み返すと、「ああ、結局私もfujiponさんにかこつけて自分が書きたかったことを書いただけだなぁ……」と思い至らずにはいられません。ブログ記事にブログ記事をリンクしたからといって、この出来事が双方向的なコミュニケーションになっているのか自信がありません。
 
 ただ、ブログとブログ、SNSとSNSでもそうですが、言葉に言葉が重ねられるということには、一種のかけがえのなさがあり、こうやって言葉を交わせること自体を私は否定したくありません。
 
 最近、とある旧はてなダイアリーユーザーの方とメールでやりとりした際に、「それでも言葉を放てるというのは、強いことです」といった主旨のご意見をいただきました。私も同感です。
 
 何かを言えること・何かを表現できることは、強いことです。これは、逆を考えてみるとすぐにわかるはずです。何も言えないこと・何も表現できないことは弱い。言葉や表現がすべてのインターネットにおいては、とりわけそうでしょう。
 
 たとえば、何百何千とリツイートされた文章にクソリプが連なること自体は悲しいことですが、クソリプしか書けないような人でもクソリプが書けること自体は、ほんらい、尊ぶべきことではないでしょうか。
 
 インターネットのおかげで、これまでの社会では沈黙するしかなかった人々にも言葉や表現が与えられました。独裁国家のような国ならともかく、表現の自由を良しとする国では、そのことはまず尊ぶべきことです。見事な文章が書けるような人、影響力のある人だけが声をあげられ、そうでない人からは声を剥奪するなんてことは、あってはならないように思います。はてなブックマークにしても同様です。読解力も読解意図も欠いている人のコメントがそびえたつクソの山を作るのは悲しいことですが、読解力も読解意図も欠いている人でもコメントしてそびえたつクソの山を作れること自体は否定しがたい、というのが今日の私の意見です。
 
 むろん、はてなブックマークをはじめ、個別のネットメディアには改善すべき問題はたくさんあります。うんざりすることや偏っていることもたくさんあるでしょう。コメント言いっぱなしばかりを助長し、双方向的コミュニケーションが志向されにくいネットメディアの現アーキテクチャにも、個人的には言いたいことが無いわけではありません。
 
 それでも、こうやって私達がブログを書けていることや、誰でも気軽にコメントできること自体は、原則として尊く、かけがえのないことのはずなんです。たとえ人が集まり過ぎてガンジス川の川辺のようなカオスな風景が現れたとしても、インターネットで書けること・表現できることに救われた人間は、その出発点を忘れてはいけない──そんなことを今日はやけに思い出したものですから、私は書きたいことを書きました。
 
 
 [関連]:はてなブックマークの多様性は、そんなに馬鹿にしたものじゃない - シロクマの屑籠(なにぶん5年前の文章なので、いささか楽観的ではありますが)